:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 上智大学・グレゴリアーナ大学・教皇フランシスコ

2014-04-12 17:00:00 | ★ ローマの日記

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上智大学・グレゴリアーナ大学・教皇フランシスコ

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去る3月14-15日

ローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学で、

上智大学創立100周年記念行事として、両大学の 「合同シンポジウム」 なるものが開かれました。


 

天皇、皇后両陛下御臨席のもと、東京国際フォーラムにおいて開催された記念式典の模様を伝える通信

 

 私は「上智大学」の文学部哲学科博士課程から助手を勤めるところまでしっかりお世話になり、

「グレゴリアーナ大学」の神学部では修士課程を修了したご縁で、久しぶりにトレビの泉に近いキャンパスに足を運びました。


グレゴリアーナ大学の正面ロビーに立っていたシンポジウムの案内板


 初日、開場から参加登録と開会までの時間つぶしに、ホールのスクリーンに次々と映し出された上智大学の歴史映像は、何もかもが懐かしかった。私の入学の年に男女共学になり、あっという間に文学部と外語学部は華やかな女子大風になっていった。相次ぐ学部の増設と校舎の増築、それに伴う学生数の飛躍的増加 ・・・。


           

大学紛争で苦楽を共にした敬愛する守屋学長の温顔   フランクルの「夜と霧」の訳者、心理学の霜山教授の講義は全部聴いた

何れも故人 私は片想いながらお二人とも恩師と敬愛して已まない (シンポジウム開会前のスクリーンの映像から)


 私の中世哲学研究室助手時代は、上智大学は新左翼学生諸兄による学園紛争で荒れに荒れた。そのさ中、イエズス会員神父の学長が辞職すると、東大から理工学部長として招聘されたカトリック信徒の守屋教授学長になり、東大流の「大学の自治」の高い理念に燃えて、紛争を対話で収拾しようと腐心されている姿に感動した。私は自分が鍵を預かる研究室を開放して、本館をバリケードで封鎖した全共闘リーダーと学長との密会を夜な夜な助けた。しかし、その努力が実を結ぶかに見えた矢先、ある朝突然、外国人神父らが実権を握る理事会の主導で機動隊が導入されたヴィデオを見ながら、ボコボコにやられて血を流し、手錠をかけられ、悄然と引き立てられて行った愛する学生たちの姿を、昨日のことのように思い出し、胸が熱くなったた。

 その頃、国・公・私立を問わず、どの大学も「学問の自由」「大学の自治」の理念に呪縛され、何とか対話で平和裏に難局を乗り切ろうと苦闘していた時代だった。ドライに機動隊導入に踏み切り、警察の暴力装置を借りて全共闘の学生らを犯罪的暴徒として排除したキリスト教聖職者らの冷徹さと手際の良さに、世間はアッと息を呑んだものだった。(同じ頃、京大の教授らは、街頭デモで学生たちが機動隊に逮捕されても、うちの子ですから、学内で処分しますから、と言って頭を下げて学生を引き取りに行温情の人たちだったという。)これをきっかけに、学園紛争に悩まされていた全国の大学は、「上智大方式」という名の免罪符にすがって、見る見るうちに学園紛争を制圧していったのだった。思えば、あの頃から日本の社会は急速に右傾化していったと言えるのではないか。

 学園が正常化すると、粛清の嵐が吹き抜け、身分保障の弱い助手の私は職を追われた。だがそのお蔭で、国際金融業への転身に道が開け、さらに今はこうしてローマで神父をしていられるのだから、すべてに神様のお導きの不思議を思わずにはいられない。(この辺の顛末は「バンカー、そして神父」(亜紀書房)に書いた→ http://t.co/pALhrPL )

 その懐かしい母校も、創立100周年を迎えたかと思うと実に感慨深い。私は上智の歴史の半世紀以上を知っていることになる。

 

シンポジウムの挨拶に立ったニコラスイエズス会総長

 

 シンポジウムはイエズス会のニコラス総長の挨拶に始まり、お馴染みの「インカルチュレーション論」(私のブログでその批判論を再三展開しているので是非見ていただきたい)など、シンポジウムの内容はあまり変わり映えがしなかった。やはり、最初のスライドショーがいちばん圧巻だった。

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グレゴリアーナ大学の関係者に対する教皇謁見の招待状 最近急に印刷が手の込んだものになった 偽造防止策と思われる


 そして、昨日(4月10日)、教皇フランシスコが、バチカンのパウロ6世謁見場にグレゴリアーナ大学の教授、スタッフ、学生、関係者一同を集めて謁見を行った。我がレデンプトーリスマーテル神学院の神学生の大部分が通っている大学でもあり、かつて私自身その神学部でお世話になったこともあって、参加した。

1万人入ると言われる通称「サラ・ネルビ」がかなり人で埋まった印象だった。


サラネルビの入り口を固めるスイス衛兵 コスチュームは天才ミケランジェロのデザイン


 教皇フランシスコは、比較的短い挨拶の中で次のようなことについて話されたのが印象に残った。


   

前座を受け持つ我がレデンプトーリスマーテルの神学生 演目はキコの歌    エジプトのコプト教会の神学生たちのエキゾチックなパーフォーマンス 


 

バチカン市国、2014年4月10日 (Zenit.org)

 

「教皇庁立グレゴリアーナ大学」の関係者に対する教皇の挨拶(抄訳)

 



 ・・・・(世界中の様々な国から学者や学生が集まっていることに関連して) 同時に皆さんは、自分たちの属する様々な教会と文化をここにもたらしています。これ(グレゴリアーナ大学)はローマにある機関の一つです。それは信仰を成長させ、心と精神を普遍性(カトリック性)に向けて開く貴重な機会です。この地平の中で「中心」「周辺」の弁証法、つまり「周辺から中心に到達し再び周辺に帰っていく神の論理に沿った福音的な形」がおのずと姿を現します。

