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スポーツ記録箱

スポーツの記録や用語、人物からランキング等を独自視点で分かりやすく解説!スポーツ観戦のための「スポーツ記録箱」登場!

貴乃花奇跡の優勝:貴乃花VS武蔵丸

2011-08-17 10:45:33 | 名勝負物語

名勝負物語⑩
2001年5月27日
両国国技館
大相撲5月場所千秋楽:優勝決定戦                                                    
貴乃花VS武蔵丸

昭和の名横綱若乃花の甥で、名大関貴ノ花の二男というサラブレットとして角界デビューをした貴花田は、期待通りの快進撃で出世の階段を駆け上がる。

千代の富士を言う大横綱を失った後の空虚な角界を空前の相撲ブームへを導くのに時間はかからなかった。          兄である若花田とともに曙、武蔵丸といったハワイ勢をやっつける様が熱狂を呼んだのは、戦後の力道山に通じるものもあったのかもしれながい。更には当代一の人気女優宮沢りえとの婚約、破局、兄弟絶縁騒動とワイドショー的話題も次々に提供。

そんな中でも貴花田は貴乃花としこ名をかえ、スピード記録を塗り替え大関、そして横綱に昇進。優勝も順調に20回まで伸ばした。

しかし、その頃から体重過多により怪我が多くなり低迷する。                                      2001年に入り、初場所で復活優勝を果たした貴乃花は運命の夏場所をむかえることになる。

初日から安定した、そして圧倒的な強さで連勝を重ね13連勝。このまま全勝を飾るかと思われた14日目。がっぷりよつから武双山を寄って出ると、ゆるふんの武双山の突き落としにゆるい廻しごと土俵際に落ち初黒星。

そしてその際に、右ひざ半月板損傷をし、立ち上がるのもやっとという大けがを負った。                     誰もが出場不可能と思われた翌千秋楽に強行出場する貴乃花だが、仕切りの最中にも足を引きずるなどとても相撲を取れる状態ではなく、あっさり武蔵丸に敗れ、13勝2敗で並び優勝決定戦に持ち込まれる。

出場辞退を勧める周囲の声を振り切り決定戦に強行出場する。

決定戦でも仕切りで足を引きずるなど全く勝負にならないかと思われたが、軽い突っ張りあいから上手をつかむと、渾身の上手投げを放つ。すると信じられないことに武蔵丸は土俵に転がった。

描いている今でも思い出して鳥肌が立った瞬間だ。

仁王立ちした貴乃花の姿、表情は忘れようもない。まさに神が乗り移ったとしか思えなかった。

表彰式で総理に就任したばかりの小泉首相の「痛み耐えてよく頑張った。感動した!」というセリフの素晴らしい「演出」だった。

この一番で貴乃花は伝説となり、小泉首相は人気を不動のものにした。

貴乃花はこの一番の代償で7場所休場。復帰場所で千秋楽まで優勝を争ったが、同じ武蔵丸に敗れれ、翌場所引退した。

貴乃花の引退後、日本人が横綱として番付に登場していない。

           


畑山隆則VS坂本博之(後編)

