英語と書評 de 海馬之玄関

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岩波書店『カント全集』完結♪

2006年08月12日 03時06分43秒 | 書評のコーナー

去る7月27日、予約購読していた『カント全集 』(岩波書店)の最終巻『第6巻:純粋理性批判(下) プロレゴーメナ』が出版された。公私多忙のおりではあるが昨日やっと読了。といっても、ドイツ語原典と対照しながら真面目に読んだのは(私は、カッシーラ版の『カント全集』と Philosophische Bibliothek「哲学叢書」のアカデミー版を手許に置いて使っているだけだけれど)、『プロレゴーメナ』の部分のみ(笑)。

いずれにせよ、これで20世紀の終わりに近い1999年12月15日の第1回配本『第8巻 判断力批判(上)』から足掛け7年を要して全22巻+別巻1冊の合計23巻の刊行が終了したことになる(この全集の詳細に興味のある方は下記URLで確認されたい)。著者の皆さん、岩波書店の皆さんお疲れ様でした♪ と、一応は書いておこう(笑)。

http://www.iwanami.co.jp/search/index.html


日本語の『カント全集』の完結は、大東亜戦争前の同じ岩波版『カント著作集』、そして、大東亜戦争後の理想社版『カント全集』(1965年9月配本開始)を含め3弾目だ。この『カント全集』の詳しい書評は第2ブログで後日書こうと思う。而して、ここではこの『カント全集』にまつわるある雑感を記しておく。それは翻訳の品質ということと戦後民主主義的な商売のトンデモなさについてである。

良い翻訳とはどういうものか? こんどの全集は間違いなく読み易いと思う。もちろん、岩波文庫に収録されている、「これ本当に日本語?」と誰もが首を傾げたくなるような訳などは今時論外としても(例えば、同じ『プロレゴーメナ』でも篠田英雄さんの訳書(1977年10月)と今回の全集を読み比べてみられよ!)、私の師匠筋にあたる先生方が訳された中央公論社『世界の名著 39巻 カント』(ペーパーバックス版の出版が1979年4月、ハードカバー版の『世界の名著 32巻 カント』は1972年12月の上梓。尚、これらを底本とする中公クラシックス版『カント プロレゴーメナ 人倫の形而上学の基礎づけ』は2005年3月10日の陸軍記念日あるいは松田聖子さんの誕生日の出版)の達意の訳に比べても数段こなれた日本語に移し替えられている。

ただ、そうなると逆に、「文章の意味はわかるがテクスト本体の意味が理解できない」という残酷な事実が露になってくる。そうなれば、実に、「非合理がゆえに我信じる」という境地もなにかわかるような気がしてくるではないか。要は、外国の思想が理解できないのを翻訳のせいにはできなくなるということだ。

私は、岩波文庫の篠田英雄訳は、到底、その訳本だけでカントを理解できるとは思わない。断言できる。しかし、では今次の岩波版『カント全集』では翻訳書だけでカント理解が可能なのだろうか・・・・・・? 多分、無理ですね?

やっぱ、カントは原書で、少なくとも英訳で読まない限り理解はできんです。冠飾句や複文の組み合わせによって、1センテンスが(KABU&寛子さんの<言語学取説>によれば、「英語・ドイツ語におけるセンテンス」とは「大文字から始まって、ピリオド/疑問符/びっくりマークまでの文字列のこと」と書いてある)、1ページから1ページ半に及ぶことも稀ではないカント(1724-1804年)の文体は、やっぱ、原文を読まなければ理解できない。そう、私は考えている。

ならば。パラドキシカルながら、原書を傍らに置いて読む際の<参考資料>というのが、カントの翻訳書の役割とするならば、先程罵倒した篠田訳の『プロレゴーメナ』やその前身である桑木厳翼・天野貞祐共訳の『プロレゴーメナ』(岩波文庫・1927年)も満更捨てた物ではないのではないか。少なくとも、西田幾太郎や丸山真男、廣松渉や鈴木大拙、あるいは、吉本隆明に代表される所の、それが使うオドロオドロシイ用語の虚飾を剥ぎ取る時、単にフランスやドイツの高校や学部の教科書程度の主張を展開しているに過ぎない輩の著作に比べれば、篠田英雄・向坂逸郎・城塚登の訳業の功績はもっと評価されてしかるべきと私は考える。

・書評☆向坂逸郎『わが資本論』

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/574c17907678afa3edde3aa431ec9cda


私は今回の『カント全集』の配本に関してはかなり岩波書店に不満を持っている。簡単な理由だ。刊行完結までどれくらいかかったの、と。本全集の配本開始は1999年12月である。で、全22巻+別巻1冊の合計23巻の配本;而して、手許にある「配本開始案内」によれば「毎月1冊の配本予定」だったのだ。「予定は未定」にせよ、遅くとも2002年(←前回のサッカーワールドカップの年だよ!)には完結しているはずの全集企画なのである。それが、2006年7月27日にずれ込んだ。あのー、こんな納期の遅れは普通のビジネスでは許されないですよ、岩波書店さん。

実は、私は何度か岩波書店にコンプレイーンと事情説明を求めるメールを送っている。武士の情けでここではその返事のメールは開示しないけれども、概略、岩波書店の返答は次の3点だった。

