:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇の決定的アクション

2012-01-31 11:20:11 | ★ 新求道共同体

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教皇の決定的アクション

-新求道期間の道の承認完了-

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AV(アッヴェニーレ)紙の関連記事の
大見出し 写真は教皇とキコたち

「信仰の喜びを示す恵み」

-「指導書」の「祭儀」承認される-


このブログの読者は圧倒的多数がノンクリスチャンの方であることは、アクセス解析から察せられます。その読者にとって、上のようなタイトルは、ややもすれば「一宗教のコップの中の嵐」と受け取られ、無視される恐れが多分にあることを私は強く意識しています。

だから、その皆さんに「おや?この記事はちょっと面白いぞ!」と耳目を引くことができれば大成功なのですが・・・・。

では、「新求道期間の道」(以下単に「道」としましょう)という、いかにも耳慣れないカトリック教会の中の存在が、どうしてあなたの関心の対象になり得るのでしょうか?

「道」の中で40年余りにわたって行われてきた「祭儀や典礼活動」が、バチカン当局による15年間の厳しい検閲・審査をパスして、すべて教会によって合法かつ有益なものとして正式に承認され認可されたということは、どうして現代世界にとって決定的な意味を持つなどと大げさなことが言えるのでしょうか?

私はその問いに是非お答えしなければなりませんが、その考察をひとまず置いて、この日の教皇謁見の展開から見ることにしましょう。

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去る120日(金)、1万人を収容できるバチカンの大謁見場を埋め尽くした関係者を前に、教皇ベネディクト16世は現代の教会にとってのこの「大きな出来事」を、喜びのうちに共に祝われました。謁見は4つの部分で構成されました:

 

第一部:教皇庁立「信徒評議会」局長(Secretary ヨーゼフ・クレメンス司教による「新求道期間の道の祭儀の承認」発表

 

承認を発表するクレメンス大司教


教皇ヨハネパウロ2世は世界中の司教たちに「道」の受け入れを奨励し、晩年には創始者のキコ氏を励まして、「道」に教会法上の位置づけを与えるため、「道」の「規約」を作成し教会の承認を求めるように促し、当時教理省長官だったラッツィンガー枢機卿(現教皇)にその「規約」の審査を委ねました。2008年に現教皇はそれを正式に承認し、引き続き、「道」の歩みの膨大な量の「教理指導書」も昨年承認しました。最後まで残っていたのが、とかく批判や反対の多かった「道」の「典礼・儀式」関連のものでした。しかし、それも今回の承認をもって、ここに晴れて「道」はすべての観点にわたってカトリック教会から承認を得た名実ともに公的なカトリック教会のカリスマとして全世界の教会に推奨されるものとなったわけです。

 

クレメンス大司教から受け取った承認書をかざして喜ぶキコ


第二部:教皇による100組の宣教家族の派遣


〔右〕宣教家族を紹介するキコ 〔左〕紹介を受ける教皇 〔手前〕派遣される家族たち

 

最初の「道」の宣教家族の派遣を行ったのは教皇ヨハネパウロ2世でした。中世ヨーロッパの宣教の担い手は独身の僧侶や修道士でした。16世紀宗教改革後のプロテスタント教会が宣教の担い手を「既婚者」の牧師家族に委ねると、カトリックはその反動として、宣教を「独身」の司祭・修道者・シスターを中心としました。しかし第二バチカン公会議の改革後、教皇ヨハネパウロ2世は信徒の「家族」を宣教の第一線に送り出すようになったのです。子沢山の「道」の家族が何百組と教皇によって全世界に派遣されるドラマを私は何度も見てきました。日本でもすでに24組が全国で宣教に励んでいます。この日もまた、100組の宣教家族が、教皇自らの手で世界9か国15都市に派遣されました。特筆すべきは、彼らが3-5家族でチームを組み、一人の司祭と数名の独身男女を伴った3040人のユニットとして、最も世俗化が進み教会も無く信者も居ない地域の只中にパラシュートダウンして、直ちに教会を開き宣教を始めるという画期的な趣向です。しかも、彼らは教皇自らの手で直接派遣されるのです。


