:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

初めに読んでください(赤字の部分は今日加筆しました)

2008-01-16 07:06:42 | ★ 初めに読んでください

2008-01-16 07:06:42




「★初めに読んでください」、というカテゴリーを最初に設けておきながら、今まで何も書けず、ブランクのまま放置していました。しかし、ブログを始めて10ヶ月余り、最近ようやく何かを書こうという意欲と勇気が湧いてきました。よく練ったものではありませんから、今後も随時、加筆や更新を繰り返す必要が生じるだろうと思いつつも、とりあえず不完全なままリリーズしました。(下の赤字の部分は今日加筆しました)
 人類の歴史は、第三千年紀に突入しました。
 ユダヤ人待望のメシア、世の救い主、つまりキリストの降誕からの1000年(第一千年紀)は、キリスト教の担い手はローマ帝国の版図から中世ヨーロッパが中心でした。1001年から2000年までの第二千年紀は、それが発展し、次第に新大陸、植民地へと拡大していきしました。そして、前教皇ヨハネ・パウロ二世は、第三千年紀は「アジアの時代」になると預言しました。
 人口爆発を遂げつつある中国と、さらに、それをも追い越す勢いのインドを併せると、近い将来、アジアは地球人口の3分の1を越すかもしれません。そして、このアジアこそが、これからの世界のキリスト教の新しい担い手になるに違いないのです。
 他方、キリスト教的ヨーロッパは、このまま行けば凋落の一途を辿るかもしれません。現に、第一千年紀の後半、キリストの弟子たちの伝道で最初にキリスト教が花開いたパレスチナ、小アジア(トルコ)、北アフリカ地方では、今や教会はほとんど壊滅し、すっかり回教圏に飲み込まれています。
 同じことは、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパ各地で、今まさに起ころうとしています。
 南フランスの地中海沿岸をレンタカーで走って見れば明らかです。次々と絵のように美しい町や村を通過することになりますが、ゴシックの尖塔を目指して町の中心に近づくと、教会は廃墟の様相を呈し、日曜になってもそこには信者や司祭の姿はありません。そして、その隣には、真新しいモスクが建ち、神を礼拝する人々であふれています。地元の小学校の生徒の半数が回教徒と言うケースも、今日では決して稀ではありません。
 共産圏に浮かぶ小さな孤島だった西ベルリンは、西側に流出した若者たちの後を、多数のトルコ人労働者で補いましたが、今頃そのつけがまわってきました。ドイツの首都の伝統ある「ベルリン自由大学」の構内では、すっかりドイツに溶け込んだトルコ人の二世、三世が市民権を得て、圧倒的な存在感を誇っています。
 出生率の明らかな差を考えに入れると、ヨーロッパの回教圏化は、もう時間の問題かもしれません。
 一方、日本はと言えば、私の中学生の頃、社会科の教科書には日本の人口が8千500万と記されていました。しかし、現在の1億2千700万はすでに減少に転じ、50年後には9千万を割り込むという予測もあります。
 全部合わせてもやっと100万人ほどのキリスト教徒、その中で半分にも満たないカトリック信者の数は、このまま行けば、人口の減少率よりもはるかに早いペースで消滅へ向かって突進していく勢いです。
 その最大の要因は、日本の場合「回教化」ではなく、お金の神様の奴隷となる「世俗化」であることは、疑う余地もありません。
 アジアの千年紀にあたり、日本のキリスト教は、このまま世界史に何ら役割を担うことなく、少子化、高齢化の波に飲み込まれて、あえ無く消え去っていく運命にあるのでしょうか?
 私は、この一見して全く展望のないように見える状況にもかかわらず、日本の教会の輝かしい未来と、歴史に占めるであろう大きな役割を予見し、その実現を預言します。
 第一千年紀の中ごろ、キリスト教的地中海世界が東西に広がった時、ラテン語を話す西半分は西ローマ帝国と呼ばれ、その中心はローマでしたが、ギリシャ語を話す東ローマ帝国の中心はコンスタンチノープル(いまのトルコのイスタンブール)になりました。
 第三千年紀に入り、宇宙船地球号が、情報化においても経済活動においてもすっかりグローバル化した今日、キリスト教(私の場合、とりあえずカトリック)に関して、西半球の中心は引き続き永遠の都ローマに委ねるとして、地球の東半球に、新しいアジアの時代を飾るに相応しい強い求心力を持つもう一つの中心(コンスタンチノープルのような)を求めるとすれば、その場所としてもっとも相応しいのは、東の最果ての国、日本、その首都圏以外には無いのではないかと密かに思っています。
 私は、長い歴史を通して日本まで届き、そこで出会って融合した文明と文化の多様性、そこで更なる発展と深化を遂げたその成熟度から言っても、これ以上適した場所は、他に無いように思います。また、消去法で考えても、ボンベイでもカルカッタでもなく、北京や上海でもなく、マニラでもソウルでもなく・・・、やはり日本の首都圏を思うのは、単なるナショナルプライドの妄想以上の客観性があると信じます。

 私が問題にしているのは、1パーセントにも満たない日本のキリスト教人口が、今後半世紀の間に倍増する可能性があるかと言うような、単なる量的な発展のことではありません。むしろ、キリスト教諸派の一致運動、いわゆるエキュメニズムの場として、また、諸宗教間対話の土壌として、日本と言う国が特別な可能性を秘めた地位にあるという点に着目しています。

 いま、世俗主義に汚染され、神聖なもの、超越的なものを忘れ去り、お金の神様にすっかり魂を抜き取られて奴隷のようにあえいでいる日本の社会にあって、その中で宣教熱を失い、すっかり守りの姿勢に入り、息も絶え絶えの教会の現状を見るとき、そこには一見何の展望も無く、まさに冬の時代の到来を思わせるものがありますが、闇にさ迷う1億を越える民に、復活したキリストの良い知らせ、愛と、赦しと、和解と、平和と、永遠の命の希望が力強く宣べ伝えられるならば、必ず暖かい春が訪れると信じるものであります。夜の闇が深まれば深まるほど、明るい朝への期待は膨らみます。
 キリスト教の歴史の最初の3世紀間の間にローマで起こった迫害をも凌ぐ、二度に亘る激しいキリシタンの迫害と殉教者の血の犠牲は、この夢の確かな担保として十分なものがあると私は思います。
 すべては、巷の信徒の一人ひとりから始まって、修道者、司祭、そして司教たちにいたるまでが、信仰の原点に立ち返り、ラディカルな回心の実を結ぶことが急務であることは言うまでもありません。
 「神の国は近づいた!回心して福音を信じなさい」と言う言葉は、先ず真っ先にカトリック信者とその牧者たちに向けらられたものであると理解すべきではないでしょうか。 

     (このブログは、最初2008年1月13日に書かれたものに加筆したものです。)

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