◆『TOEFL・TOEICと日本人の英語力 資格主義から実力主義へ』
鳥飼玖美子(講談社現代新書・2002年4月)
本書は鳥飼玖美子さんの警醒慷慨の書です。鳥飼玖美子さん(立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科教授)と言えば、私の世代の者には、バイリンガルのカワイイ&カッコイイお姉さんという印象が強い;誤解と後難をおそれず申し上げれば、アグネスチャンさんとあまり変わらない一種の芸能人という印象さえあります。けれども、鳥飼さんは上智大学在学中から同時通訳や翻訳の実務経験を積まれ、それらを踏まえた彼女の英語論や英語教育論には日頃から納得できる部分も少なくありませんでした。例えば、『歴史をかえた誤訳 ― 原爆投下を招いた誤訳とは!』(新潮OH!文庫・2001年5月)などは英語教育に携わっている者の必読書ではないかと思っています。そして、本書も共感をもって読み終えました。そうなのです、
鳥飼玖美子=カワイイ&カッコイイ&カシコイ♪
『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』の主張は概略次の5点だと思います。
①試験で測定できる英語力と実際の英語運用能力にはギャップが生じる
②TOEIC・TOEFL等の各試験はその目的が異なっており測定される英語力も違う
③TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育が目指してきたもの(文法・語彙、イデオム・構文の知識の定着)は意外と近い
④TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない
⑤TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さである
KABUは鳥飼さんほど流暢に英語を話せるわけでもありませんし、多様なジャンルの英語を翻訳したり通訳した経験もありません。しかし、20年近くTOEFL・TOEIC、GRE・GMAT・LSAT、SAT・ACT等の英語の試験対策に関わった経験から、私は鳥飼さんの主張の総てに同意できます。
世界的に見た場合、「日本人の英語力は低い」としばしば語られます。確かに、日本人のTOEFLの平均点は低いですし、(受験者の大多数が日本人である)TOEICのスコアでも同様の結果がでています。詳細はTOEFL・TOEICを制作実施しているETS(Educational Testing Service:1947年に設立された米国の公共的教育機関)のサイトをご参照ください。
・Research-Related Publications:TOEFL
・Research-Related Publications:TOEIC
日本人の英語力は低いのか? TOEFLの平均スコアを根拠にして「日本人の英語力は低い」とする主張に対してはいろんな反論がなされています:各国の人口比を加味したとしても受験者数に数倍から数十倍の開きがある平均点の比較に統計上どんな意味があるというのか:受験者数の差は「試しに/話の種に/留学する友人の付き合いでTOEFLを受験する」層が日本ではむしろ多数であるのに対して、諸外国では(特に、非先進国では$140の受験料が馬鹿にならないから)米国留学に人生を賭けているような、よって、十全な準備をした者が受験者の中核であることを示してはいないだろうか:TOEFLの平均スコアが低いとしても、米国の学部や大学院に進学した日本人の成績(★)が他の国や地域からの留学生に比べて特に低いということはないのだから、それは(科目や専門の知識が入学前に十分備わっているとかのノイズ要因を除外しても)日本人の英語力が数値で示されているほどは低くないことの証拠ではなかろうか、等々。
★註:米英の成績・GPA
GPA(Grade Point Average)は通常、2.0-4.0の範囲の数値で表わされる学業成績の指標です。日本ではICU(日本で最も社会人として使い物にならない英語ができる卒業生を輩出することで日本企業の人事担当者のコミュニティーでは有名な大学です)や上智大学の成績表示に使用されていますが、米国では高校・大学・大学院の一般的な成績表示システムです。
その数値は、履修した各科目の単位数に各々の評価を掛けて、その和を求め、最後に履修総単位数で除した加重平均値です。例えば、法学概論が4単位で優(4×4=16)、体育実技は2単位で可(2×1=2)、日本の近代化と同志社大学は3単位で良(3×3=9)・・これらの積の合計を取得総単位数で割ると、分子は、16+2+9+・・、分母は4+2+3+・・であり、2.0以上で4.0以下の数値の範囲でGPAが算出されます。
留学志望者を抱える高校の先生方からよく寄せられる質問は、「うちの高校は、5段階評価なんですけど、評価の各段階を何点とカウントすればいいのですか?」、「灘高のGPAと例えば東京都立葛西南高校のGPAは同じに扱われるのですか?」等々です。前者も留学情報雑誌に書いてあるほど実は簡単ではなく、まして、後者の問題は、いわば学校間格差の処理であり奥が深いです;それはいわば<留学カウンセラー中級>認定試験レヴェル(?)の難易度の問題です。これらの説明には欧米の大学制度に関して若干の予備知識が必要なので説明は割愛させていただきますが、機会があれば今後このブログでもご紹介したいと思います。