 私が皆さんと分かち合いたいと思ったもう一つの側面は、学問霊的な生活の関係についてです。教えること、研究すること、勉学など広義の養成に対する皆さんの知的な取り組みは、キリストと教会に対する愛に動機づけられていればいるほど、また、学問祈りがより調和的に結ばれていればいるほど、より実り豊かなものになるでしょう。

 知識と大切な事柄の理解の鍵を、相互に結び合わされていないばらばらな概念の集積としてではない形で伝え受け渡すには、どうすればいいか:これは私たちの時代の挑戦の一つです。命と世界と人間を単に総合的にではなく、理性と信仰の真理にもとづいた探求と確実さの霊的な雰囲気の中でより良く理解するためには、真の福音的な解釈学が必要です。哲学と神学は人が知性を構成し強化し、意志を照らす確信を手に入れることを可能にしますが・・・、しかし、それらすべては開かれた心で跪(ひざまずき)ながらなされたときにのみ、実り豊かなものとなり得ます。自分の完結した閉ざされた思考に満足している神学者は「二流の」神学者です。優れた神学者哲学者は開かれた思考、つまり、未完成で神とより大いなる真理に対して常に開かれ、レリンスの聖ヴィンセントが描いた法則、「年を経て統合され、時とともに敷衍され、時代とともに深まる」(Commonitorium primum, 23: PL 50, 668)に従って発展する思考を持っていること、これが開かれた心を持った神学者のあり方です。そして、祈らない、神を礼拝しない神学者は、病んだナルシシズムになり果てます。これは教会病の一種です。神学者と思想家のナルシシズム吐き気を催させるほどの大きな害をもたらします・・・。

この日の謁見は、聖母マリアへの祈りで締めくくられた。

  

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 ベルゴリオ時代現教皇は決して主流派ではなかった一人のイエズス会員として、ニコラス総長に従順を誓っていた。今、攻守所をかえて、ニコラス総長元配下ベルゴリオ会員に従順を誓う番となった。歴史的に、教会を陰から支える実力者とされてきたイエズス会総長「黒い教皇」と渾名され、それに対してローマ法王「白い教皇」と呼ばれてきたのだ。


              

                      「白い教皇」 フランシスコ                                 「黒い教皇」 ニコラス総長     

     

(おわり)

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4 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-04-13 14:54:00
谷口くん

すべては開かれた心で跪(ひざまずき)ながらなされたときにのみ、実り豊かなものとなり得ます。

いい言葉だ。 私もそう思います。

J.K.
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文藝春秋4月号の記事。 (大澤道子)
2014-04-15 21:08:46
文藝春秋4号で、川口マ―ン恵美氏が「欧州で教会離れが進んでいる」と詳細に報告されています。塩野七生氏が「30代首相はイタリアを救えるか」と論じています。これらの記事はキリスト教の現状を知る上で大変参考になりました。
返信する
Archivista diplomato della Scuola-ASV様へ。 (谷口 幸紀)
2014-05-15 22:54:41
Archivista diplomato della Scuola-ASV様へ。
コメントを戴いて、うーん!と思わず唸ってしまいました。
本来なら、自動的に公開扱いにすべき、と、ほとんど心を決めかけていながら、最後のところで踏み切れない後味が残りました。
私は、現イエズス会総長のニコラス神父様に対して、特別な感情を抱いていません。そのことと切り離して、平の司祭の「黒」、司教の「紫」、枢機卿の「赤」に対して、高位聖職者の中で教皇様がただ一人だけ、「白」をシンボルカラーとしている中で、基本的には一切の高位聖職につかないことを建前として来た(私はイエズス会の志願者の時そう教え込まれたと記憶しています)イエズス会員の頂点に立つ総長が、「黒い法王」と渾名されてきた歴史は、必ずしも否定的な意味ではなかったと理解しています。宗教改革で教会が傷つき分裂した危機の時代に、新世界に対する福音宣教の目覚ましい貢献も含めて、聖職位階の中では全く無冠のイエズス会総長が「黒い法王」と呼ばれたのは「平の司祭」の身分(黒)にありながら、教会に絶大な貢献をしたという、ポジティブなイメージこそあれ、俗に「黒い噂」などと言うときの否定的な「黒」のイメージは本来無かったのではないかと思います。私はその意味でその表現を肯定的に使ったつもりでしたが、残念なことに真意が伝わらなかったようですね。
そこのところの食い違いを出発点にして組み立てられたコメントは、私の真意と関係のない場所で展開されているような印象を受けて、公開をためらう理由となりました。
どうかご理解ください。それと、「Archivista diplomato della Scuola-ASV」というコメント者の署名が、私には謎めいていて、一抹の危惧を抱いてしまいました。私の無知のなせる業かもしれませんが・・・
でも、その顔の見えない方と建設的な対話してみたい気持ちは豊かにあります。もし、ご本名とメールアドレスをコメント欄に頂けたら(幸い、一旦は自動的に保留状態で届きますので、決してその情報は公開しませんから、プライバシーは守られます)そのアドレスに私のメールアドレスを添えてお返事申し上げたいと思います。
最後に、お問い合わせの名前の神父さまについては、心当たりがありません。従ってその消息を知りません。
返信する
Archivista diplomato della Scuola-ASV様へ。 (谷口 幸紀)
2014-05-16 01:41:43
追伸として: 自分のブログを読み直してみました。なるほど、表現に誤解を招きそうな部分がありました。
さっそく訂正しましたので、よろしくお願いいたします。
返信する

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