:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「インカルチュレーション」(その-2)

2008-09-11 14:27:31 | ★ インカルチュレーション





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「インカルチュレーション」(その-2)

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私は前回のブログの最後に「こんなこと書いてしまって、いいのですか?と心配の向きもあろう。もちろん、そのまま言いっぱなしでいい訳はない。上の何倍もの言葉を費やして、私の愛する教会を弁護し、擁護しなければならない」と書いた。

確かにそうである。だから、まず前回書いた「こんなこと」の中身を要約することから始めよう。

西暦紀元ゼロ年前後のローマ帝国においては、帝国の底辺に喘ぐ貧しい人々、疎外された人々は、皇帝にとって、抑圧して搾取しようが、手篭めにしようが、弄んだ末に命を奪おうが、何をしてもいい「下女」か「女奴隷」のようなものだった。
ところが、その「女」、つまり、帝国の底辺に喘ぐ貧しく虐げられていた人々が、ユダヤ人の間から彗星のように現れ十字架の上で惨たらしい死を遂げたナザレのイエスに出会うと、その福音を信じ、回心し、洗礼を受け、教会を構成して、「キリストの花嫁」となった。
皇帝にしてみれば、キリストと言う強烈なライバル、「色男」に、自分の「女」を寝取られて、いたくプライドを傷つけられた気がしたにちがいない。実利的にも数々の不都合が生じる恐れがあった。自分をもはや神として認めない。自分が拝む偶像を一緒に拝もうとしない。兵隊を向けて脅し、迫害しても、自分に従わない、殉教を恐れない。そのまま放っておけば帝国の秩序が崩壊する危険さえあった。
そこで考えたのが、弾圧しても駄目なら、取り込んで篭絡してしまえ、だ。
それまでの皇帝の「そば女」たち、つまり、ギリシャ・ローマの神々を全部廃止して、キリスト教を自分の宗教、自分の唯一の「愛人」として迎え入れた。
神々の神殿を壊してその址に教会を建て、ローマの代表的建造物を大聖堂としてあてがい、キリスト教の祭司たちを宮殿に住まわせ、ローマの元老院の議員たちが着ていたようなきらびやかな礼服を祭服として纏わせ、異教の神々の神官の地位「ポンティフェックス」をこれに与えた。ローマ教皇が今日「ポンティフェックス・マクシムス」(最高神祇官)の称号を受け継いでいるのはその由縁である。
ガリレアの無学な漁師たちの後継者だった神父や司教たちは、急に偉くなって決して悪い気はしなかったに違いない。彼らも人間だもの。
キリストが十字架上の苦しみに満ちた死を通して自分の血でもって贖った女、「教会」は、キリストを裏切って、奴隷女であったときの元のご主人様、「ローマ皇帝」とよりを戻して、皇帝の「正室」の座に着いた。これが「コンスタンチン体制」の本質だ。
キリスト教会が「聖なる罪の女」(サンタ・ペッカトリーチェ)と呼ばれるのは、「聖なるキリストの浄配」つまり「神の花嫁」でありながら、この世俗の覇者、「皇帝」に手篭めにされ、身を任せた「自堕落な女」に成り下がったからに他ならない。
ヨーロッパ中世を通じてつい近い過去まで、皇帝と教会は最強のコンビだった。世俗の覇者「皇帝」に「教会」は神のご加護を約束し、「教会」はその見返りに「皇帝」の手厚い保護を手に入れた。
キリストが「神のものは神に、セザル(皇帝)のものはセザルに」と、互いに相容れない対立概念として厳しく分けたものを、キリストの遺言に背いて「神聖なキリスト教帝国」の概念のもとに地上における不可分の一体として結婚させたのである。
この「蜜月」関係は、西暦313年のミラノ勅令の頃から、ヨーロッパ中世からルネッサンス、大航海時代とプリテスタンとによる宗教改革、産業革命、第二次世界大戦を経て、大体1964年の東京オリンピックの頃まで綿々と続いたのである。

ただそれだけのことか?

上の粗いスキームは、「コンスタンチン体制とはキリスト教がローマ帝国にインカルチュレートしたものである」などと言う、誤った粗雑な俗説に水を差すことに成功しさえすれば、取り敢えずはそれで十分だと言った。確かにそれで当面の目的は達せられた。
しかし、本当の問題はそこから先にある。
コンスタンチン体制下では、目に見える地上の教団、生身の人間が寄り集まって構成する宗教団体としてのキリスト教は、ナザレのイエスを裏切り、皇帝とよりを戻した不貞の女に成り下がってしまったのは紛れも無い歴史的事実であった。
では、キリストの死は無駄に終わったのだろうか?
決してそうではない。
人間が神を裏切る事はあっても、神は常に自分の約束に忠実である。キリストの浄配、つまり、イエスを頭とし、目に見えない神秘的なキリストの身体を構成するものとしての教会は、コンスタンチン体制下にあっても、まるで砂漠の伏流のように脈々と生き延びていたのである。
それを可能にしたものは何か?それは、伝統的教会用語で言えば、「聖書」と「聖伝」と、そして、それらに命を与える神の霊、「聖霊」であり、また、それを命がけで生きた有名・無名の聖人たちの群れである。そして、新しい酒であるキリストがユダヤ教の古い皮袋から拒まれ、十字架の上で非業の死を遂げたように、それら聖人たちの多くも、キリストに倣って迫害され苦しみを背負ってその多くは殉教の死を遂げていった。(このあたりのことは、カトリックでない読者のために、またあらためてゆっくり説明しなければならない。)
コンスタンチン体制以前の教会においては、迫害者はキリストを拒んだユダヤ教指導者であり、それと気脈を通じたローマ帝国の異教徒であったが、コンスタンチン体制下になると、その役割を担うのは地上の権力となった教会当局それ自体であることが多かった。
教会社会の中で、教会の権威によって迫害され、疎外され、しばしば異端として断罪され、魔女として焼かれてきた人々の中に、キリストの花嫁、神の浄配としての純潔を生きた人たちが多かったに違いない。彼らこそ、復活の日に殉教者、証聖者として、人々と天使たちの前で勝利の栄冠に輝くに違いないのである。
この点については、多くを語ることが出来るし、語られねばならないが、それはいずれの機会に譲ることとする。

そのコンスタンチン体制が、東京オリンピックの頃に終焉を迎えた

この点に入ると、またまた長い話になる。だから、今日はここで一区切りつけるのがよかろう。



高松の神学校のスロープに育つ「地中海松」の若木。
神学校の建設に先立ってローマを訪れ、教皇ヨハネ・パウロ二世に謁見し、ローマの神学校を見学したとき、地元三本松の大手企業社長(当時)が、その神学校の庭の松の実を持ち帰り、屋敷の庭師に育てさせた苗が生長したもの。

その神学校は日本を追われ、今ローマでの亡命生活を強いられている。この神学校の運命やいかに?

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1 コメント

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ギリシャ正教会 (xxxDANIAxxx)
2011-01-28 22:46:27
ギリシャ正教会についてはどうお考えですか?
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