2010-12-05 08:17:03 | 名勝負物語

名勝負物語⑨-2
2000年10月11日
横浜アリーナ
WBA世界ライト級タイトルマッチ
畑山隆則VS坂本博之


横浜アリーナは試合前から盛り上がっていた。

中々世界をとれないカリスマボクサー坂本の人気はすごく、親衛隊のような観客も多かった。

一方、畑山も人気者である。世紀の激突の様相は会場を包んでいた。

試合開始から坂本は積極的に打って出る。強烈なボディーブローを放ち、それに対して畑山はスピーディーな左フックで応戦。早くも打ち合いの様相となった。

初回中盤に早くも左目上をカットした坂本は2Rに入っても迫力のあるパンチを放つが、徐々に畑山ペースに。右クロスやアッパーが的確に決まるようになる。

中盤に入ると畑山の右が痛烈にヒットしだし、坂本はたじろぐ。

そして8Rに入ると畑山の右が4連発で命中し、打たれ強い坂本も大きなダメージとなる。

9R終盤。右から左のフックを打ち込むと坂本は完全にグロッキーに陥る。

もしかしたら10R、坂本は立ち上がってこないのではないかと言うほどのダメージであったが、さすがにファイターである坂本は勇敢に立ち上がった。

しかし畑山は左フック、右ストレートと確実にヒットさせ、坂本は痛烈なダウンを喫する。

何とか立ち上がった坂本だが、セコンドはタオルを投げ入れて試合終了となった。

沼田VS小林、辰吉VS薬師寺と比べても、熾烈と言える名勝負であった。

 


畑山隆則VS坂本博之

2010-09-08 09:48:18 | 名勝負物語
名勝負物語⑨-1
2000年10月11日
横浜アリーナ
WBA世界ライト級タイトルマッチ
畑山隆則VS坂本博之

日本人同士の名勝負と言えば、世界タイトルがかかった試合で言えば、小林弘と沼田義明、薬師寺保栄VS辰吉丈一郎が語られるケースが多いが、この畑山と坂本戦こそ最優秀試合に相応しい日本人対決であった。

世界タイトルを獲得し陥落。
一つの流れを終えて引退した畑山。

一方、ハードパンチャーとして早くから注目されながら世界に手が届かない坂本。

対照的な二人は2000年に入って運命の糸が絡み合う。

3月にチャンピオン ヒルベルト・セラノに挑戦した坂本は初回に強打が炸裂し2度のダウンを奪う。
しかしあと1度のダウンが奪えず1Rは終了。
2Rも攻勢をかけるが、セラノの左アッパーで右目が塞がってしまう。
出血が止まらなくなった坂本は結局5R主審のストップでTKO負けを喫してしまった。
3度目の世界挑戦も失敗。

6月。
そのセラノに引退していた畑山が復帰していきなり挑戦した。
序盤は試合勘の鈍っていた畑山がポイントを奪われるが、5R右アッパーでチャンピオンをグラつかせるとショートで畳み掛け、最初のダウンを奪う。
攻勢に出る畑山は7Rにもダウンを奪い、いよいよ運命の8Rに突入する。

落ち着いて攻める畑山は左フックで早速3度目のダウンを奪う。
立ち上がる王者に畳み掛ける畑山は上下の追撃で2度目のダウンを奪い、最後は右ストレートで仕留めた。

試合後のリング上のインタビューで、観戦に来ている坂本に向かって「次は坂本選手とやります」とファンに向かって宣言。

観客は総立ちになって喜んだ。


※後半に続く・・・


10.19川崎劇場(ロッテ・オリオンズVS近鉄バファローズ)

2010-08-25 10:32:58 | 名勝負物語
名勝負物語⑧
1988年10月19日
プロ野球公式戦
ロッテ・オリオンズVS近鉄バファローズ

バファローズがリーグ優勝をかけ、オリオンズと対戦したダブルヘッダー。
ライオンズとバファローズの大激戦のペナントレースは、10月16日にライオンズが全日程を終了。
この時点でライオンズが 73勝51敗6分で 勝率.589
一方、バファローズは  72勝51敗3分で 勝率.585 4試合を残していた。

バファローズが優勝するには3勝1敗が必要であったが、9月からの勢いからすると全勝も夢ではない状況で、バファローズの逆転優勝の可能性が俄然強まっていた。

しかし長年関西地区のライバルであったブレーブスとの対戦に破れ、残り3試合全勝が必須となったバファローズは、18日オリオンズに12-2で圧勝。
翌日のダブルヘッダーに連勝すれば優勝と言うとところまで来た。


