~~~~~~~~~~~~~~~
「お金=神」の時代 どう生きる?
~~~~~~~~~~~~~~~
私はある朝、野尻湖の家を出て、尾瀬沼の北、奥只見の田子倉ダムを通って奥会津の片貝温泉で体を休めた。
新潟を回って高速道路を走れば目的地の郡山(福島県)まで4時間余りの道のりだが、下道の国道を走ると、優に倍以上の時間がかかる。しかし、浮いた高速料金で一泊の温泉代をかなりカバーできるから、時間に余裕さえあれば、東北の農村地帯、山岳地帯をのんびりドライブするのも悪くない。かえって、自由で気ままな最高の旅になるというものだ。
魚沼産の米どころ、奥只見の山々、秘境の湯もこれが見納めかもしれないではないか。
田子倉ダム
郡山での用件を済ませて、翌朝なにげなく新聞に目を通していたら、表題の見出しの記事が目に入った。大見出しは「宗教から現代社会を問う」というジャーナリストの池上彰氏と作家の佐藤優氏の対談を軸にまとめた特集が5面いっぱいに展開されていた。
佐藤氏は言う。「1万円のもとは二十数円。それに価値を認めるのは《拝金教》と言う宗教を信じていることなのだ」と。私は納得したような、しないような・・・。
池上氏は言う。「私たちは、神と言った超越的な存在を信じるのを宗教と考えていますよね。ただ、お金にも《超越性》がある。・・・《お金と言う神様》がいる資本主義。その中で、私たちはどう生きる?」これは、私も考えさせられる大問題だと思った。
人類と共に古い職業。それは女性の場合は《娼婦》、つまりお金のために自分の体を売る商売だが、一流大学出のエリートがお金のために職業上の機密を売る。つまり自分の良心と自分の魂を売り渡して《お金の神様》の奴隷となり、その神を礼拝し、その見返りに神のご加護(出世や昇給)を期待する。ところが、お金の神に見放されると人はいとも簡単に自殺する。
だから「お金=神」と言う池上氏の設定は正しいと思う。富を崇拝する世俗化した資本主義は、グローバル化した偶像崇拝の巨大宗教と言うことが出来る。その宗教の神は「マモン」または「マンモン」と呼ばれ古代シリアの偶像神にまでさかのぼるらしい。テレビゲームの世界ではお馴染みのキャラクターだ。
ちょっと立ち止まって、胸に手を当てて、正直に反省してみると、私を筆頭に、すべての現代人は国籍を問わず多かれ少なかれこのマンモンの神の礼拝者、その信者、その奴隷であることに気付くはずだ。これこそ世界最強、最大の宗教で、その前にはキリスト教も回教も仏教もかすんで見えるほどだ。
だが、聖書には「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6章24節)とある。
これを読むと、私を始めとして、キリスト教を信じていますと告白する信者のほぼ全員が、実は、「富に親しんで神を疎んじる」キリスト教者失格で、本当はマンモンの神の熱心な信奉者であるという本性が見えてくる。だから、神父やシスターを先頭に、キリスト教信者なんて、マンモンの神の奴隷が十字架を染め抜いた半纏(ハンテン)を着て歩いているような滑稽な姿をしていることに気付いていないだけだ。現金やクレジットカードと無縁な日常生活がほとんど不可能なほど、マンモンの神は私たちの存在の根底に深く食い込んでいる。神に親しむがゆえに富を疎んじる生活などもはや成り立たないかのようだ。
しかし、それは何も今日に始まったことではない。キリストの直弟子たちからして、今の我々と50歩100歩だったのだ。いかに教育し薫陶しても、一向に天の父なる神を信じ帰依しきれないでいる弟子たちを促して、イエスは一つの過激な実験に挑戦させた。それは、マンモンの神の奴隷状態から一時的に解放して、天の父なる神以外に頼るものがない状態を人工的に作り出したら、そこで人はどうなるか、と言う実験だった。二人ずつ組みにして、一銭もお金を持たせず(つまり、マンモンの神を身辺からきっぱりと遠ざけて)、福音を告げるために巷に放り出すのだ。
イエスは自分の12徒を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、・・・その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」(マタイ10章5-13節)と聖書に記されている。
聖書にはその実験の期間についての記述がないが、3日や5日では効果が見えてこないことは容易に想像できる。多分、少なくとも半月、おそらく一か月以上はかけたに違いない。ジャングルや極地におけるサバイバルゲームを、人の住む町や村の中で行うのだ。
それを、現代文明社会で文字通り再現したらどうなるだろうか。何十人から数百人を、2人ずつ組みにして派遣するために、家族や仕事のある生活人に揃って一定期間の休暇を確保させるとすれば、せいぜい10日から2週間が限度だろう。一か所に集合して、抽選で組み合わせ相手と派遣先の町を決めるのに2-3日を要する。派遣期間が終わって帰ってきて報告会を開くのにまた2-3日を要すると考えれば、正味1週間、まる7日ぐらいが限界と言う事になるだろうか。2-3日なら公園やコンビニのトイレの水を飲んで飢え渇きに耐えることが出来るだろう。夜は公園のベンチや橋の下に段ボールを見つけて雨露をしのぐこともできる。しかし、1週間となるとやせ我慢にも限界がある。財布に一人5-6万円のお金があれば、コンビニやファミレスで食べ、ビジネスホテルに泊まればいいからなんてことはないが、1銭も持たされず、期間中、食べ物、飲み物、一夜の床は人の好意にすがってもいいが、お金だけは絶対に受け取ってはならないと言われると、神様の計らいに対する最低の信頼なしには、足がすくんで出かける勇気がわいてこないのが普通だ。
ただ、やったら神様が実在すること、神様が細やかな配慮をもって必要なことをはからって下さることを理屈抜きに体験できるだろうと言う言葉を信じて、恐れながらも蛮勇を振るって出かけるしかないのだ。
私は四半世紀以上前に2回にわたってその実験に参加した。言われた通りにやったら、あら不思議、神様は実在した。それも、普段ポケットの中に居るお金の神よりも確かなものとして。彼は私を心にかけ、必要を十分に満たして下さった。お金の神様よりもはるかに頼もしい信頼のおける神様がいた、と言う事実を、理屈抜きに実体験出来た。生涯決して忘れることのできない、信頼の揺るぎえない基礎を与えられた。背骨にズカッと筋金が入ったと言ったらいいだろうか。
しかし、いくら抽象的な話を聞いても、ブログの読者には説得力のある実感が湧いてこないかもしれない。だから、遠い記憶をたどりながら、あの時、私の身にどんなことが起こったか、出来る限り忠実に、かつ具体的に記して納得していただこうと思う。次回以降を是非お楽しみに。
(つづく)