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憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒☆「忠誠の誓い」合憲判決-リベラル派の妄想に常識の鉄槌(6)

2013年02月01日 16時13分49秒 | 日々感じたこととか



★註:連邦最高裁の移送令状

日本と同様、連邦最高裁への上告はある限られた場合にのみ許される(建前になっている)のはもちろんなのですが、日本では刑事訴訟法405条および406条、あるいは、民事訴訟法311条および312条等々に定めている場合、他方、アメリカでは、

①日本の憲法学で言う所の「統治行為」に近しい所謂「政治問題:political question」に該当しないケース、もしくは、②アメリカ合衆国憲法3条2節1項に定められている所謂「事件と争訟:cases and controversies」がその<ストライクゾーン>を画する、司法の判断が具体的紛争を社会的に解決可能であるという「事件性の要件」を満たしているケース(例えば、「火星人の足は8本か9本か?」とか「トリンドル玲奈さんとほしのあきさんはどちらが可愛いか?」、あるいは、「邪馬台国は九州にあったのか畿内にあったのか?」や「ビッグバンはなぜ起きたのか?」を巡る紛争などを除くケース)、加之、③日本の訴訟法学で言う原告側の「訴えの利益」と緩やかに重なる「成熟性」や「ムートネ」を備えているケースといった、①~③の点で「司法判断適合性:justiciability」を具備しているケース

等のその「ある限られた場合」に該当するほとんどすべての訴訟を審理している日本の最高裁とは事なり、1925年以降(就中、1988年のThe Supreme Court Case Selections Act of 1988(28 U.S.C. §1257)によって幾つかの「ある限られた場合」には連邦最高裁の審理を確実に受けられていた権利が実質全廃されて以降は)、アメリカではその「ある限られた場合」についても連邦最高裁の審理を受けられるどうかはほぼ最高裁自体の「裁量」に任せられています。



ちなみに、普通は、同一の争点を巡り複数の連邦巡回控訴裁判所の判決が分かれている場合、州の裁判所が連邦法を合衆国憲法違反と判示した場合等には合衆国全体の法体系に統一を取り戻すべく連邦最高裁は自身で司法審査(judicial review)の審理を行う傾向があるとは一応は言えます。そう一応は言えるものの・・・。

例えば、妊娠中絶の是非や(実は、2012年12月7日に連邦最高裁は「同性婚のカップルが税や社会保障の制度上、異性間の夫婦と 同様の権利を保障されるべきかどうかを審理すると発表した」のですけれども、長らくその審理を連邦最高裁が控えてきた)同性婚の是非等々、「政治問題:political question」ではないもののアメリカ社会で国民の法意識がするどく対立している、就中、政治的やイデオロギー的な色彩の濃厚なイシューについては、(違憲や合憲の判断を連邦最高裁が出したところでそのイシューを巡る紛争の社会的な解決など望めないからでしょうか)連邦最高裁が上告を受け付けないことも希ではありません。

蓋し、このアメリカの連邦最高裁の一種禁欲主義的な行動パターン、自己の能力の有限さを自覚する、カント哲学やあらゆる教条を忌避嫌悪する保守主義と通底するその「司法消極主義:judicial passivism」こそ、逆に、その禁欲を破って一度司法審査がなされた際の連邦最高裁判決の権威を担保しているもの、鴨。閑話休題。



而して、「自身で審理を行うことを決定した旨」の連邦最高裁から下級審裁判所に送られる連絡様式を「移送令状」、すなわち、「サーシオレイライ:writ of certiorari」と呼ぶ。よって、連邦最高裁での審理を望む場合、訴訟当事者は連邦最高裁に移送令状を発行するように申し立てることになるのです。

ちなみに、連邦最高裁が移送令状を発行するかどうかは9人の連邦最高裁裁判官の中の4人以上がそれに賛成することが必要なのですが、この経緯のことを「rule of four」と呼びます。


尚、年平均7千件~8千件ある移送令状の発行の申し立ての中で、連邦最高裁の裁量による上告が認められ連邦最高裁判決が実際に下されるのは1%程度にすぎません。日本には「進歩的識者」と呼ばれる中に、しばしば、「アメリカの連邦最高裁は司法積極主義であるのに対して日本の最高裁は憲法判断、就中、違憲の判断を出すのに極めて消極的だ」とか述べる化石のような人々も少なくありません。

しかし、このような言説は、違憲判決の彼我の数に着目すれば(「最高裁が発足してからの64年間で法令違憲判決は7種8件しかない。それに対してアメリカ連邦最高裁は1963~96年で63の法律(連邦法)を無効にし、さらに桁違いに多くの州法等を無効と断じている」(山田隆司『最高裁の違憲判決-「伝家の宝刀」をなぜ抜かないのか』(光文社・2012年)という一面に着目すれば)、満更間違いではないとしても、他方、年平均約1万1千件の上告等の申込案件に対して(実質的な判決理由を欠いた所謂「三行判決」による上告棄却判決ではない)中味のある判決をアメリカの連邦最高裁の約10倍の千件近く量産している日本の最高裁に対して、申し立てられた案件の1%~2%程度の年間70~150件しか審査しない連邦最高裁の姿もアメリカ司法の一斑であることを看過した議論である。

要は、「司法消極主義:judicial passivism」も「司法積極主義:judicial activism」も共にアメリカの連邦最高裁の一面ではあるが、後者の傾向が突出していた時代と回顧される20世紀初頭から1937年-1938年頃までの実体的デュープロセス理論の全盛期と、「市民的権利:Civil Rights」の擁護に連邦最高裁が狂っていた、左右のイデオロギーを問わず「真っ当な憲法解釈学」から見れば暗黒と狂乱の1960年代を含めても、前者がアメリカの連邦最高裁の基本線であり後者は幕間の余興の類にすぎない。と、そう私は考えます。





Rory Little, a professor at the University of California Hastings College of the Law, agreed. He said the Supreme Court is unlikely to review the case because Thursday's ruling is the third appellate court decision upholding the pledge.