初回にロッテ愛甲猛が小野の失投を捉え2ラン本塁打で2点を先制。近鉄は小川の前に4回までパーフェクトに抑えられるが、5回表に鈴木貴久のソロ本塁打で1点を返す。7回裏・ロッテ、四球2つなどで2死一・三塁のチャンス。佐藤健一がセンター前に放った打球はダイビングキャッチを試みる鈴木の前に弾みタイムリー二塁打、1点を追加、再び2点リードとなる。8回表・近鉄、鈴木のヒットと代打・加藤正樹の四球で1死一・二塁。この場面、近鉄ベンチは代打・村上隆行を送る。村上の打球はレフトフェンスを直撃する2点タイムリー二塁打で3-3の同点。同点のまま9回表を迎える。当時のパ・リーグは「ダブルヘッダー第1試合は延長戦なし。9回で試合打ち切り」という規定があったため、近鉄はこの9回表に勝ち越さなければならなかった。

その9回表1死、淡口憲治がライトフェンス直撃の二塁打で出塁。代走に佐藤純一が送られた。ここでロッテはリリーフの牛島和彦を投入した。続くこの日2安打の鈴木が牛島からライト前に安打を放つ。三塁コーチ・滝内弥瑞生は本塁突入を指示したが、打球が強すぎ、前進守備を強いていたため佐藤は三本間に挟まれ、捕手小山昭晴にタッチされ、2アウトになった。なお、このランダウンプレーの間に鈴木は二塁に進塁している。

ここで近鉄・仰木彬監督はこの年での引退を決めていた梨田昌孝を代打に送る。またロッテは捕手を小山から袴田英利に交代した。一塁が空いており、敬遠もありえる状況だったが、牛島は梨田との勝負を選んだ。カウント0-1からの二球目、梨田の打球は牛島の内角高め直球に詰まりながらもセンター前に落ちるヒット。二塁走者の鈴木は三塁を回り本塁へ。センターから返球がダイレクトに届き、クロスプレーとなるも、鈴木は捕手袴田のタッチをかいくぐりながら横っ飛びでホームに滑り込む。球審・橘は両腕を開いてセーフの判定。4-3、勝ち越しに成功した
9回裏、ストッパーの吉井がボールが続いたところで、エース阿波野。満塁のピンチを招くが何とか逃げ切り第2試合に優勝がかかる。

3対3で迎えた8回に怪物ブライアントが34号を放ち勝ち越し。
第1試合に続阿波野をマウンドに送った。
しかし高沢に本塁打を浴び、再び同点に追いつかれる。

同点で迎えた9回裏、マリーンズの攻撃。
先頭打者古川慎一がヒットで出塁。続く袴田英利の送りバントを阿波野、梨田が一瞬譲り合ったため慌てて交錯、内野安打となり無死一・二塁。
ここで阿波野は二塁へ牽制球を投じる。この球が高めに浮き、それを大石がジャンプして捕球。その体勢のまま、二塁走者の古川と交錯しながらもタッチしにいく。その際、古川の足が二塁ベースから離れたとして、新屋晃二塁塁審はアウトを宣告した。

ここで球史に残る愚公とされるオリオンズ有藤道世監督の抗議が始まる。走塁妨害走塁妨害を主張した。
この当時は、延長は時間で区切られていた。
引き分けも許されないバファローズは1分でも時間が欲しい。
この抗議がなされた時点で試合時間は既に残り30分を切っていた。
近鉄ベンチから仰木が飛び出し有藤に迫り、客席からもの罵声や怒号が飛び交う等、騒然となる中、9分間の抗議がなされた。その後ロッテは2死満塁、打者の愛甲猛が放ったレフト前への詰まった飛球をレフト淡口憲治が猛ダッシュして地面すれすれでダイレクトキャッチしピンチを切り抜けた。

結局10回を戦い引き分け。
優勝はライオンズのものとなった。
試合後、涙ながらにファンに手を振ったバファローズナインの姿は忘れられない。

翌年、ライオンズとバファローズは再びデットヒートを繰り広げる。





リディック・ボウVSイベンダー・ホリフィールド

2010-06-09 08:41:49 | 名勝負物語
名勝負物語⑦
199511月4日
ヘビー級ノンタイトル12回戦
リディック・ボウVSイベンダー・ホリフィールド

