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「哲学者」
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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帽子のホイヴェルス師
「哲学者」
「哲学者の住んでいたのは都会のはずれだったね」
「彼を驚かせちゃおうか」
「びくりさせようよ。驚異というものは哲学の出発点だからな」
「またその終点でもある」
「街はずれに哲学者の住んでいる都会は幸福です。なぜなら、哲学者は精神を弁明し、自然を守るからです。都会というものは精神の発達ですし、いなかは自然を守るものでしょう!」
などと語り合いながら、私たちは武蔵野から都会の方へ、ぶらぶら歩いてゆきました。十一人の学生と二人の学者、合わせて十三人。
私たちは垣根のある小径に入って、ようやく竹屋の店についたので、哲学者が住んでいるのはこの辺りにちがいないとわかりました。
「竹は武士ばかりでなく、また哲学者とも関係があるものです。哲学者もまっすぐ成長せねばなりません。中正をはずれた思想はゆるせないのです」
といっているうちに哲学者の家に着きました。その家は周囲の家と同じようなものでしたが、突然若い人たちの間に大笑いが起こりました。入り口のところに『防犯当番』と太字で書いてあったのです。
「なるほど、これも哲学者の分野だね、彼は秩序と法律に基礎を与えるものだよ」
「哲学者は精神の番兵です。悪意の人たちが形而上学の聖堂の中に押入ったときに、警報を発して泥棒を追い出すのは哲学者にほかなりません」
私たちはベルを押しました。哲学者の若い妹さんは、出て来て驚きながら、私たちの用向きをたずねました。
「哲学者にお目にかかりたいのですが」
「残念ですけれど、兄は外出いたしましたが」と妹さんは言いました。
(兄という言葉は哲学者にとって何と人間らしい懐かしい言葉でしょう)
私たちは彼に会いたかったのでどこへいらっしゃったのですかと聞きました。
「遠くではありません。お友だちの所に参りました。お望みでしたら、呼びに行って参りましょう」という妹さんの言葉に、私たちはそう願えましたらと望んだので、彼女は呼びに行き、私たちは家にはいりました。
哲学者の書斎にはいって、私たちはまず驚異せねばなりませんでした。私たちは一つの精神的な砦の中にはいってしまったのです。書物は、普通の学者のように書架の中でなく、山のように部屋の中に積み上げられているのでした。床の間には特に大切にしている書物がおいてありましたが、これらの書物の表紙は詩人の書物のようにきれいではなく、鉱山で働く人の服のようでした。この哲学者も知識の深い堅坑から人類のために宝を運び上げたのであります。
哲学者は右側の壁に向かって自分の一番堅固な堡塁を築いていました。さながらトーチカで、書物を砂嚢のように正面と左右に高く積み重ね、真中には自分の机と座蒲団という具合ですから、立ち上らなくても必要な書物を便利にとれるのでした。机の上には厚い本が開いたままおそらく中世哲学書の一つでしょう。少し書きかけの原稿もおいてありました。
「哲学者はこの机でむずかしい哲学の仕事をするんだね」
「もしかしたら人類の運命が決定されるのかも知れない」
「そこには見えない一つの織機があるのです。地球の方々から糸がこっちに流れて来て、また四方へ糸が走っていく、ほんとにヨーロッパまでも棹が、カタンコトンといったりかえったりするのですよ」
このトーチカの右手に一つの西洋風の脚高の机と椅子がありました。そのデスクの上の書物だけはきれいな表紙でした。
「その机では哲学者がやはり詩人の著作を読んだり疲れた心を回復させるのでしょう。実際彼は詩人たちを大切にしますが、しかし詩人の仕事は自分の弟さんにまかせておきました。彼の思うのには、人類の最も高い所でも、仕事のきちんとした分業ということは必要なのです」
