お蔵入りエッセイ第2弾。
「田舎が退屈」と感じる人はアンテナが鈍い人だ。文明によって与えられる遊び場でしかあそべない哀れな人たち。自分一人ではなにもできない人たち。
田舎暮らしにともなって、都会人がおそれるモノのひとつは、「文化度の低下」ではないだろうか。都市にいれば、新作の映画、おいしいレストラン、好きな歌手のコンサート。これらは、お金さえ出せばいつでも見ることができる。地方ではそういうわけにはいかない。いかに、文化レベルを保つか、それが問題かもしれない。
しかし、以前取材した方にはこんな方もいた。東京まで1時間半。考え方によっては、地方とは呼べないのかもしれない。本人たちも「好きなコンサートがあれば、半日で行ってこられる」という。また、それが、一度都市で暮らした者が味わいがちな「都会から遠く離れてしまった」という孤立感につながらずに済んでいると語る。
そうしたせいか、彼らはとても山奥(という言葉はちょっと不適正かもしれないが・・・)で生活している人には見えない。僕らが訪れたときも、タイトなジーンズに、セーターや革のジャケットという姿でなにげなく出迎えてくれ、コーヒーミルで挽きたての薫り高いエスプレッソを入れてくれた。そして、家のあちこちにかかっているジャズアーティストたちの写真や造形作家たちによって作られたステンドグラスやテーブル、薪ストーブなどに加え、静かに響いているクラシックやジャズのレコード。この部屋をそのまま都市に持ってきてもなのその姿を見ていて浮かんだのは「文明的な野外人」という言葉。なにか矛盾しているようだが、芸術や文化を解し、さらにたくましさも兼ね備えた人々。しかし、そんなことを思い浮かべながら、むしろ僕の感覚が間違っているのかもしれないとも思った。真の文明人は、水や空気のよいところでないと生きられない。毎朝顔を洗うたびに鼻をつまみたくなるような塩素まみれの水や、何万人もの喘息患者を出すほどに汚れた空気のもとで生きていられる自分のほうこそ、野蛮人なのではないかと。
現在、田舎暮らしをする人にとって、もっともその価値を享受できるのはインターネットの普及だろう。膨大な情報が瞬時に得られるのはまことにありがたい。さまざまなショッピングができるだけでなく、有料で音楽や活字を背信してもらい、パソコンで聞いたり、小説を読んだりできる。さらに、オンライン上のテレビ番組もあるほど。もっとも、これだけではない。
日本人は田舎で生活している人の割合が少ない。しかし、欧米では、貧富を問わず、田舎での暮らしを楽しんでいて、しかもコンプレックスを持っていない人が多い。フランスの農家などその典型と聞く。彼らの食文化へのこだわりは並々ではない。
日本では、流行は都市から始まり、少し時間をおいて地方へと伝わってゆく一極的な文化形成が行われている。リゾートの楽しみ方も顕著だ。欧米の人たちは長い休みには一カ所のリゾートに長期滞在し、のんびりと本でも読みながら過ごしたりする。対照的に日本人は休みが短いせいもあり、短期化にあちこち回ろうとする。一カ所にいると退屈してしまう。これは楽しみ方を知らないだけなのではないだろうか? 本当に楽しみかた、自分なりの時間の使い方を知っていればあんなスタイルの旅行はとうていできないはずだ。自分の遊び場を自分の手で壊してきてしまった。日本の文学には自然を賛美した作品がほとんどないという。万葉集のなかに、庭園を詠った歌がわずかにあるだけらしい。欧米には古くから自然賛歌の作品があった。さらに、相次ぐ自然破壊。日本人は本当に自然が好きなのだろうか?ここに日本人が、「田舎→やることない→退屈」とおいう構図を作ってしまい、都会での生活を選んでしまう根本があるようでならない。つまり、こうだ。都会では受動的な姿勢でいても楽しめる。カラオケ、ゲームセンター、遊園地お金を支払えば楽しませてくれる場所がたくさんある。逆に、田舎で楽しみは自分で見つけるしかない。歌いたければ、自分で楽器を練習する。おいしい食事が食べたければ料理の腕をみがく、欲しいものは自分でつくる。用は心持ち次第ではないのだろうか?自分の暮らしを楽しもう、自分で生活を作り出そう。
それこそがこの雑誌がもっともいいたいことでもある。