派遣先の9か国15都市 しかも、いずれもその都市の最貧困地域にパラシュートダウンする

 

第三部:「道」の創始者キコ氏の作曲によるシンフォニー「無垢なものたちの苦しみ」の演奏


演奏前に教皇に挨拶する若い指揮者とキコ

 

キコのシンフォニーについては別のブログでもう何度か書きました。今回も、音楽に造詣の深い教皇は称賛を惜しまず、あらためてバチカンで公式の演奏会を希望されました。イスラエルではユダヤ教の指導者たちを招いて演奏されました。キリストの受難とかマリアとか、正統なユダヤ教にとって非常にデリケートな要素を含むものであったにもかかわらず、旧約時代からエジプトのファラオの奴隷として苦しみ、バビロニアに捕囚となって苦しみ、記憶に新しいところではナチスによるホロコーストなど、民族の存亡にかかわる苦難を数多く経験したユダヤ人に、「無垢な者たちの苦しみ」という主題は理屈抜きで深い共感を呼ぶものがあり、涙を誘って大成功を収めました。今年の58日ニューヨークのカーネギーホールを皮切りに、ボストン、シカゴなど、有名な交響楽団の本拠地でも演奏会が予定されています。その成功如何では、東京大阪の他、シンフォニーのテーマ「無垢な人たちの苦しみ」と深く結びつく広島・長崎や、地震と津波の被災地などへの演奏旅行にキコは意欲を燃やしています。

宗教音楽と言えば、モーツアルトのレクイエムとか、バッハのマタイ受難曲など、クラシック音楽愛好家ならクリスチャンでなくても知らない人はいません。しかし、21世紀の激しく世俗化した社会に、真の宗教音楽と呼べるものがあるでしょうか。そもそも作曲家の魂を鼓吹するほどの生きた熱い信仰を現代社会は見出すことができたでしょうか。私はキコ氏のシンフォニーの中に現代を代表する古典として後代に残る新しい宗教音楽の可能性を見ています。

    

シンフォニー「無垢なものたちの苦しみ」の演奏風景 (昨年のデュッセルドルフでの画像) 冒頭のソロを自ら歌うキコ


第四部:教皇ベネディクト16世の挨拶と祝福

 

1万人の「道」のメンバーの前で、典礼の承認の挨拶をする教皇ベネディクト16世


教皇はその挨拶の中で、土曜日の夕方行われる小さなグループによる「道」のミサの有効性を認め、その他、「道」の「教理指導書」の中で各段階のために細かく定められた様々な「祭儀」をすべて承認されました。そして、それが「道」のグループが帰属する各地方教会に開かれ、それに一致するように勧められたのです。その詳細は挨拶の全文を最後に載せたので、それに譲ることにしましょう。

 

終わりに、このブログの読者の多くを占めるノンクリスチャンの方々に、簡単な解説を試みたいと思います

 

「新求道期間の道」は、一言で言えば、キリスト教信者の「再教育の道」です。初代教会(14世紀)にギリシャ・ローマの神々を拝んでいたローマ人がキリスト教に入信するときに歩んだ「道」を、現代の「求道者」のみならず「洗礼を受けたが教会から遠ざかっていた人」「習慣的に教会に来ているが十分な信仰教育を受けてこなかった人」にも歩ませようという試みです。それは固定した閉鎖的「会」とか「運動」ではなく、万人に開かれた、万人が通過するにふさわしい「実践的研修コース」のようなものです。

キリスト教会は16世紀に大宗教改革を経験し、その結果カトリックとプロテスタントに別れました。カトリック教会は20世紀半ば(19631965年)に、再びそれにも匹敵するほどの大宗教改革を断行しました。「第二バチカン公会議」と呼ばれるものがそれです。「道」はその公会議の改革から生まれた新しいカリスマの一つです。