ホリフィールドはここ20年のボクシング界の中で、最もエキサイティングなボクシングをする勇敢なボクサーの一人と言って間違いない。

マイク・タイソンとの2度の激闘やフォアマンやルイスとの対戦など印象に残るファイトが非常に多い。

中でのホリフィールドの真骨頂との言うべきベストバウトはボウと3連戦である。

リディック・ボウはタイソン、ホリフィールド後のエースを言われた大型なボクサーで当時はレノックス・ルイスより評価されていた。

1992年のボウホリ第1戦で大接戦の末、ボウが判定で勝利を収めチャンピオンの座についた。
ホリフィールドはキャリア初の黒星。

翌93年に行われた再戦も緊迫したファイトの末、今度はホリフィールドが判定でボウを下し、雪辱した。
ボウはキャリア初の黒星。

1勝1敗で迎えたラバーマッチがこの95年の対決である。

体が自身より数段大きいボウに対してホリフィールドは前2戦より更に勇敢に打ち合ってゆく。

ホリフィールドのボディにしきりにパンチを集めるボウに対しホリフィールドも応戦。
6R衝撃の瞬間が待っていた。

打ち合いの中でホリフィールドが放った左フックがボウの顎を襲うと、204キロの巨体がキャンバスと倒れた。

やっとの思いで立ち上がったボウであるが、コーナーにつまり追撃のピンチであったが、ホリフィールドも疲れていたのか手が出ない。
ボウはレフリーに助けを求めるかのような不可解な抗議をしながら、ようやく逃げ切った。

7Rはホリー優勢のままラウンドを終了。

そして運命の8Rを迎える。

両者強気の打ち合いの中で、ホリフィールドのパンチが当たりボウがグラつき、6Rの再現かと思われた瞬間、ボウがなぎ払うように放った右フックがホリーにヒットすると、前のめりにキャンバスに崩れ落ちた。

痛烈なダメージだったホリフィールドは何とか立ち上がるが、ファイティングポーズもとれず。
レフリーは再開するが、ボウがラッシュをかけ、ホリフィールドがロープにもたれかかったところでストップ。

世紀のラバーマッチはボウの勝利に終わった。

今ビデオで見ても震えが来るほどの名勝負中の名勝負であったと言える。

箕島高校VS星陵高校

2009-12-30 10:33:59 | 名勝負物語

名勝負物語⑥
1979年8月16日
第61回全国高等学校野球選手権大会3回戦
箕島高校4対3星陵高校

甲子園には数年に1回、背筋が凍るばかりの激闘、名勝負が訪れる。
その中でも、この試合は甲子園史上最高の名勝負として語り継がれている。

箕島はセンバツで優勝を果たしこの夏は史上3校目の春夏連覇を目指していた。
センバツで激闘を演じた牛島、香川の超高校級バッテリーを擁する浪商や池田高校などライバルは多い。
そんな中、3回戦の星陵戦は行われた。

4回にともに1点ずつを取り合ったあとは、箕島・石井、星陵・堅田がともに好投し延長にもつれ込む。

12回の表、星陵は箕島のエラーから1点を勝ち越す。なおもチャンスが続くがスクイズ失敗などで追加点を取れない。
それでも12回裏の箕島の攻撃を堅田は抑え込み、2アウトまで追い詰める。
打席に入るのは後にプロ入りする捕手の嶋田。
名伯楽・尾藤監督の「ホームランを打って来い」の言葉通りにラッキーゾーンにホームランをたたき込み同点。

