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スポーツ記録箱

スポーツの記録や用語、人物からランキング等を独自視点で分かりやすく解説!スポーツ観戦のための「スポーツ記録箱」登場!

貴乃花光司

2011-09-21 08:57:15 | 名選手列伝

貴乃花光司(大相撲)

1972年東京都中野区生れ

昭和の名大関初代貴ノ花の次男で、土俵の鬼と呼ばれた若乃花の甥、そして第66代横綱若乃花の弟というスーパー相撲一家の一員である。

稀代の人気力士貴ノ花の息子ということもあり、少年時代から注目されわんぱく相撲などで活躍。

中学を卒業すると父親が親方を務める藤島部屋に入門した。

入門後は次々にスピード出世記録を塗り替え、平成初期の空前の相撲ブームの主役に躍り出た。

平成4年1月に平幕せ初優勝するとその人気は爆発する。

人気芸能人並みの注目度という重圧にもかかわらず、猛稽古で大関昇進。

大関でも5回優勝(計7回)し横綱に昇進した。

横綱に昇進すると同期でライバルの曙を一気に抜き去り角界の頂点に立つ。

 

正攻法の四つ身からの寄りは万全であり通算22回の優勝を成し遂げた。

最後の優勝では、靭帯損傷という大けがの中、強行出場し優勝決定戦で武蔵丸を破ると言う伝説的な感動の一番を取った。

私的には宮沢りえとの婚約、破談、兄弟の絶縁騒動や遺産相続を巡る騒動など常に大きな話題を提供。

昨今では相撲協会の改革を訴え、守旧派との対決に踏み出している。


畑山隆則

2010-12-12 17:57:38 | 名選手列伝

畑山隆則(ボクシング)

1975年青森県青森市生れ

少年時代から喧嘩が強く、辰吉丈一郎に憧れてボクサーを目指した。

16歳の時に高校を中退し上京、翌年に京浜川崎ジムに入門した。

新人王を獲得するなど早くから有望視され、平成8年にはOPBFジュニアライト級タイトルを獲得。

3度の防衛を経て9年3月に韓国の雀に挑戦するが惜しくも引き分け。

その年の10月には日本チャンピオンのコウジ有沢と日本人頂上対決を行いKOで勝利し、翌年に再び省に挑戦、判定で破り遂に世界タイトルを獲得する。

1回の防衛のあと、ラクバ・シンにKO負けを喫し王座を陥落。そのまま引退した。

しかし、12年に復帰を宣言し3月、有明コロシアムでいきなりライト級世界王者のヒルベルト・セラノに挑戦。

8RKO勝ちを果たし2階級制覇を成し遂げる。

その後、坂本博之とのスーパー対決を制すなど2度の防衛を果たすが、13年にロルシーに判定で敗れ引退した。

通算24勝(19KO)2敗3分け

派手なキャラクターと気の強さで辰吉、川島、鬼塚といった90年代前半の黄金期の去ったあとのボクシング界を支えた名選手だった。


阿波野 秀幸

2010-08-29 11:23:53 | 名選手列伝
阿波野秀幸(プロ野球)

1964年東京都大田区蒲田生れ

高校まではあまり目立つ存在ではなかったが、東都の名門亜細亜大学に進んでから台頭。
東都リーグ歴代4位の32勝を挙げた。

ドラフトではバファローズ、オリオンズ、ジャイアンツが競合し、バファローズが交渉権を得た。

1年目からエースとして活躍。
いきなり3完封を含む15勝を挙げた。
またリーグ最多の201三振を奪い、同じ15勝を挙げた西崎をかわして新人王を獲得した。

89年には19勝を挙げて最多勝を獲得。
球界を代表する投手に成長したが、その年の日本シリーズでの投球をピークに低迷。
その後セ・リーグに移籍するが復活する事はなかった。

鈴木啓と野茂という強烈で怪物的なエースの間の期間に活躍したが、印象の強さは決して二人に負けるものではなかった。




イベンダー・ホリフィールド

2010-08-18 09:13:42 | 名選手列伝
名選手列伝⑦
イベンダー・ホリフィールド(ボクシング)

1962年アメリカ アラバマ州生まれ

1984年にプロデビューし、86年にはWBAクルーザー級のタイトルを獲得。88年に3団体のタイトルを統一。ヘビー級に進出。

当時世界最強と言われたマイク・タイソンのライバルと目されるが、そのタイソンが東京でバスター・ダグラスに敗れると、標的をダグラスに変更し90年ダグラスをKOで下しタイトルを獲得する。