プロテスタント改革は、意識の高い司祭たちのいわば下からの改革で、ローマの教会のトップは改革を認めない保守の側にとどまったため、改革者らは教会を割って飛び出し、その対立は市民を巻き込んで30年戦争や80年戦争など実際に血を流す一連の戦争にまで発展していきましたが、調べてみるとローマが宗教改革者たちを破門したというきつい表現は見出されません。それに対して、第二バチカン公会議という世紀の大宗教改革は、カトリック教会の底辺が挙げて外憂内患のない泰平の夢をむさぼっていた時に、ヨハネス23世という老教皇が就任早々唐突に発議した上からの改革でした。そして、その後の歴代の教皇は、パウロ6世、ヨハネパウロ2世、そして今のベネディクト16世に至るまで、一貫して公会議後の改革路線を堅持し、決して後戻りすることはありませんでした。当然のことながら、改革の実りとして花開いた「道」のような新しいカリスマは大切に保護され育てられることになったわけですが、他方では、改革の意義を十分に理解せず、公会議前のメンタリティーのままに残った中間的な教会の権威から新しいカリスマは敬遠され、中央のローマに忠実に従おうとすればローカルに弾圧される板挟みに苦しむことになりました。しかし、プロテスタント改革の時のような分裂も、戦争も流血も起きませんでした。唯一悲劇的だったのは、あくまでも公会議の改革を頑なに拒んだフランスのルフェーブル司教とその追随者たちを、教皇ヨハネパウロ2世がやむなく破門したという事実です。(現教皇はこの分裂を修復された。)

前世期フランスにアンリ・ドゥ・リュバックという著名なイエズス会士の神学者がいました。第二バチカン公会議で活躍し、教皇ヨハネパウロ2世によって枢機卿にも任命されました。彼は、公会議の果実として花開いたカリスマと、公会議の改革を受け入れない保守勢力との間の亀裂は、カトリックとプロテスタントの間の亀裂よりも深いものとなるだろうという意味のことを言ったという話を聞いたことがあります。まことに意味深長な預言的ことばだと思いました。

結論を急ぎましょう。いま問題にしているのは、ローマのバチカン当局による「道」の完全承認が、広い世界のノンクリスチャンの皆さんとどう関係してくるのか、という点でした。

私は最近のブログ、「自殺者統計」-なぜキリスト教の宣教は必要か-の中で、世界の「グローバリゼーション」と「世俗化」の問題を取り上げました。その中で日本の自殺者率をせめてドイツやアメリカ並みに半減させるためには、日本において最も顕著に表れた世俗化の波を押しとどめ、押し返し、死の誘惑に対する日本人の抵抗力を高め、生きることの意味と希望を取り戻させるために、「道」の自由な活動が絶対不可欠だと信じています。その意味で、これは日本の社会全体に関わる問題だと言えるのです。

 

  * * * *

 

では、このブログの最後に、去る120日教皇ベネディクト16世が「道」のメンバーに宛てた挨拶を載せます(カトリック教会内部の固有の表現が多く、読みづらいかもしれませんが、忍耐してください。

 

ZI12012006 - 20/01/2012

Permalink: http://www.zenit.org/article-29306?l=italian

 

「新求道期間の道」の信仰を生きる喜び

教皇様は運動の創始者とメンバーを謁見

 

今朝(2012120日)1130分パウロ6世謁見場で教皇ベネディクト16世は新求道期間の道(以下「道」とする)のメンバーを謁見し、以下のように話されました。

* * * * *

 

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

今年もまた、私は皆さんに会い、宣教の派遣の瞬間を共にすることができる喜びを持ちます。キコ・アルゲリオとカルメン・エルナンデスとマリオ・ペッツィ神父らに挨拶を送ります。そして、貴方たち皆、司祭たち、神学生たち、家族たち、養成者たちと新求道期間の道のメンバーたちに愛情のこもった挨拶を送ります。今日におけるあなた達の存在は、全教会とペトロの後継者との交わりの中で、信仰を生き、福音の勇気ある宣教者であることの喜びに満ちた熱意の目に見える証しであります。

