《2013年 「ノーベル平和賞」 に想う》
は
8月18日にアップした以下のブログに一部加筆したものです。
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無垢な人々の苦しみ ②
=アウシュヴィッツ=
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アウシュヴィッツの強制収容所の壁のパネルには
「歴史の教訓を記憶にとどめないものは
同じ悲劇を再び体験することになる」
ジョージ・サンタヤーナ
と記されていました
だから この旗を掲げた人たちのように
今もユダヤ人のアウシュヴィッツ見学者の団体は 後を絶ちません
「ユダヤ人たちは完全に絶滅されるべき人種である」
ハンス・フランク
ポーランド占領ナチス総司令官の言葉 1944年
と言うことばが その背景にあります
そういう狂った信念のもとに駆り集められ
アウシュヴィッツに送られてきたユダヤ人の罪なき婦人と子供たちの姿
そして、裸にされ ガス室に向かって死の疾走を強いられる ユダヤ人の婦人たち
上はナチスSSの隠し撮りフイルムから
ガス室で殺され 焼却炉で焼かれた犠牲者たちの灰の一部を納めた 壺
犯罪の物質的証拠
犠牲者たちが身に着けていた義足や身体補助装具の山
犠牲者たちが履いていたおびただしい数の靴の山
生きてここを出られるという希望を託して名前を大書したカバンの山
その他 メガネの山 歯ブラシの山 櫛の山
ガス室に送られる前に丸坊主にされた女性たちの髪の毛の山 それで織られた純毛の布地
etc, etc, etc. 紹介しきれない数の写真が私のファイルにはある
ガス室のガスになったチクロンの空き缶の山
(ここからの黒字が、今日2013年10月13日に追加)
チクロン、サリンなどの毒ガス、化学兵器は 貧者の核兵器と呼ばれる
旧日本軍も、関東軍の731(しちさんいち)石井部隊のように細菌や毒ガスなどの
生物化学兵器を開発し、それを実験し、使用した
かつての日本や今のシリアなどのような資源の無い貧しい国々にとっては
コストパーフォーマンスのいい有望な兵器だ
「シリアの化学兵器攻撃は世紀の大ウソ」
と言うカトリックの修道女マザー・アグネスの報告書のような根強い反証もあるが
化学兵器禁止機関の 《ノーベル平和賞受賞》 で
この種の兵器は俄かに世界の注目を集めることになった
ブッシュがイラクに侵攻し サダム・フセインを追い詰め殺した
イラク戦争の口実になった大量破壊兵器の存在は大ウソだった
オバマがシリア空爆寸前までいったアサドの化学兵器使用が
マザー・アグネスの報告書の通り大ウソだったかどうかはなお検証を要するが
世界中に化学兵器が存在することは厳然たる事実だろう
(以下元のブログに戻る)
毒ガスで殺された遺体を昼夜休むことなく灰にした焼却釜の列
アウシュヴィッツはドイツ人が作った強制収容所、死の収容所、の最大のものだった
1940年から1945年の間にここに送られてきたのは、少なくとも:
ユダヤ人 1,100,000 人
ポーランド人 140,000-150,000 人
ジプシー 23,000 人
ソ連の戦時捕虜 15,000 人
その他の人種のもの 25,000 人
これらの人たちの内 1,100,000 人がアウシュヴィッツで死んだ
その約90%がユダヤ人だった その大部分をSSはガス室で殺戮した
他にも 多くの人たちがこの壁の前で銃殺された
止まれ!
と書かれていても 多くの人がその向こうの高圧電線に触れて命を絶った
3本の柱の上に渡された何の変哲もない一本レール
これが見せしめの大量絞首刑の装置として日々利用された
特別重要なな囚人の処刑に用いられた絞首刑台
ここで
戦後ポーランドの国家最高法廷で死刑の判決を受けた
アウシュヴィッツのSS最高司令官
ルドルフ・ヘス(Hoess) は
1947年4月16日に吊るされて死んだ
因果応報 とはこの事か?
私は何故 しつこくアウシュヴィッツを描写するのか?
それは
ここで無数の無垢な魂たちが意味もなく殺されたこと
そして この場所で最近キコの作曲したシンフォニー
「無垢な魂たちの苦しみ」
が多くのユダヤ人たちの前で演奏されたこと を記録にとどめたいからだ
キコは このシンフォニーを日本でも演奏したいと考えている
次回から そのシンフォニーの東欧ツアーに話題を移す
(つづく)
それは、私たちを存在界の呼び出し、私たちに生命を与えてくれた宇宙の創造的意志がそう望んでいるからではないでしょうか。それは、カトリック信者のように天地万物の創造主なる神を認める立場から言えば、神がその創造的愛によって無から存在界に呼び出して下さったことに対して「はい」と答えることです。130億年ほどの宇宙の進化を導いてこられた神は、その頂点に置かれた私たち一人一人の人間をこよなく愛してくださっています。
なぜ苦しまなければならないのでしょうか?
それは、死が私たちを取り囲んでいるからでしょう。命である神から切り離されているからだ、と言い換えてもいいかもしれません。お釈迦様も、生病老死、四苦八苦、人間の一生は全て苦しみに満ちている、「苦」そのものだと看破しました。命の源であり、生命の根源であり、愛である神と出会い一致するまで、苦しみは無くならない。神において憩うまで、私たちに安らぎは無いでしょう。
なぜ孤独になやまされるのでしょうか?
それは、自己愛、自分の幸せばかりを追い求めているからでしょう。それは自分を満たす愛、人から奪う愛です。神を愛し、人を愛し、自分の命を与えるほどまでに他者を愛することを学ぶまで、孤独から解放されることは有りません。
最近私が訳したスペイン人キコの処女作「ケリグマ」と言う本を読めば、もっとわかりやすく展開して答えてくれています。私のブログにどうすればその本を手に入れられるかが記されています。
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