本書『写真で見る 大阪空襲』(ピースおおさか)は、
第二次世界大戦末期に何度となく執拗に大都市を絨毯爆撃したアメリカの空襲作戦を、その目標となったひとつの都市・大阪から見た記録だ。

本書にはヒロシマ・ナガサキのような想像を絶した恐ろしさはないし、東京大空襲の記録のような生々しい死体写真もない。
だがしかし。
かに道楽やグリコの看板、御堂筋や通天閣といえば大阪以外の人々でも景色が想像できると思う。そんな繁華街・大阪が、誇張や例え話ではなく本当の意味での「焦土《しょうど》」となっている、またはなりつつある瞬間の姿は読んでいて胸がつらいんだ。とても。
本書は税込み千円と安い本なのだけれど一般書店に出回っていない(ISBNコードも無い)。
ご購入はピースおおさか(受付)へ問い合わせるか、リンク先の提携している書店リストにあるお店まで。
解説によると、
大阪空襲の記録写真には、不思議なほど死体が写っていないのだそうだ。本書に収録された写真にも、馬の死体が一体写っているだけで人間の死体はまったくない。
これは本書の元になったピースおおさかに寄せられた記録写真からしてそうらしい。
ピースおおさかの記録写真の提供元は新聞社と街の写真館によるものがほとんどらしいのだけれど、あの日、彼らは死体の写真を意図的に撮らなかったのか、または撮ったことは撮ったけれど公表しなかったのか、はたまた死体写真だけを処分したのか。いまとなってはプロの研究員にもわからないらしい。
でも。
当たり前のことだけれど、写っていないからといってひとが死んでいないわけがない。
記録によると、第二次世界大戦末期の大阪空襲による死者は一万二千六百二十人、行方不明者は二千百二十七人にものぼる(→ピースおおさか:大阪空襲死没者名簿より)。あまり言いたくないけれど、時間の経過をふまえると行方不明者数も死者にカウントされる確率が高いだろう。
つまり、あわせて約一万五千人。
想像してみよう。
撮影した新聞社のカメラマンや街の写真館のオジさんにとって、大阪は「自分の街」だ。
自分たちの街が、黒煙を上げながらわずか数時間のうちに廃墟に変わる。親しいひとがおぞましい最後を遂げる。その瞬間、ファインダーを覗き、シャッターを押す気持ちとはどんなだったろうか。その手は震えていたんじゃないだろうか。手元がブレて何枚もダメにしたんじゃないだろうか。涙でファインダーがろくに見えなかったんじゃないだろうか。
それでも彼らは撮った。
撮ったあとも、戦時下で情報統制もあるだろうし、その写真が「士気を挫《くじ》く」と判断されたら持っているだけで「非国民」と言われたかもしない。撮るだけでもかなり危険だろうに、そのあと、新聞記者や写真館のオジさんは何十年も無言の戦いをしいられたんだ。
やがて平和になったあと、ピースおおさかに持ち込まれた写真の数々が本書となって僕たちに語ってくれているのがこの写真たちだ。
本書におさめられた惨状を目の当たりにしたら本当に心が折れると思う。折れた心は、そのまま相手を批判したくもなるだろう。でも、それじゃダメなんだ。
本書の中頃には、撃墜されたB29の残骸の写真がある(33ページ写真5ー4)。
この写真が語っているのは、
あの日、大阪で死んだアメリカ人がいたという事実だ。
想像してみよう。
彼(たぶん男性だろう)には両親や兄弟がいただろうし、恋人や子どもがいたかもしれない。敵国の空に侵入して爆弾を落とすわけだから、当然反撃の対象になっただろう。やらなきゃやられるわけだ。そして彼はやられた。
はたして彼は個人的に日本人を憎んでいたのだろうか?
日本人の頭の上に爆弾を落とすことを自分の意志でやっただろうか?
自分の決意で大阪の空まで来ただろうか?
でも彼はあの日、ココで死んだ。
おそらく最後の瞬間はそうとう恐ろしい目にあったことだろう。
大阪の市民もアメリカ人の彼も、あの日、そうやって必死に生きて死ぬしかなかったという事実がここに写されているんじゃないかと僕は思うんだ。だからといって僕はべつに「彼も怖かった。だから空襲されたことを許そう」と言いたいわけじゃない。僕の個人的な感覚としても自分の街が焼かれた事実は許せないし、大阪人はよく知っているであろう京橋駅の爆撃の話もある。あの話は本当に悲しいし大阪人として引くことはできない。っていうか、ぶっちゃけ、許せない。
でもこの「許せない」をどこに向けるのか。それを考えなければいけないと僕は思うんだ。
すくなくともあの日、墜落したB29の彼に向けて「ざまーみろ、いいきみだ」というのは間違っていると思う。そんなことをしていると、僕たちは未来永劫どこにもいけない袋小路に迷い込むことになるんじゃないかという気がするんだ。
こうやって偉そうに書いている僕自身もまだ確乎とした答えが出ていないのがなんとも情けないのだけれど、すくなくとも、これを受け取って想像することだけはやめてはいけないんじゃないかな。
僕はこんなふうに本書を読んだ。
……まだ胸が痛いよ。

本書のご購入はピースおおさか(受付)へ問い合わせるか、リンク先の提携している書店リストにあるお店まで。
●こんな本も
→『森田さんのなぞりがき 天気図で推理する[昭和・平成]の事件簿』森田正光・講談社
第二次世界大戦末期に何度となく執拗に大都市を絨毯爆撃したアメリカの空襲作戦を、その目標となったひとつの都市・大阪から見た記録だ。

