風に訊け

日々の考え、趣味のサッカー、釣り、読書、音楽、アウトドアなどについてエッセイ風に綴りたいと思います。

田舎は退屈か?

2006年03月24日 | 釣り
お蔵入りエッセイ第2弾。


「田舎が退屈」と感じる人はアンテナが鈍い人だ。文明によって与えられる遊び場でしかあそべない哀れな人たち。自分一人ではなにもできない人たち。
田舎暮らしにともなって、都会人がおそれるモノのひとつは、「文化度の低下」ではないだろうか。都市にいれば、新作の映画、おいしいレストラン、好きな歌手のコンサート。これらは、お金さえ出せばいつでも見ることができる。地方ではそういうわけにはいかない。いかに、文化レベルを保つか、それが問題かもしれない。
しかし、以前取材した方にはこんな方もいた。東京まで1時間半。考え方によっては、地方とは呼べないのかもしれない。本人たちも「好きなコンサートがあれば、半日で行ってこられる」という。また、それが、一度都市で暮らした者が味わいがちな「都会から遠く離れてしまった」という孤立感につながらずに済んでいると語る。
そうしたせいか、彼らはとても山奥(という言葉はちょっと不適正かもしれないが・・・)で生活している人には見えない。僕らが訪れたときも、タイトなジーンズに、セーターや革のジャケットという姿でなにげなく出迎えてくれ、コーヒーミルで挽きたての薫り高いエスプレッソを入れてくれた。そして、家のあちこちにかかっているジャズアーティストたちの写真や造形作家たちによって作られたステンドグラスやテーブル、薪ストーブなどに加え、静かに響いているクラシックやジャズのレコード。この部屋をそのまま都市に持ってきてもなのその姿を見ていて浮かんだのは「文明的な野外人」という言葉。なにか矛盾しているようだが、芸術や文化を解し、さらにたくましさも兼ね備えた人々。しかし、そんなことを思い浮かべながら、むしろ僕の感覚が間違っているのかもしれないとも思った。真の文明人は、水や空気のよいところでないと生きられない。毎朝顔を洗うたびに鼻をつまみたくなるような塩素まみれの水や、何万人もの喘息患者を出すほどに汚れた空気のもとで生きていられる自分のほうこそ、野蛮人なのではないかと。
現在、田舎暮らしをする人にとって、もっともその価値を享受できるのはインターネットの普及だろう。膨大な情報が瞬時に得られるのはまことにありがたい。さまざまなショッピングができるだけでなく、有料で音楽や活字を背信してもらい、パソコンで聞いたり、小説を読んだりできる。さらに、オンライン上のテレビ番組もあるほど。もっとも、これだけではない。
日本人は田舎で生活している人の割合が少ない。しかし、欧米では、貧富を問わず、田舎での暮らしを楽しんでいて、しかもコンプレックスを持っていない人が多い。フランスの農家などその典型と聞く。彼らの食文化へのこだわりは並々ではない。
日本では、流行は都市から始まり、少し時間をおいて地方へと伝わってゆく一極的な文化形成が行われている。リゾートの楽しみ方も顕著だ。欧米の人たちは長い休みには一カ所のリゾートに長期滞在し、のんびりと本でも読みながら過ごしたりする。対照的に日本人は休みが短いせいもあり、短期化にあちこち回ろうとする。一カ所にいると退屈してしまう。これは楽しみ方を知らないだけなのではないだろうか? 本当に楽しみかた、自分なりの時間の使い方を知っていればあんなスタイルの旅行はとうていできないはずだ。自分の遊び場を自分の手で壊してきてしまった。日本の文学には自然を賛美した作品がほとんどないという。万葉集のなかに、庭園を詠った歌がわずかにあるだけらしい。欧米には古くから自然賛歌の作品があった。さらに、相次ぐ自然破壊。日本人は本当に自然が好きなのだろうか?ここに日本人が、「田舎→やることない→退屈」とおいう構図を作ってしまい、都会での生活を選んでしまう根本があるようでならない。つまり、こうだ。都会では受動的な姿勢でいても楽しめる。カラオケ、ゲームセンター、遊園地お金を支払えば楽しませてくれる場所がたくさんある。逆に、田舎で楽しみは自分で見つけるしかない。歌いたければ、自分で楽器を練習する。おいしい食事が食べたければ料理の腕をみがく、欲しいものは自分でつくる。用は心持ち次第ではないのだろうか?自分の暮らしを楽しもう、自分で生活を作り出そう。
それこそがこの雑誌がもっともいいたいことでもある。


昔書いた記事について

2006年03月23日 | 釣り
その庭には40年の月日が流れた。
高度成長期、多くの人が黄金郷を目指し、
資本主義の激流を遡ろうとしていく間も、
その青年はコツコツと苗を植え、種を蒔き、草を刈り、実を摘んだ。
理想の庭を信じて、それこそが人が生きる道だと信じて。
そして、橋の下を多くの水が流れた。
やがて時代が変わり、青年は初老の男になった。
彼はまだ、樹を植え続けている。
(自休自足vol.2)

上は私が元副編集長時代に書いたある特集のリードです。
自分でもいい文章だな~と思います(笑)。
ストイックで正直でいてなかなか美しい、
イマジネーション書き立てるものですね。

ちなみに激流のイメージは砂金を求めて人々が集まった1849年のゴールドラッシュから、
橋の下を~は開高健からいただきました。

訪れた森の中は、京都駅から電車で15分ほどのところにあって、すでに別世界でした。
これだから京都はすごいな、と感銘を受けたのを強く覚えています。
「オランウータン」とは「森の人」という意味だったと思いますが、まさに人間は森から生まれたのでしょう。
海にもぐったのと同様の静謐さを森の中で私は感じました。
そして、自宅の森の中で資源を循環させることや
、排水処理することや、太陽光発電にてエネルギーを自給することに、森から生まれた人間が、次の文明として、今度は森のエネルギーを科学的にリサイクルすることに深くインスピレーションされたのだと思います。

先日テレビを見ていたら、「もったいない」のワンガリ・マータイさんが出演していました。
そんな言葉を持ちながらどんどん資源を浪費してきたこの国は、いったい外国からどんな風に見られているのか、そこが気になって仕方ありません。
そして自分のライフスタイルについても同様です。
思想としては上の雑誌をやりつつ、そんなことを声高に唱えていつつも、ちょっと時間がないからと昼食には過剰包装の弁当を買ってしまう自分。これからの自分の生活は模索しなければなりません。