その後フォアマンを破るなど防衛を重ねるが、92年に無敗のリディック・ボウに激戦の末、破れ無冠に。

翌年にボウに雪辱しチャンピオンに返り咲くが、94年にマイケル・モーラーに破れ転落。

その後、ボウとのラバーマッチにダウンの応酬の末、敗れるが、96年に圧倒的不利の下馬評を覆しタイソンをKOで下す。

タイソンとのリマッチやレノックス・ルイスとの戦など激戦、名勝負が多く、常に感動を与えるボクシングスタイルから「リアルディール」の異名を持つ。

現在も4大団体のタイトル獲得を目指し現役を続けている。


石井毅

2010-08-14 15:08:39 | 名選手列伝
名選手列伝⑥
石井毅(高校野球)

1961年和歌山県有田市生まれ。

野球の名門箕島高校に入学後、1年秋からアンダースローに転向しエースとなる。
後にプロ入りする嶋田宗彦をバッテリーを組み、2年春から4期連続して甲子園に出場する。

センバツでベスト8、夏は自身が登板しなかった3回戦で敗退するが、3年生となった79年甲子園春夏連覇を成し遂げる。

特に香川・牛島率いる浪商や池田高校との激突は印象深い。
そして星陵との延長18回の死闘は高校球史に残る。

甲子園通算14勝を上げ、これはPL学園の桑田に抜かれるまで1位の記録だった。

その後、社会人の住友金属に進み活躍。ドラフト3位でライオンズに入団するが5年間で8勝しか挙げられず引退している。

現在はスポーツジムを経営しながらみかん販売を行っているという。

山下泰裕

2009-08-13 07:53:00 | 名選手列伝
名選手列伝⑤
山下泰裕(柔道)

1957年熊本県上益城郡生まれ。小学校3年から柔道を始め中学校1年で有段となる。東海大相模時代には日本のエースとして期待され始める。

東海大2年の時に史上最年少の日本チャンピオンとなり、以降日本柔道界を牽引してゆく。

全日本選手権9連覇、世界柔道選手権4タイトル、203連勝など多くの記録を残す。

そして84年のロス五輪では記憶に残る名勝負を演じる。
金メダル候補の筆頭として堂々とアメリカ入りして試合に臨んだ山下は順調に一本勝ちで勝つ進む。
しかし3回戦で右足ふくらはぎを肉離れしてしまう。

足をひきずって臨んだ準決勝ではポイントを取られる苦戦をするが、逆転一本勝ちで決勝に進む。
決勝では巨漢のラシュワンと対戦し、再三怪我の右足を狙われながら押え込み一本勝ち。
日本中を感動させた金メダルだった。

引退後は全日本監督を務めるなど柔道の発展、世界への普及に尽力している。

瀬古利彦

2007-12-19 14:23:01 | 名選手列伝
名選手列伝④
瀬古利彦(マラソン)

1956年三重県桑名市生まれ。四日市工業時代にインターハイ800と1500Mで優勝し注目を浴びる。早稲田大学入学後も1万・2万で日本新記録を樹立する。この時、生涯の恩師となる中村清と出会う。

箱根駅伝では3・4年連続で2区を走り区間新記録を出す快走を見せた。
早稲田2年の77年に福岡国際で5位、翌78年には優勝を果たす。
更に4年次の78年にはボストンマラソンで2位、福岡で優勝と言う凄まじい快進撃を見せ、翌80年のモスクワ五輪の代表に選ばれる。
早大卒業後は中村と共にエスビーに入社するが、モスクワはソ連のアフガン進攻に反対し日本がボイコットしたため出場はならなかった。
しかしその年の福岡でモスクワ金メダリストのチェルピンスキーを破り、実力世界一を証明する。

その後、怪我による低迷はあるものの、81年 ボストンマラソン優勝、 83年東京国際マラソン優勝、 そして福岡国際マラソンでイカンガーを振り切り優勝し、念願のロス五輪出場を果たす。
しかし調整ミスから14位と惨敗し限界説がささやかれるが、 86年にはロンドンマラソン優勝で見事復活し同年シカゴ優勝、87年ボストンでも優勝し完全復活を果たす。

ところがソウル五輪選考会をライバル中山にののしられながらも怪我で欠場し世間やマスコミから罵声を浴びるが、88年のびわ湖毎日で優勝し、かろうじて五輪出場を決めた。
結局ソウルでも9位と五輪での活躍には縁がなかったが、世界トップ選手との激戦を繰り返しての15戦10勝は、日本マラソン史上最高の選手と言っても良い。

指導はとしては実績は残せていないが、マラソン普及や低迷する男子マラソン復活への手腕には依然として期待が集まる。

飯田哲也

2007-10-07 10:25:04 | 名選手列伝
名選手列伝③
飯田哲也(プロ野球)