14回裏。今度は箕島がサヨナラのチャンスをつかむ。
ワンアウト3塁の大チャンス。
しかし星陵・若狭の隠し球と言う奇手によりチャンスは潰える。

16回表。星陵は山下のタイムリーで勝ち越す。
その裏。運命の箕島の攻撃が始まる。
この回を抑えれば準々決勝の進出が決まる星陵・堅田は快調に2アウトを取る。
続く森川は一塁ファウルグラウンドの平凡なフライを打ち上げた。
誰もがゲームセットと思った瞬間、星陵の一塁手加藤は、この年から新設された人工芝の切れ目に足を取られ転倒する。
命拾いした森川は2・1からレフとスタンドへ起死回生、まさにそうとしか言いようのない同点ホームランを放った。

このあとも意気消沈せず17回を抑えた堅田だったが、引き分け目前の18回裏、遂に力尽き簑島がサヨナラ勝ちを収めた。

この試合は箕島の奇跡的粘りと堅田、石井の素晴らしい快投が見ごたえだった。
そして転倒した加藤は後にこのエラーを仕事で話題にするまでに割り切る事が出来、それぞれがその後の人生を歩んでいる。

箕島はこの大会、浪商、池田を破り見事春夏連覇を果たした。

この後も、吉田戦、明徳戦などで劇的な奇跡を見せた箕島だが、このところかつての活躍は見られないのは、残念である。


山下泰裕VS斉藤仁

2009-08-06 17:06:59 | 名勝負物語
名勝負物語⑤
1985年4月29日
全日本柔道選手権


柔道といえば日本の国技であり、今でも世界最高レベルにある競技の一つといえる。
その柔道史上最高の選手といえば山下泰裕を挙げる人は多く、そして203連勝、全日本9連覇、そして怪我をおしての五輪での制覇、国民栄誉賞受賞と、文句のない実績がそれを示している。(外国人選手には116勝3分と負けなし)

二番目は誰かといえば、斉藤仁を挙げる専門家は多い。

1977年に遠藤純男を破り全日本初制覇を果たした山下はその後快進撃を続ける。
一方斉藤は山下の全日本7連覇目である83年に初めて決勝に進出している。以降3年連続して山下と決勝で対決することになる。

84年はロス五輪で、山下が無差別、斉藤が95キロ超級でともに金メダルを獲得する。(当時は無差別級があった)
山下は国民栄誉賞を受賞し引退の機運が盛り上がる中、最後の試合として参加したのが85年の全日本選手権であった。

予想通り決勝に進出した二人は相対した。
積極的に責め続ける斉藤に防戦の山下。しかし互いに小内、大内刈りを探り程度で入れていた。
斉藤の4分20秒、山下が左支え釣り込み足を仕掛けたところで、斉藤は全体重を山下に浴びせかけた。
2人とも畳にどっと倒れこんだ。有効または技ありかと思われた場面であったが、主審は「斉藤の返しではなく山下の腰砕け」と判断し、ポイントならなかった。
ここから山下の猛攻が始まる。
大内刈りや内股などを連発。斉藤は余裕でかわすが、結果としてこれが響く。

10分が終了したところで、斉藤はガッツポーズを見せるが副審二人は山下に旗を上げる。斉藤は呆然とし涙を浮かべた。

斉藤本人は浴びせ倒しのポイントがならなかったことよりも、その後の山下の攻勢を許したことをポイントとして挙げた。

山下この試合を最後に引退、斉藤はその後膝を痛めて低迷するが、ソウル五輪で連覇を成し遂げ、初めて山下を超える。

不世出の2人の天才が聳え立った80年代の日本柔道。
この対決を見れたことは幸せである。



瀬古利彦VSジュマ・イカンガー

2007-10-28 14:49:52 | 名勝負物語
名勝負物語④
1983年12月4日
福岡国際マラソン
ロス五輪マラソン日本代表選考レース

今ではオリンピックのマラソン選考は男女ともに4レースで3人を選ぶと言う不思議な形態となっているが、この当時は福岡国際マラソンでの一発選考だった。
上位3名が自動的に選出されると言うシンプルで分かりやすい選考システムで、もめるような事はなかった。