本書にはヒロシマ・ナガサキのような想像を絶した恐ろしさはないし、東京大空襲の記録のような生々しい死体写真もない。
だがしかし。
かに道楽やグリコの看板、御堂筋や通天閣といえば大阪以外の人々でも景色が想像できると思う。そんな繁華街・大阪が、誇張や例え話ではなく本当の意味での「焦土《しょうど》」となっている、またはなりつつある瞬間の姿は読んでいて胸がつらいんだ。とても。
本書は税込み千円と安い本なのだけれど一般書店に出回っていない(ISBNコードも無い)。
ご購入はピースおおさか(受付)へ問い合わせるか、リンク先の提携している書店リストにあるお店まで。
解説によると、
大阪空襲の記録写真には、不思議なほど死体が写っていないのだそうだ。本書に収録された写真にも、馬の死体が一体写っているだけで人間の死体はまったくない。
これは本書の元になったピースおおさかに寄せられた記録写真からしてそうらしい。
ピースおおさかの記録写真の提供元は新聞社と街の写真館によるものがほとんどらしいのだけれど、あの日、彼らは死体の写真を意図的に撮らなかったのか、または撮ったことは撮ったけれど公表しなかったのか、はたまた死体写真だけを処分したのか。いまとなってはプロの研究員にもわからないらしい。
でも。
当たり前のことだけれど、写っていないからといってひとが死んでいないわけがない。
記録によると、第二次世界大戦末期の大阪空襲による死者は一万二千六百二十人、行方不明者は二千百二十七人にものぼる(→ピースおおさか:大阪空襲死没者名簿より)。あまり言いたくないけれど、時間の経過をふまえると行方不明者数も死者にカウントされる確率が高いだろう。
つまり、あわせて約一万五千人。
想像してみよう。
撮影した新聞社のカメラマンや街の写真館のオジさんにとって、大阪は「自分の街」だ。
自分たちの街が、黒煙を上げながらわずか数時間のうちに廃墟に変わる。親しいひとがおぞましい最後を遂げる。その瞬間、ファインダーを覗き、シャッターを押す気持ちとはどんなだったろうか。その手は震えていたんじゃないだろうか。手元がブレて何枚もダメにしたんじゃないだろうか。涙でファインダーがろくに見えなかったんじゃないだろうか。
それでも彼らは撮った。
撮ったあとも、戦時下で情報統制もあるだろうし、その写真が「士気を挫《くじ》く」と判断されたら持っているだけで「非国民」と言われたかもしない。撮るだけでもかなり危険だろうに、そのあと、新聞記者や写真館のオジさんは何十年も無言の戦いをしいられたんだ。
やがて平和になったあと、ピースおおさかに持ち込まれた写真の数々が本書となって僕たちに語ってくれているのがこの写真たちだ。
本書におさめられた惨状を目の当たりにしたら本当に心が折れると思う。折れた心は、そのまま相手を批判したくもなるだろう。でも、それじゃダメなんだ。
本書の中頃には、撃墜されたB29の残骸の写真がある(33ページ写真5ー4)。
この写真が語っているのは、
あの日、大阪で死んだアメリカ人がいたという事実だ。
想像してみよう。
彼(たぶん男性だろう)には両親や兄弟がいただろうし、恋人や子どもがいたかもしれない。敵国の空に侵入して爆弾を落とすわけだから、当然反撃の対象になっただろう。やらなきゃやられるわけだ。そして彼はやられた。
はたして彼は個人的に日本人を憎んでいたのだろうか?
日本人の頭の上に爆弾を落とすことを自分の意志でやっただろうか?
自分の決意で大阪の空まで来ただろうか?
でも彼はあの日、ココで死んだ。
おそらく最後の瞬間はそうとう恐ろしい目にあったことだろう。
大阪の市民もアメリカ人の彼も、あの日、そうやって必死に生きて死ぬしかなかったという事実がここに写されているんじゃないかと僕は思うんだ。だからといって僕はべつに「彼も怖かった。だから空襲されたことを許そう」と言いたいわけじゃない。僕の個人的な感覚としても自分の街が焼かれた事実は許せないし、大阪人はよく知っているであろう京橋駅の爆撃の話もある。あの話は本当に悲しいし大阪人として引くことはできない。っていうか、ぶっちゃけ、許せない。
でもこの「許せない」をどこに向けるのか。それを考えなければいけないと僕は思うんだ。
すくなくともあの日、墜落したB29の彼に向けて「ざまーみろ、いいきみだ」というのは間違っていると思う。そんなことをしていると、僕たちは未来永劫どこにもいけない袋小路に迷い込むことになるんじゃないかという気がするんだ。
こうやって偉そうに書いている僕自身もまだ確乎とした答えが出ていないのがなんとも情けないのだけれど、すくなくとも、これを受け取って想像することだけはやめてはいけないんじゃないかな。
僕はこんなふうに本書を読んだ。
……まだ胸が痛いよ。

本書のご購入はピースおおさか(受付)へ問い合わせるか、リンク先の提携している書店リストにあるお店まで。
●こんな本も
→『森田さんのなぞりがき 天気図で推理する[昭和・平成]の事件簿』森田正光・講談社