自然体の自分で他人と接しないと結果、自分の首をしめることになり、人付き合いが怖くなる。
人付き合いが怖いルーツ
人付き合いが怖くなるルーツは幼少期の養育が大きな要因である。
幼児期には、親や学校の先生に「こうしなさい」「こうあるべき」だと躾をされる。
ここが問題である。
躾とは言い換えるとマインドコントロールである。
たとえば、他人と接する時は、堂々とハキハキしゃべるべきである。などである。
しかし、それが自然体の自分にそぐわないと人付き合いが怖くなる。
人というのは、自然体、言わば個性を持って生まれてくる。
その個性を捨て去ることはできないようにできている。
人間の神秘である。
人には内向性が強い人と外向性が強い人とその中間で別れる。
内向性の人は他人とのある程度の距離感が必要なのである。
だからといって内向性の人を否定することはない。
内向性の人の思慮深さや深く狭い人付き合いは魅力的である。
内向性の人は、社会に出てからなど、最初は人付き合いが怖いと感じられることがある。
人付き合いが怖いを克服する
内向性の強い人は誤ったマインドコントロールを解くことで人付き合いが怖いを克服することができる。
たとえば、人前では堂々とハキハキしゃべらなければいけないという価値観を持っている人は、びくびくおどおどしながらしゃべってみることである。
すると、自然体の自分で他人と接することになるので人付き合いが怖くなくなる。
つまり、ここで大切なポイントなのは、人前でびくびく、おどおどしゃべる勇気を持つことである。
つまり価値観を塗り替える修羅場を経験することなのである。
その価値観を塗り替えるコツを述べてみたいと思う。
この人との人付き合いは自分にとってどんな意味があるか
相手を理解しようという原則に立てば、相手をなおそうとする原則に立つよりは、イライラは少なくて済む。
しかし、その人付き合いに不快が全くないわけではない。
何といっても人が自分の思うとおりに動いてくれるのが最高に快適であることにまちがいはない。
そこで少しでも不快指数を下げるためにはこの苦境は自分にとってどんな意味があるかを考えることである。
仏教でも教えるように怨憎会苦といって、いやな人間と顔をつきあわせていきなければならないというのは人生の苦悩のひとつである。
この人付き合いの苦しみから足を洗うには、このいやな人との共存は(例―いやな配偶者、いやな上司、いやな隣人)自分にとってどういうプラスの面を持っているかを考え出すのである。
たとえばいばる上司に付き合う部下は「彼はいばるべきではない」と内心思っているから不快なのである。
そこで「この上司は私のお世辞の練習台である。ここで私が適度のお世辞がいえるおとなになれれば、これからの人生がだいぶ楽になる」とビリーフを工夫すれば不快がぐっと減少する。
あるいは、わがままな姑とつきあう嫁は「どうすれば少しでも快適な人生が送れるか、そのコツを考案しよう。
将来自分の娘が私と同じ境遇になったときの参考書づくりの取材のつもりでつきあえばよい」と自分に言いきかせるわけである。
姑との人付き合いが怖いという感情を解消することができる。
これはこじつけではなく、自分が真に納得できる意味づけでないと、欺瞞的な人生になってしまう。
意味を考案する作業は芸術作品をつくるのと似ている。
与えられた素材をどう使うかを考えるのも楽しい。
要するにここで強調したいのは、くせのある上司や配偶者やルームメイトと一緒になってしまったので人生の番狂わせが起こったのではなく、そういう人との共存は自分にとって無意味である、人生の無駄であると受け取ったから不幸な人生になってしまったのである。
相手の人柄そのものが私たちを不幸にしているのでなく、人付き合いにおいて自分の意味づけの仕方いかんによって幸せにも不幸にもなるといいたかったのである。
人付き合いが怖いを克服するための自己開示の勇気
私の欲するとおり人は動くべきである、というビリーフはひとりよがりゆえ、よくない考えであると思う。
しかし、実際問題として相手の言動で迷惑をこうむることがある。
そういうときでも、相手を理解するにとどめ介入してはならないのか。否。
個人主義というのは人の迷惑にならない限りにおいての自由を尊重する思想である。
迷惑をこうむっている側はそのことを表明する自由を行使すればよい。
それは「あなたは横柄な態度をすべきでない」というセリフではなく「私はあなたが横柄に見えます。それゆえ私はあなたがきらいです」と自分のことを語ればよいのである。
自由を手に入れるということは人付き合いが怖いを克服することにつながる。
迷惑を受けるとはこちらの権利が侵されている場合のことである。
「ランニングシャツでのご来店はご遠慮下さい」との貼り紙は、あなたのランニング姿は私の客を奪います、私の営業権が邪魔されるわけです、との意味がこめられている。
決して「ランニングシャツを着るべきではない」と相手の個人的好みにケチをつけているわけではない。
自分の事情を開示しているだけである。
自己開示をしないでいて、心の中で人の言動を批判し、イライラしたり自分を卑下してもあまり建設的ではない。
こちらの事情を知ってもらう方が人付き合いにおいてもずっと建設的である。
建設的とはこの場合、問題(フラストレーション)解決に少しでも貢献するという意味である。
自己開示は自己主張とちがって「~してほしい」と依頼・説得するわけではないから自己主張よりはやさしい。
自己開示は私はこう感じていますと人付き合いで内界をオープンにするだけで、あとは相手にまかせるのである。
ところが相手が鈍感なため相変わらずということがある(例―音を立ててスープやコーヒーを飲む。同席者は快適ではない)。
どうしてもこれに耐えられないのなら、同席を回避するしか手はない。
「音を立てて飲むべきではない」と心のなかでとがめて不快になるよりはその方がよい。
とにかく自分はどうすれば幸福になれるかを考えることである。
人をどう変えさせたら人付き合いが怖いを克服し、自分は幸福になれるかではない。
人をこちらに合わせさせようとするからイライラするのである。
心理的距離を離してみる
例えば、電車に乗って、座席に座っている自分の両側に人が座っている状態を想像したい。
これは、物理的距離は近いが、心理的距離は遠い。
しかし、厳しくて偉い上司が離れてはいるが同じ車両に座っているとする。
これは、心理的距離は近くなっている状態である。
心の糸がピンと張った状態である。
この心理的距離を離す必要がある。
それには、他人との関係性の改善が必要になる。
それにはどうしたらいいかというと、失敗を繰り返し行い受け入れることである。
それには、自分自身が抑圧しているものは何かということと、その失敗をさらけ出す勇気が必要である。
そうすることで、他人との関係が客観視できるようになり、心理的距離を調節できるようになる。
怖さが解消された後はどんな感じになるのか
人付き合いが怖いを克服をした後は、まず生きるエネルギーが湧いてきて、青空はどこまでも青く、空を飛ぶ鳥は皆、楽しそうに見えます。
他人は他人で客観視できるようになり、距離をとれるようになります。
つまり、他人があまり気にならなくなります。
また人付き合いの怖さを克服して得る最大の褒美があります。
それは人の痛みがわかるようになるということです。
そして人に優しくなれます。
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