オリンピックを翌年に控えたこの年の夏、瀬古は肝機能障害と左足の故障で体調を崩す。
今の男子マラソン界とは違い、当時世界トップの実力と言われた瀬古以外にも宗兄弟や伊藤国光、喜多秀喜と言った世界トップレベルの選手が揃っており、体調不良は致命的になる状態だった。
そんな中で迎えたこの大会は、この5人以外にも当時世界記録を持っていたアルベルト・サラザール(アメリカ)やタンザニアのジュマ・イカンガーと言う世界トップの選手が出場し、五輪並みの盛り上がりを見せた。

27キロ過ぎには先頭集団はこの7人に絞られ、31キロの喜多が脱落。その後も激しいレースとなるが39キロで宗茂が脱落すると、イカンガーがスパートをかけるが瀬古も着いてゆく。

最後はややイカンガーが前にでたままトラック勝負となった。
そしてラスト100メートルで瀬古は一気に矢を放ったようなスパートを敢行。レーススタート時点から常にトップを走ったイカンガーは付いてゆけず、瀬古は2時間8分52秒で優勝を果たし五輪出場を文句なく決めた。

この二人以外にも一度遅れた宗茂が後半盛り返し3位、弟の猛が4位、伊藤は自己新を出し健闘したが5位(日本人4位)に終わり五輪代表は、瀬古と宗兄弟に決まった。
このレースはマラソン史上初めて6人が2時間10分を切るというハイレベルなレースとなった。

このレースを見た日本人は翌84年のロス五輪での瀬古の金メダルを確信したのだった・・・。

ヤクルトスワローズVS西武ライオンズ

2007-10-07 10:07:31 | 名勝負物語
名勝負物語③
1993年10月27日
日本シリーズ第4戦
スワローズ1対0ライオンズ

1979年に九州から埼玉に移転したライオンズは、当初の3年こそ6位・4位・4位と低迷したものの、名将の広岡達郎氏が監督に就任すると1年目の82年に日本一となり、以降2007年に5位に低迷するまで25年連続でAクラス、85~88年までのリーグ4連覇(うち日本一3回)、90~94年までの5連覇(うち日本一3回)を含め25年間で15回のリーグ制覇・9回の日本一に輝いた。

この日本シリーズが行われた1993年は、黄金時代の絶頂期で工藤、郭、渡辺久、石井丈と言った強力な先発陣に加え鹿取、杉山、潮崎と言った豊富なリリーフ陣を抱え質量とも他を圧する投手陣を擁していた。更に打線でも清原、秋山、石毛と言ったスター選手に加え、辻、伊東、鈴木健と言ったいぶし銀の選手も充実、攻守のバランス・野球の上手さなど穴はなかった。
一方、スワローズは78年に広岡監督の下、若松、大杉、マニエル、松岡らを擁して日本一に輝いて以来、下位に低迷し続けていたが、90年に野村克也氏が監督に就任すると2年目には3位、3年目の92年には14年ぶりにリーグ制覇し、そのライオンズと激突した。
ライオンズ圧倒的有利と言う下馬評の中、4試合が延長・サヨナラ勝ち2試合・1点差4試合と言う稀に見る激闘の末、ライオンズが4-3で日本一に輝いた。

2年連続で同じチーム同士の対決となったが、前年まで主軸だったデストラーデが抜け若干打力にマイナス要素があり、ID野球が浸透したスワローズにもチャンスありと見られた。
初戦荒木の好投でスワローズが先勝、2戦目も西村が粘りのピッチングを見せ敵地で連勝した。
神宮に戻った第3戦は、逆にライオンズ打線が爆発し対戦成績を1勝2敗とした。