In addition, Congress passed legislation reaffirming the pledge in 2002, following the 9th Circuit's ruling that struck it down.

"I think this is the last word on this particular lawsuit," Little said. "It's an important ruling."

University of California Hastings College of the LawのRory Little教授もこのNewdow氏の読みは正しいと見ている。Little教授によれば、連邦第9巡回控訴裁判所で木曜日に下された判決で、連邦控訴審レベルにおいて都合三度、忠誠の誓いの合憲性が確認されたことになる。この趨勢を鑑みれば連邦最高裁が本件を正式な審理の土俵に乗せることは考えにくいということ。

加之、連邦議会は、2002年の「ほとんど<鳩山由起夫>もん」の判決が忠誠の誓いを廃する結果となる判決を受けてその同じ2002年に忠誠の誓いの法的正当性を再確認する立法を可決成立しているのだから。

「木曜日【2010年3月11日-東日本大震災のちょうど1年前】に下された判決はこの訴訟についてのアメリカ司法システムが出す最後の言葉になるのではないか」とLittle教授は述べてくれた。「よって、この2010年3月11日判決は重要な判決だったということではないか」とも(★)。

★註:連邦控訴裁判所判決は「判例」か?

その訴訟案件の勝敗帰趨を左右する論点(レイシオ・デシデンダイ:ratio decidendi)について連邦最高裁の確定した判決が出ていないと仮定すれば、

例えば、本件の場合、「公立学校における忠誠の誓いの斉唱がアメリカ合衆国憲法の定める政教分離原則に違反するか否か」というイシューを巡る訴訟が連邦第9巡回控訴裁判所の管轄内の連邦地方裁判所に持ち込まれた場合には、本件控訴審判決は<先例>としての法的拘束力を帯び、要は、当該の連邦地裁は本判決と同じ内容の判決を下すことになります(←ここ重要! 「同じ内容の判決を下される蓋然性が高い」のではなく「連邦地裁は同じ内容の判決を下さなければならない」のです)。

けれども、他の巡回区内の連邦地裁、まして、他の連邦控訴裁判所に対してはこの本件控訴審判決に先例としての拘束力はなく、よって、この理路からは、少なくとも全米レベルで言えばこの判決は「判例:binding precedent」ではないと考えるべきでしょう。ただ、このお騒がせリベラル派が提起誘発した他の一群の訴訟の控訴審判決と、それらの上告を拒絶した連邦最高裁の行動が加味されて、本判決にはほぼ連邦最高裁判決並みの「先例としての事実上の法的拘束力」あるいは法的な権威性が、あくまでも、結果的に憑依した。と、そう言えると私は考えます。





In a separate 3-0 ruling Thursday, the appeals court upheld the inscription of the national motto "In God We Trust" on U.S. coins and currency, citing an earlier 9th Circuit panel that ruled the phrase is ceremonial and patriotic and "has nothing whatsover to do with the establishment of religion."

Greg Katsas, who argued the case on behalf of the U.S. government when the appellate court heard the case in December 2007, said the panel made the right decision Thursday.

"I think these two phrases encapsulate the philosophy on which the nation was founded," said Katsas, who now works in private practice. "There is a religious aspect to saying "One nation under God," but it isn't like a prayer. When someone says the pledge, they're not praying to God, they're pledging allegiance to the country, the flag and the ideals of the country."

木曜日に下されたもう一つの判決において、こちらは3人の裁判官全員一致で連邦第9巡回控訴裁判所は、アメリカ合衆国の貨幣と紙幣に刻印・印字されている国民的合い言葉の合憲性を、「我らは神を信じる」という標語の合憲性を認めた。この標語は多分に儀礼的かつ愛国的なものであり、「そこにはいかなる意味であれ国教の樹立にかかわる要素は微塵もないのであります」と判示した連邦第9巡回控訴裁判所の以前の判例を引用した上での3-0での合憲判決である。

本件について2007年12月に行われた連邦第9巡回控訴裁判所の公判廷でアメリカ合衆国側の代理人を務めたGreg Katsas氏は、当該法廷は木曜日に正しい判断を下したのではないかと述べている。

現在は民間の弁護士事務所に席を置いているKatsas氏によれば「これら二つの文言、「神の下に」と「我らは神を信じる」という二つのフレーズはその哲学的の基盤の上に我が国が創立されたある世界観を煎じ詰めたものと私自身は了解している」とのこと。而して、「「神の下にある一つの国」と言う言葉を発声することになにがしか宗教的な色彩が憑依していないと言えば嘘になるでしょうね。しかし、これらの二つのフレーズを朗唱することは祈りの言葉を唱える所作とは似て非なるもの。蓋し、忠誠の誓いを唱えるとき合衆国国民の多くは、神に祈っているのではなく、この国に対する忠誠を自身再確認しているのであり、すなわち、星条旗と合衆国の社会統合の諸理念に対する忠誠を誓っているのではないでしょうか」ともKatsas氏は語ってくれた。








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