1968年東京都調布に生まれる。高校3年の時に拓大紅陵の強肩捕手として春夏共に甲子園に出場、1試合に3コの盗塁を阻止しプロに注目され、その年のドラフト4位でスワローズに入団する。

捕手として入団するが、90年に名捕手古田が入団してきたため二塁手に転向、レギュラーを獲得した。91年には外野手に転向し、俊足巧打の名外野手として5回の優勝に貢献した。ID野球の申し子と言われる。

93年の日本シリーズ第3戦8回のホームへのノーバウンド送球は球史に残る名場面を言える。また東京ドームの壁を蹴ってホームランを取ろうとしたシーンも記憶に残っている。

2005年に新球団の東北ゴールデンイーグルスに移籍し2年間活躍した。
その後はスワローズの2軍コーチを務めている。

高田繁、イチロー、秋山幸二などと並び球史に残る守備のスペシャリストと言われるが、中でも最高の評価を受ける事もしばしばである。
またTBSの人気番組「スポーツマンNO.1決定戦」での活躍も有名。運動神経の塊である。

通算1505試合に出場、1248安打、234盗塁。盗塁王1回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞7年連続受賞。


スポーツ観戦の達人 http://blog.e-otegami.net/jrk1/

高橋ナオト

2007-09-19 11:09:47 | 名選手列伝
名選手列伝②
高橋ナオト(ボクシング)

昭和42年11月生まれ 東京都調布出身で60年にプロデビューを果たす。
右ボクサーファイター 右のカウンターを得意とした。
デビューから11連勝で今里光男をKOで破り日本バンタム級王座を獲得、リターンマッチもKOで返り討ちし王座は磐石かと思われたが、伏兵の小林智昭に判定で破れ陥落。その同王座をかけて島袋忠と王座決定戦を行うが6RKOで破れる。階級を上げて復調し、平成元年1月22日にマーク堀越とのボクシング史上に残る激闘を制し、日本jrフェザー級王座を獲得する。
5月にはタイの強豪ノリー・ジョッキージムとダウン応酬の激戦を展開、3RKOで勝利、更に10月の打越秀樹との防衛戦もダウン応酬の激戦となり6RKOでしとめ、スリリングな試合を行うボクシング界きってのスーパースターとなる。
一方で、あまりに激しい打ち合いを行う事からディフェンス面や打たれ過ぎによる防御勘の低下が指摘され始め、平成2年2月にはマイク・タイソンがバスター・ダグラスに叩きのめされ初黒星を喫した東京ドームの前座でノリー・ジョッキージムとの再戦に滅多打ちを食い6度のダウンを喫し大差で判定負け。翌年の韓国フェザー級チャンピオン朴との試合で9RKOで破れ引退する。
世界チャンピオンを上回る人気と存在感を誇ったが遂に世界には挑戦する事すらかなわなかった。
個性派会長の阿部幸四郎氏のマッチメークは常に上位の選手と対戦すると言う前進志向のものでに遊びがなかったため、常に激闘となり人気は爆発したが、逆に打たれ疲れやダメージから引退を早めたとも言われる。
それしても昭和30年代のボクシングブーム時代ならさておき、人気低迷期にこれだけ人気を博した選手は今後も中々現れないだろう。
引退後はJBスポーツクラブ会長として福島学らを育てる。
また自らの体験を下に書いた「ボクシング中毒者」はパンチドランカーの言動が書かれており興味深い。
通算成績 19勝(14KO)4敗

平尾誠二

2007-09-16 15:22:05 | 名選手列伝
名選手列伝①
平尾誠二(ラグビー)

昭和38年1月生まれ 京都出身で伏見工業高校から同志社大学、神戸製鋼と進む。
陶化中学時代にラグビーを始め、伏見工業の山口監督にスカウトされる。山口監督は有名な「スクールウォーズ」のモデル。
伏見工業では3年の時に全国優勝を果たし注目を集める。
同志社大学に進むと天才的なバックスープレーヤーとして注目を集め、19歳の時には史上最年少で日本代表に選ばれた。
同志社では大学選手権史上初の3連覇を成し遂げ、その後英国に留学する。
この時、日本選手権では3年連続で松尾雄二率いる新日鉄釜石に敗れる。
英国から帰国後神戸製鋼に入社し、昭和63年から平成3年まで主将を務め、日本選手権7連覇に貢献する。
日本代表としてもキャップ35の歴代2位の記録を樹立、後には日本代表監督も勤める。

奔放なラグビースタイルを確立し、硬派でともすれば暗いイメージを受けるラグビーを人気スポーツに押し上げた功績は大きい。
スクールウォーズの舞台となる伏見工業で優勝、同志社で3連覇、そして神鋼で7連覇と常にスター街道を突き進んできた平尾だが期待された指導者としては、思った程の実績は収め切れていない。