そんな中、迎えた第4戦、ライオンズは前年日本一の立役者石井丈、スワローズは素質は認められながら中々壁を突破出来ない川崎が先発となった。
0-0でむかえた4回裏、ハウエルの内野安打でスワローズが1点先制し、その後はスワローズ川崎、ライオンズは石井の後を鹿取・杉山と継ぎ8回表のライオンズの攻撃をむかえる。
2アウト2塁から2番平野に四球を出し2アウト1,2塁となり、3番鈴木健がバッターボックスに入った。
このシリーズ鈴木は9打数4安打と当たっている。
その鈴木が好投川崎の球をはじき返しセンター前へ。中間守備の指示を出していた野村監督は同点を覚悟しただろう。
しかし指示に反して前進守備をしていた球史に残る名センター飯田は、猛烈に前進し鈴木の打球をワンバウンドでキャッチし、その勢いに乗りホームへダイレクト送球した。ホームを突いた俊足の代走苫篠は古田に封殺された。
このイチロー以上の「レーザービーム」は震えるようなシーンだった。

実は前年の日本シリーズ第7戦で、飯田は前進守備の頭の上を投手石井に破られると言う屈辱があった。それを晴らす見事なプレーだった。

9回は守護神高津がリリーフし結局1-0でスワローズが対戦成績を3勝1敗とし、この1勝がものを言い、このシリーズスワローズが4勝3敗で制し、ライオンズは日本シリーズでの連勝を6でストップした。

野村監督は自身の指示に反して前進守備を敷いた飯田に対し、叱責するどころか「これぞプロ」と大いに誉め、翌日のスポーツ紙で1面にしなかった記者に「恩知らず」と悪態をついた。

スワローズは90年代、野村監督のもと4度のリーグ優勝・3度の日本一に輝き、この後ライオンズは黄金期に陰りが見え始める。


高橋ナオトVSマーク堀越

2007-09-19 10:42:53 | 名勝負物語
名勝負物語②
1989年1月22日 後楽園ホール
ボクシング・日本jrフェザー級タイトルマッチ
高橋ナオト(9R2分42秒KO)マーク堀越

昭和晩期から平成にかけての日本ボクシング界は世界チャンピオンのいない時代で低迷期にあった。この試合の翌90年2月に大橋秀行がタイトルを奪取するまで、日本人ボクサーは世界戦21連敗と言う恥辱的な記録を作っていた。

そんな時代にボクシングのメッカ後楽園ホールを沸かせ続けた一人のスターボクサーがいた。それが高橋ナオトだ。
将来の世界王者として順調に日本チャンピオンまで上り詰めた高橋だが、2度目の防衛戦で、伏兵の小林智明に敗れバンタム級のチャンピオンとしては予想外に短命に終わる。
更に続く王座決定戦でも島袋忠に痛烈なKO負けを喫し低迷期を迎える。「ナオトは終わった」と言う声も聞こえ始める。しかしその後、復調し階級を上げ3連勝。そして向えたのがjrフェザー級チャンピオンのマーク堀越戦だった。
マーク堀越は世界も狙える逸材と言われ、この試合に勝てば世界戦も見えていた。

試合は3R、マーク堀越の多彩な攻撃の前にグロッキーとなった高橋だが、希代のカウンタパンチャーである彼は4Rに伝家の宝刀右ストレートで逆転のダウンを2度奪う。
これで勝負あったと思われたが、世界を目前にしたマークも堪えに堪え、今度は7Rに逆襲に転じ、高橋は何とか持ちこたえるが、マークは8R左フックで決定的とも言えるダウンを奪う。フラフラになりながら立ちあがった高橋だが、もはや高橋がマットに沈むのは時間の問題かと思われた。
しかし高橋は何とか9Rに持ち込み、今度は痛烈な右でまたもや逆転のダウンを奪う。必死に立ちあがったマークだが、再び高橋が右を顔面に打ち込み、遂に決着。
逆転の貴公子と言われた世界チャンピオンの大場を彷彿させる展開にホールは興奮の坩堝となった。
スリリングと言う点では日本ボクシング史上トップとも言える試合で、この後もこれ以上エキサイティングな試合は国内では行われていない。