わたしたちが聞いた聖マルコの一節の中で、使徒たちは「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ2819節)というイエスの貴重な命令を受けました。初めのうち彼らは疑いをもち、心の中で不確かさを抱き、復活の出来事を前にして茫然としました。福音史家が強調するように、彼らに近づき、自分の現存を感じさせ、キリストを伝える各人に共にいてくださるという確信を与え、彼らに伝えた全てのことを教えるようにと派遣したのは、復活したイエス自身です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ2820節)。それらの言葉はあなた方の心の中に強く響きます。あなた達は「主は蘇られた」という歌を歌いました。それは「生ける者」への信仰、愛の極限の行為のうちに罪と死に打ち勝ち、わたしたち人間に神の愛の熱と救われたものであることの希望と永遠の未来を与えてくださる方への信仰を表すものです。

過去数十年間の「道」の生活において、しばしば個人的な物質的な安定をなげうって、母国を捨てて、決して容易ならぬ新しい状況に立ち向かいながらあなたたちが熱心に取り組んできたのは、復活したキリストを告げ知らせること、キリストの言葉に寛大に応えることでした。キリストを人々のもとにもたらし、人々をキリストのもとに導くこと、これこそ福音を宣べ伝える個々の仕事に命を吹き込むものであります。あなた達は、すでに洗礼を受けている人々が信仰生活の素晴らしさと、キリスト者であることの喜びを再発見するのを助ける歩みを通して、それを実現しました。

「キリストに従うこと」は、彼を探し彼と共に行く個人的な冒険を必要としますが、それはまた常に、エゴイズムをイエスキリストにおける新しい人間共同体で置き換えるために、自我に閉じこもることから出て我々の時代の社会をしばしば特徴づける個人主義を打ち破ることを要求します。そして、このことは彼との深い個人的な関係と、彼の言葉に聞くこと、わたしたちに示された道を歩むことの中で起こるのですが、それはまた、彼の教会とキリストの花嫁の真の面影を常に新たに知らせてくれる聖人たちと共に信じることとも不可分であります。

それは-私たちの知る通り-決してたやすいことがらではありません。時にはあなた達は福音を初めて告げる必要のある場所、ミッシオ・アド・ジェンテス(missio ad gentes)に居合わせることもあるでしょう。しかしまた、かつてキリストを知ったことがあったが信仰に無関心になった場所、 世俗主義が神に関する感覚を弱くし、あるいはキリスト教的諸価値を暗くした場所にもしばしば出会います。ここでは、熟成の時間を重んじたあなた達の忍耐深い関与と証言が、教会の感性とともにパンの練り粉全体を膨らます酵母のような働きをします。

教会が「道」の規約と「信仰入門指導書」の承認したのは、聖霊が私たちの時代に与えてくださった特別な賜物をその中に認めたことの印であります。私はあなた達が福音のために独創的な貢献をすることを励まします。あなたがたの貴重な働きの中で、使徒座とあなた方が組み込まれている部分教会の牧者たちとの深い交わりを常に追求してください。教会の体の一致と調和は、我々が住んでいるこの世におけるキリストと彼の福音に対する重大な証しです。

親愛なる家族の皆さん、教会はあなた方に感謝します。教会は新しい福音宣教のためにあなた方を必要としています。教会共同体にとって、家庭は私たちがそこで人間的でキリスト教的な命に形成される重要な細胞であります。私は大いなる喜びをもってあなた方の子どもたちを見ます。親愛なる両親の皆さん、たくさんの幼子たちが貴方たちの模範を見つめています。100組の家族が12のミッシオ・アド・ジェンテスに旅立とうとしています。恐れを持たないようにとあなた方を招きます。福音をもたらす者は決して一人ではありませんから。愛情をこめて司祭たちと神学生たちに挨拶を送ります。キリストと教会を愛しなさい。彼に出会った喜びと彼にすべてを委ねた美しさを分かち合ってください。旅人達と責任者たちと「道」のすべての共同体にも挨拶を送ります。主に対して常に寛大であり続けてください。彼の慰めがあなたがたに不足するようなことは決してないでしょう!