日本人の英語力は低くないのか? この解答は「Yes and No」だと思います。やはり、TOEFLやTOEICの平均スコアが極めて低いことは事実として認めるべきでしょう;いくら、日本人のTOEFL受験者の多数が「試しに/話の種に/留学する友人の付き合いでTOEFLを受験」しているにしても、英語や米国に全く興味のない方が英語の資格試験を受けることもないでしょうし;日本人の中で英語に興味のある部類の方の英語力の指標としてこれらの平均点を見た場合、その数値はかなりミゼラブルであることは否定できないからです。つまり、他の国との比較はあまり意味がないにしても、絶対評価として見た場合、日本人の英語力には問題があり、求められる水準に比べれば「日本人の英語力は低い」と考えるべきであろう。と、私はそう思っています。
日本人の英語力は低いのか? に対する解答は「Yes and No」である。この結論に、おそらく本書の著者・鳥飼玖美子さんも同意されると思います。それは、鳥飼さんが、「資格試験で測定できる英語力と実際の英語運用能力にはギャップがある」、「TOEIC・TOEFL・IELTS等の各試験はその目的が異なっており測定される英語力も違う」を認めた上で、現在の日本の英語教育に対する激しい憤りを表明されていることからも推測できるのではないでしょうか。
ここが本書のポイントだと思いますが、現在の日本の英語教育への鳥飼さんの批判は、英会話というかオーラルコミュニケーション重視の立場からの現行英語教育への批判ではなくて、英語の基礎基本の養成をおざなりにした(うわべだけの)、国際人育成なるものを目指した英語教育の改革に向けられている。また、その批判は、国際化とグローバル化が日々加速する現在、そこで生きていくしかない日本人にとっての必須の能力の一つであろう英語力を、<バイリンガル幻想>とでも言うべきものにスポイルされた英語教育が崩壊させ棄損しているという危機感に基づいているのではないか。私は本書を読んでそう感じました。
実際、「TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育の目指すものは意外と近い」、「TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない」、「TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さ」なのです。本書でも取り上げられていることですが、英文法や英文読解をしっかり学習した世代とそれ以後の世代のTOEICやTOEFLのスコア、スコアアップに要する時間の差は、指導の現場で観察する限り歴然としています。
中央教育審議会が打ち出した「新しい学力観」に基づく89年の学習指導要領が学校現場に導入される以前に高校教育を終了した方々(現在、34歳以上の世代)とそれ以後の方々では、文法や単語、イデオムや構文など、英語の基礎体力の違いは歴然です。これはリーディングプロパーの問題ではない。TOEFLでもTOEICでも、リスニングセクションといえども選択肢や設問の英文を速く正確に読んで理解できなければ正解はできないですし、聞き取りや会話そのものでも知らない単語は聞き取れませんし話せないのですから。
六本木や横須賀の街でカッコヨク&カワイク英語が話せることと、英語圏で高等教育を修了し英語でビジネスを遂行できることには大きな差があります。要は、お客さんに要求される英語力と営業マンに要求されるそれとは異なるのです。日常の生活をおくるために自分の意思が伝わればよいというシチュエーションをデールするのに必要な英語力とビジネスやアカデミックな領域で成果をあげ尊敬を勝ち取るための英語力には歴然とした差があります。
考えてみてください。渋谷や池袋にたむろする女子高生でもとりあえず日本語は話せる(と信じたい?)。けれども、例えば、彼等に新聞の社説を読んでもらい、「400字原稿用紙1枚にこれを要約して、次に原稿用紙2枚でこの社説に対する自分のコメントを書いてください。制限時間は30分。辞書持込可」と言えば、同じ女子高生でも個々人の力量差は凄まじいものになるでしょう。そして、この程度の作業を他人様に見てもらっても恥ずかしくない水準で完遂できるのでなければ;その作業を処理できる日本語の理解力と日本語での表現力がなければ、日本でも大学院を卒業したりビジネスで成功することは難しいと思います。
この事情は米国でも同じです。つまり、(スペイン語を母語とする一部の人々を除き)アメリカ人の大部分が英語を話せるとしても、米国社会の中で立派にビジネスを遂行し、大学・大学院教育を通じて平均以上のGPAを取得するのはむしろ少数派なのですから。ならば、米国に8年住もうが18年住もうが平均的なアメリカ人以上の英語力が、米国社会に住むだけで身につくはずはないのです。そして、住むだけで身につけられるタイプのそのような英語力を日本の公教育で子供達に提供する意味がいかほどあると言うのでしょうか?