・配本が遅れて申し訳ない
・各翻訳者にとってもこの訳業は研究者としての最大級の業績となるものであり、十分な校正の時間と機会を与えざるを得ない

・そのように各翻訳者に思ってもらえる企画を実現できる出版社はそう多くなく、配本が遅れて予約購読者には申し訳ないが、担当社員一同できるだけよい作品をお届けする一心で鋭意努力中である、と。


このような理由を受け入れて借金返済を待ってくれる金融機関があれば是非紹介していただきたいものだ。ご存知の方も多いと思うけれど、岩波書店の全集配本は完全予約制が基本である。例えば、個別『カント全集』の場合、2000年3月15日までに全巻の予約申し込みをしない限り(配本開始が1999年12月であるから)第5回配本以降の入手は保証されないことになる。で、1冊5000円以上の買い物。あのね、と私は岩波書店にメールした。

地元の書店で予約した場合、そして、出張で3ヶ月、日本を空ける場合(配本が不定期といえども)、こちらに悪気がないとしてもその予約を取り次いでくれた書店は最低でも15000円の損を被るリスクを負うことになる;そんな状況が頻発すれば(御社は、世界に冠たる岩波様だから痛くも痒くもないでしょうが)、私とその取次ぎ書店との関係は危うくなりますよ。それも承知で「各翻訳者にとってもこの訳業は研究者としての最大級の業績となるものであり、十分な校正の時間と機会を与えざるを得ない」「そのように各翻訳者に思ってもらえる企画を実現できる出版社はそう多くなく、予約購読者には申し訳ないが、担当社員一同できるだけよい作品をお届けする一心で鋭意努力中である」とか仰っているのでせようか、と。


このメールに対する返事はついにこないまま今回の『全集』完結を迎えた。朝日新聞と並んで、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力の代表格、岩波書店のカスタマーサービスの程度は所詮この程度のものなのだ。いわせてもらえば、岩波書店のCS意識もその程度ということであろう。

けれども、『カント全集』に罪はない(We, or  you don't have anything against the work?)。今回、公私多忙&多難の中、『第6巻:純粋理性批判(下) プロレゴーメナ』を通読してあらためてそう思った;実に、「よい作品を届け」ていただいたと感謝している。本心からそう思う。だからこそ、岩波書店に拠る有為の社員の方々には今後も頑張っていただきたい。これは私の正直な気持ちであり、それがこの「辛口」コメントの趣意に他ならない。而して、この思いを敷衍する意味もあり、5年近く前に書いた文章を自家原稿転載する(このBLOGの本家サイトの日記コーナーでアップロードしたもの)。このエントリー記事に目をとめていただいた皆様、『カント全集』、機会があれば是非お読みください。推薦します。



●2001年11月4日(日曜日) 人生最大の楽しみではないけれど
昨日は久しぶりに夫婦で部屋の片付けとかした。寛子ちゃんは『ドリトル先生/Dr. Dolittle』ビデオを見て夜更かししていたが、京都に日帰り出張のために10時過ぎに出撃。私は、注文していた書籍をピックアップに新百合丘の駅ビルの本屋さんに行った。『カント全集』である。第12回配本、第3巻「前批判期論集3」である。

別に知識自慢やインテリ自慢ではない。今時、インテリさんなんか「ダッセー」でしかないだろうし、今更、カントなんか「ウザイ」と言われるのが関の山さね。

最近は、哲学と言えば分析哲学しか読んでいない。そういえば、80年代にあれだけ流行ったポスト構造主義はどこに行ったのかね。何々主義というのは哲学の場合あまり意味がないのかな? 

しかし、私にとってカントは特別である。別に、昔と違い(こちらも大人になったからか?)、誰彼なしに押し売りしたりはしないけれど、カントを読むと落ち着くし元気になる。特に、今回は、「神の存在の唯一可能な証明根拠」(Der einzig mögliche Beweisgrund zu einer Demonstration des Daseins Gottes)の新訳が収録されている。「単なる理性の限界としての宗教」(Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft)と並んで昔、結構真剣に読んだテクストである。

カントを買った勢いで、諸星大二郎『西遊妖猿伝』第9巻~16巻と『栞と紙魚子と夜の魚』を購入した。これも読むのが楽しみ。人生の最大の楽しみは、『論語』の「学而編」の冒頭の2句に書かれていると思う。即ち、

学而時習之
不亦説乎
有朋自遠方来
不亦楽乎
人不知而不慍
不亦君子乎


昔、勉強したこととか、毎日、ルティーンで処理している知識をあるときまとめて復習すること。これは、楽しい。そして、「学而時習之」よりも更に楽しいのは、親兄弟や気のおけない友人と久しぶりに合って昔話や現在の互いの関心事についてあれこれ話し合うこと、「有朋自遠方来」である。このような楽しみを悦び楽しむために日々の労働や責務を果すのが人生なのかもしれないよね。

今日は、朝日新聞の批判も、サッカーも将棋も囲碁もお休みにして、人生の最大の楽しみではないが三番目の悦楽「学而時習之」を堪能しよう。人生も世間も秋でんな。今日はここまで。

 

 

松任谷由実 - 翳りゆく部屋 LIVE Ver.
https://youtu.be/51RskF-PHH4


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