今しがた、「新求道共同体の道の教理指導書」の中にある祭儀を承認した「教書」があなたたちに読み聞かされました。それは、厳密な意味では典礼的でないとはいえ、信仰における成長の道のりの一部をなすものです。これは教会があなたたちの豊かさを理解し、また教会の体全体との交わりと調和をも見ながら、忍耐深い識別のうちに注意深くあなたたちに寄り添うものであることを示すもう一つの要素であります。

この事実は、典礼の価値について短い省察をする機会をわたしに与えてくれました。第二バチカン公会議は典礼を司祭たるキリストとその体である教会の業であると定義しました(典礼憲章、7参照)。一見するとこのことは奇妙な印象を与えるかもしれない。なぜなら、キリストの業はイエスの歴史的な救いの行為である受難と死と復活に関係するものであるように思われるからです。では、どういう意味で典礼はキリストの業なのでしょうか。イエスの受難と死と復活は、単なる歴史的な出来事だけではありません。それは、歴史に入り歴史を貫きながら、しかもそれを超越し、キリストの心の中に常に現存するものなのです。

教会の典礼的行為の中には復活したキリストが存在し、私たちと私たちの救いのために今も同じ復活の秘儀が有効に現存しているのです。わたしたちをご自分の心の中に常にある「自分自身を与える行為」の中に私たちを引き寄せ、復活の秘儀の現存に参加させてくださいます。復活の秘儀に入る典礼の真の内容をなすこの主イエスの御業は、-アウグスチヌスがChristus totus caput et corpus(キリストは頭も体もすべてである)と言ったように-それはキリストの体であって彼と同じ一つの主体である教会の業でもあるのです。秘跡を執り行うことを通してキリストは私たちを死から命へ、罪からキリストにおける新しい存在へと過ぎ越させ、復活の秘儀の中に浸らせます。

このことは新求道共同体が目指すキリスト教的生活の頂点でありその再発見の核心である感謝の祭儀について、最も特別な意味で当てはまります。あなた達の規約にも書かれている通り、「感謝の祭儀は新求道期間にとって欠くことのできない最重要のものである。それは小さな共同体で体験される洗礼後の求道期間だからである」(13条1項)。教会から離れてしまった人々や、ふさわしい養成を受けてこなかった人が、秘跡的生活の豊かさに再び近づくのを助けるというまさにその目的ために、新求道期間の道を歩む者は、教区司教の指示のもとで感謝の祭儀を小さな共同体で日曜日の前晩の祈りの後に祝うことができます(13条2項参照)。

しかし、各感謝の祭儀は唯一のキリストがご自分の唯一の教会と共にする行為であるから、本質的に自分の教会に属するものたち全員に開かれています。聖なる感謝の祭儀のこの公的性格は、「聖なるミサ」の各祭儀が究極的には具体的な部分教会に対して責任のある司教団のメンバーとしての司教によって指導されるという事実によって説明されます(第二バチカン公会議、教会憲章、26参照)。典礼書の定めに忠実に従いながら、「道」の規約によって承認された個別性に沿って行われる小さな共同体による祭儀は、新求道期間の道のりを行く人々が、キリスト教的証しの徹底さの特徴も引き受けることを可能にするキリストの救済的秘儀に与る恵みを理解することを助ける使命を帯びています。

同時にまた、個人と小さな共同体の信仰における段階的な成熟の過程は、新求道共同体がその中にあってそのために存在する小教区の教会共同体の生活において、その典礼的祭儀の中に適切に組み入れられるべきものである(規約6条参照)。しかしまた、「道」の歩みの過程において、主が私たちの霊的成熟の様々な段階において私たちを包み、わたしたちをひとつの体にする唯一のパンにおいて一致させる感謝の祭儀を執り行う際にも、小教区共同体から分離しないことは重要であります(1コリント1016節以下参照)。

頑張りましょう!主は必ずあなた達とともにいてくださるし、わたしもまたあなたたちのために祈ることを約束します。貴方たちが私の側にいてくれることの多くのしるしに感謝します。あなた達も私のことをあなた達の祈りの中で思い出してください。聖なる処女マリアが彼女の母性的な眼差しであなたたちを助け、「道」のすべてのメンバーの上に及ぶ私の使徒的祝福があなたたちを勇気づけますように。

有り難う!

謁見場のマスコット(?)のスイス衛兵 ユニフォームはミケランジェロのデザインによる

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