英語圏に住むだけで英語は身につくし、そこで身についた英語力は日本の受験英語とは違い英語でコミュニケーション可能な本物の英語力である。といういわば<バイリンガル幻想>は幻想にしかすぎません。そして、<バイリンガル幻想>の打破と本当の本物の英語力の紹介、かつ、そのような本物の英語力を(英語力が必要な)一人でも多くの日本人に身につけてもらうために実行可能な施策の提示、これが本書『TOEFL・TOEICと日本人の英語力』で鳥飼玖美子さんが行おうとされたことではないか。私にはそう思われました。
社会人や大学生の英語教育に携わっている方の多くは、マスコミや一部の英会話学校主導の受験英語批判や英会話推進論、留学万能論にはかなり懐疑的だと思います。もちろん、受験英語批判の底には長年にわたるオーラルコミュニケーション軽視への反動があると思う。それは大切な批判でしょう。しかし、「和訳中心の無味乾燥な暗記科目」という英語教育は現在では公教育においてもむしろ例外です。鳥飼さんの怒りがここでも炸裂しているように、現在の英語教育論の少なからずは論者が受けられた20年から30年以上前の学校教育のイメージに基づいて行われていることは噴飯ものでしょう。
英語の公教育の目標を考える場合のポイントは、少々英語が話せるようになるということと英語の基礎基本を養成することの重要性に関する認識の違いだと思います。しかし、この結論は自明です。なぜならば、単に定型的な会話ができるようになるには、同志社大学や京都大学の入学試験長文問題に対応できる程の文法や語彙の力が備わっているのであれば、比較的短期間で(そう2~3ヶ月もあれば)誰にでも可能なのに対して、その逆は(学習を持続できるとして)、少なくとも2~3年の時間が必要だからです。そして、ビジネスを英語で遂行できる英語力、英語圏で高等教育を修了するために必要な英語力を獲得するには、定型的な英会話がカワイク&カッコヨクできるよりも日本の大学入試の長文問題を堂々と処理できることの方が重要であることは間違いないと思います。
実際、TOEICにせよTOEFLにせよ英会話の能力を直接判定するセクションは存在しないか(会話セクションにおいてもむしろ、)、文法や語彙の比重が大きい。なぜか? 簡単な話です。英語のネーティブスピーカー相手のビジネスや英語圏で高等教育を修了するために必要な英語力の完成形を考えた場合(あれかこれかの究極の選択をする場合)、会話よりも文法や語彙の力の方がよりクルーシャル(肝要)だからです。そのことをこれらの試験を作成しているETSは知っているからです。正に、「TOEIC・TOEFLで測定される英語力と日本の伝統的な英語教育の目指すものは意外と近い」、「TOEFLの結果から日本の英語教育が間違っているとは必ずしも言えない」ということ。
鳥飼さんの憤りは、(イ)いわば帰国子女程度のバイリンガルの英語力を、(ロ)使える本物の英語の力として英語教育の目標に掲げ、(ハ)そのような英語力は英語圏で何年か生活すれば誰にでも身につくと安易に考える、そのような識者と世間が抱く<帰国子女神話=バイリンガル幻想>への反感ではないかと私は想像します。しかも、識者にせよ世間にせよ、(ニ)自分たちが受けた四半世紀以上前の英語教育を前提に論を立てているとなっては鳥飼先生が悲憤慷慨されるのも当然でしょう。
