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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

仏教を判り易く知る資料(20)

2023年01月22日 | 仏教・親鸞聖人

 親鸞聖人の御遺言

親鸞聖人の御遺言は、御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)として知られています。

我が歳きわまりて、安養浄土(あんにょうじょうど)に還帰(げんき)すというとも、和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人は親鸞なり
(御臨末の御書)

<間もなく親鸞、今生の終わりが来るだろう。一度は弥陀の浄土へ帰るけれども、寄せては返す波のように、すぐさま戻ってくるからな。一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。うれしい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではないのだよ。いつもそばに親鸞がいるからね>

親鸞聖人が亡くなられて750年、聖人が極楽におられたことは一日もなかったでしょう。それどころか、寄せては返す波のように、すぐにこの世に戻ってきていらっしゃるのです。

では、どこに?
それは聖人が仰せのとおり、あなたのとなりです。喜んでいる時だけでなく、苦しい時も悲しい時も、常に聖人は私のそばに来てくださっているのです。

ご遺言の御心

我が歳きわまりて 安養浄土に還帰す

<親鸞、この世の終わりが来たら、阿弥陀如来の極楽浄土へ帰る>

これは親鸞聖人90歳のお言葉ですが、聖人だけに「我が歳きわまりて(命、終わる)」ということがあるのではありません。生ある者、必ず死に帰す。たとえ生涯、地震や津波に遭わずとも「我が歳きわまった」という時が、すべての人に必ず訪れます。何百年に一度の事故や災害にも、私たちは「万が一」を想定し、備えます。まして100パーセント訪れる自分の死は「万が万」の想定内。それに備える以上に大事なことはないはずです。
 
聖人は29歳の御時、阿弥陀仏の本願力によって、一念で、「いつ死んでも浄土往生間違いなし」と後生明るい心に救い摂られました。だからこそご臨末に、ためらいなく「安養浄土に還帰す(弥陀の浄土へ帰る)」と言われているのです。
これを「往生一定(おうじょういちじょう)」といいます。
「往」は、阿弥陀如来の極楽浄土へ往くということ。「生」は仏に生まれる。「往生」とは、弥陀の浄土へ往って阿弥陀仏と同じ仏に生まれることで、成仏ともいいます。「一定」は「ハッキリする」。いつ死んでも極楽往生間違いなし、とハッキリしたことを「往生一定」といわれるのです。
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」とは、聖人の「往生一定」の告白にほかなりません。今死ぬとなった時、果たして私たちは同じ断言ができるでしょうか。阿弥陀仏の本願力によって、一念で「往生一定」の身に救われることこそ、私たちの生きる目的であり、人生の決勝点であると親鸞聖人は教えられているのです。

安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

<一度は浄土へ往くけれども、寄せては返す波のように、すぐ戻ってくるぞ>

では親鸞さま、極楽へ往かれたらどうされるのですか? とお聞きすると、「日帰りで戻ってくる」と仰います。なぜなら、この世界は苦しんでいる人であふれているではないか。それらの人を見捨ててはおけぬ。自分一人、楽しんでなどおれない。苦しみ悩む人が一人もなくなるまで、阿弥陀如来の救いを伝えずにいられない、と聖人は仰るのです。
「一度は浄土へ帰るが日帰りだ。苦しみ悩む人が一人もいなくなるまで、十方衆生(すべての人)が救われ切るまで、親鸞は無限に戻ってくる」と仰っているのです。

うれしい時も悲しい時も 親鸞聖人とともに

私たちは今、深い因縁で人間に生まれ、等しく阿弥陀如来に照育され、無上道を歩んでいます。うれしい時も、悲しい時も、決して一人ではありません。「はらからよ、ともに無上道を進もうぞ」と、いつも聖人が寄り添い、手を引いておられるのです。
「往生一定に必ず救うと誓われた弥陀の本願まことだった、本当だった」とハッキリする時が、必ずあります。光に向かう人生に、恐れるものは何もないのです。聖人とともに、往生一定の身になる決勝点に向かって、日々、明るく力強く前進させていただきましょう。(続く)

 



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