「田舎が退屈」と感じる人はアンテナが鈍い人だ。文明によって与えられる遊び場でしかあそべない哀れな人たち。自分一人ではなにもできない人たち。
田舎暮らしにともなって、都会人がおそれるモノのひとつは、「文化度の低下」ではないだろうか。都市にいれば、新作の映画、おいしいレストラン、好きな歌手のコンサート。これらは、お金さえ出せばいつでも見ることができる。地方ではそういうわけにはいかない。いかに、文化レベルを保つか、それが問題かもしれない。
しかし、以前取材した方にはこんな方もいた。東京まで1時間半。考え方によっては、地方とは呼べないのかもしれない。本人たちも「好きなコンサートがあれば、半日で行ってこられる」という。また、それが、一度都市で暮らした者が味わいがちな「都会から遠く離れてしまった」という孤立感につながらずに済んでいると語る。
そうしたせいか、彼らはとても山奥(という言葉はちょっと不適正かもしれないが・・・)で生活している人には見えない。僕らが訪れたときも、タイトなジーンズに、セーターや革のジャケットという姿でなにげなく出迎えてくれ、コーヒーミルで挽きたての薫り高いエスプレッソを入れてくれた。そして、家のあちこちにかかっているジャズアーティストたちの写真や造形作家たちによって作られたステンドグラスやテーブル、薪ストーブなどに加え、静かに響いているクラシックやジャズのレコード。この部屋をそのまま都市に持ってきてもなのその姿を見ていて浮かんだのは「文明的な野外人」という言葉。なにか矛盾しているようだが、芸術や文化を解し、さらにたくましさも兼ね備えた人々。しかし、そんなことを思い浮かべながら、むしろ僕の感覚が間違っているのかもしれないとも思った。真の文明人は、水や空気のよいところでないと生きられない。毎朝顔を洗うたびに鼻をつまみたくなるような塩素まみれの水や、何万人もの喘息患者を出すほどに汚れた空気のもとで生きていられる自分のほうこそ、野蛮人なのではないかと。
現在、田舎暮らしをする人にとって、もっともその価値を享受できるのはインターネットの普及だろう。膨大な情報が瞬時に得られるのはまことにありがたい。さまざまなショッピングができるだけでなく、有料で音楽や活字を背信してもらい、パソコンで聞いたり、小説を読んだりできる。さらに、オンライン上のテレビ番組もあるほど。もっとも、これだけではない。
日本人は田舎で生活している人の割合が少ない。しかし、欧米では、貧富を問わず、田舎での暮らしを楽しんでいて、しかもコンプレックスを持っていない人が多い。フランスの農家などその典型と聞く。彼らの食文化へのこだわりは並々ではない。
日本では、流行は都市から始まり、少し時間をおいて地方へと伝わってゆく一極的な文化形成が行われている。リゾートの楽しみ方も顕著だ。欧米の人たちは長い休みには一カ所のリゾートに長期滞在し、のんびりと本でも読みながら過ごしたりする。対照的に日本人は休みが短いせいもあり、短期化にあちこち回ろうとする。一カ所にいると退屈してしまう。これは楽しみ方を知らないだけなのではないだろうか? 本当に楽しみかた、自分なりの時間の使い方を知っていればあんなスタイルの旅行はとうていできないはずだ。自分の遊び場を自分の手で壊してきてしまった。日本の文学には自然を賛美した作品がほとんどないという。万葉集のなかに、庭園を詠った歌がわずかにあるだけらしい。欧米には古くから自然賛歌の作品があった。さらに、相次ぐ自然破壊。日本人は本当に自然が好きなのだろうか?ここに日本人が、「田舎→やることない→退屈」とおいう構図を作ってしまい、都会での生活を選んでしまう根本があるようでならない。つまり、こうだ。都会では受動的な姿勢でいても楽しめる。カラオケ、ゲームセンター、遊園地お金を支払えば楽しませてくれる場所がたくさんある。逆に、田舎で楽しみは自分で見つけるしかない。歌いたければ、自分で楽器を練習する。おいしい食事が食べたければ料理の腕をみがく、欲しいものは自分でつくる。用は心持ち次第ではないのだろうか?自分の暮らしを楽しもう、自分で生活を作り出そう。
それこそがこの雑誌がもっともいいたいことでもある。