英語圏から帰国した者の英語力は、実は、千差万別であり、彼等が英語でビジネスを遂行でき英語圏の大学や大学院で平均以上のGPAを取れるかに関しては全く depends on the person/family なのが現状です。ならば、英語のノンネーティブが日本国内で公教育を通して身につけるべき英語力は、<悪しき帰国子女タイプの英語力>ではなく実力としての英語力ではないか、それは、<優秀な帰国子女タイプの英語力に発展可能な基礎基本の英語力>であろう。これが鳥飼さんの主張の核心だと私は考えます。つまり、「TOEFLでの日本人平均点の低さが示す問題は文法や語彙力の低さ」の方なのです。
実力としての英語力は、どちらかと言えば、カッコイイ英会話のスキルではむしろなく、ある意味では受験英語との親近性を持った英語力である。極論すれば、「日本人の英語力は低いのか?」 に対する解答は1989年までは「No」であったが、残念ながら現在は「Yes」なのかもしれない。これが(ここまでの「極論」を述べてはおられなににしても)鳥飼さんの結論だと思いますし、私の17年間の英語指導経験からの帰結でもあります。
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私は、鳥飼さんとは若干、音声指導の考えが違います。けれど、こと公教育での英語教育のあり方とか目的、内容については(多分)完全に同意見ですね。それくらい、日本の英語教育の抱える問題の原因はシンプルということだと思います。じゃなぜ、改善しない? それは、・・・。おいおいこのブログで展開していきたいと思います。
英語は主語がはっきりしており、日本語よりも論理的にものを考えて表現できるのではないか、私の言語力は確かに英語を学ぶ中で培われたものが多かったようにも振り返るし(耳が悪くてダメでしたが)……ということで、ある期待を彼らに込めたのですが、KABU先生の言われるとおり、期待はずれでしたね。年々レベルが低下しているように感じるのですが、ちょっと確信は持てません。
英語なりフランス語なりをある程度使えるということときちんとした読解力のもとで自己主張をし、相手を説得できる力は別のものなのでしょう。
とすると小学校からの英語教育の是非の議論も私としてはあまり積極的な発言ができなくなります。
あまり、具体的に踏み込めないので申し訳ないのですが、彼らの論理は「自分達は異文化に接しているからこそ日本のことも日本人以上によくわかっている(はずだ)」なんですが、とんでもないですよ。
むしろ日本人としてのアイデンティティーも確立することはできず、あちらの国でも自分が何者かもわからないという自我の発達にきわめてよくない状況におかれていると私は見ています。
「英語が話せることがその人のチカラである」は国内において海外を羨望する人たちの幻想ですね。
私は仕事では日本語でも英語でもなんでもいいのですが、「きちんと表現できること」がその人の自我の発達(うーんもっといい言葉があるといいのですが)によいはずだ、それができれば大学での学問にしろ職業訓練にしろその先の仕事にしろよいだろう、というスタンスをとっています。優秀な子ばかりではないですからね。
あと鳥飼さんが留学したAFS制度ってまだあるのですか? 私のクラスメートが実はそれでアメリカに行ったのですが、東京都は特に難関でしたから大変だったと思いますが、非常な努力家でした。英語のセンスがよいタイプでも頭がとりわけ切れるタイプでもありませんでしたね。(そのころ羽田にみんなで送りに行きましたっけ)あとすごく人柄のよい子でした。だれにでも心を開いて話す子でしたね。一年遅れで卒業してH橋大学に入りました。
私は亡くなった父から「鳥飼さんのようになりなさい」と言われて育ちました(笑)やっぱ憧れの人でしたね。ただ、私はタイプが違っていたようです。