北側の壁には若くしてなくなった夫人の写真が額ぶちの中から同情深い顔をしてこの書物の塁の上を見おろしています。その写真の下にはあるドイツ人の友の慰めの手紙とおもわれる次のような言葉が読まれました。
「『哲学者によりて選ばれしものは』早くも影と象徴なるこの世を去り、ダンテのベアトリーチェの如く『天国へのぼり』かしこにて至福直観に達したり。されど哲学者はなおしばしこの堅坑の中にありて勤めざるべからず。この仕事の間、彼女は保護者たり慰め主たらんことを」
誠にこれは真の哲学者にふさわしいことです。人間の心のあらゆるところを知り、頭も心も同様に存在の深いところを測り知らねばなりません。
私たちは部屋の中のものを充分に眺めてから畳に坐り、しばらく黙って待っていました。まもなく入口の戸がガラガラあくと驚異の大きな声が響きました。哲学者です。その顔にはほんとに晴れやかな驚きが輝いていました。と、いつのまにやらトーチカ内の哲学者の玉座に納って、書物を背に、われわれの方に面と向かって坐りました。そしてすぐに、主人として茶菓を妹にいいつけました。私たち十三人は大勢すぎますからと断りましたが、しかし哲学者は妹に家中にあるだけのコップや茶わんを集めて出すように言いつけてしまいました。
「本当によくいらっしゃいました」
哲学者は快活に言いました。
「皆さんがごらんになったら恐らくお笑いになるでしょうが、ちょうど今朝ほど私の批評を発表した雑誌が郵送できました、それはリルケの詩的物語りの訳文に因んでの批評の文章です。その本は表題の訳からしてもう問題なのです。Geschichten vom leben Gott と言う題を『神の話』と訳したのですが、全くものたりないのですね。本当の意味は、なつかしい神についての話と言ったらいいか、もちろんルッテルはドイツ語のリーベという小さな語を、外国語にもその音の響きを伝えたり心の深い所にまでしみ込ませたりするほど訳することはできない、といっていますが、しかしまあ、それはどうでもいいとして、最も大切なことは、神についてただ二人の人――司祭と詩人とだけが語るべきものなのです。司祭は神の神秘の管理者であり、その神秘を人びとに配るのです。司祭は人類のために糧を割って配る。これに対して詩人というものは神の鶯です。神のものについて歌って上機嫌になってしまう。しかしもし凡俗の人たちが神の言葉を無理に扱えば傷ましく損われます。神について語る資格のない人びとが神をかろんじようとするときに、こういう人びとに向かって、古い Procul este profani!(さがれ、汚れたる者どもよ!)の語が発せられねばなりません。つまり彼らは神の聖堂から追い出されるべき者なのです。まあ、こういうことが私の批評の打ち出しなのです」
「ところで哲学者はどうなのですか」と私たちは言いました。
「ああ哲学者」と彼は言いました。「僕らはドン・キホーテのような悲劇的な恰好をした騎士ですよ。一体私たちは神について何を知っているのでしょう。また私たちの知識は、懐しい親しい神、あるいは怒りの神についてでないならば、価値のないものです。少なくとも私たちが神について論ずることは不敬です。ですから哲学において神に触れることはいつもはばかっています。どうも避けることはできないのですが、残念ながら、私たち哲学者は Vom lieben Gott(なつかしい神についての)話をする権利を有していない。あるいは私たちはすべての哲学を忘れ――(と書物の山のトーチカの潰滅させるような大きな大きな身ぶり手つきをして)――あらゆる哲学を忘れて子供のようにならなくては駄目です。詩人なら神について語ってさしつかえないのですが、しかし何人も自ら詩人たる性質を附与することはできないのです」
「でも哲学者というものの存在理由は一体どういうところにあるのですか」と私たちは彼にたずねました。そのとき哲学者の眼は憧憬に満ちて美しく輝き、この部屋の四隅の壁に遮られずに、無限の空間の彼方を見廻しました。
「ああそうですね、哲学――存在の根拠を探求し予感し、驚くこと、――そうです。驚くこと、ギリシャ語で言う thaumazein――感嘆し怖れ驚くこと、――どうもラテン語の admi-rari では力が足りませんね。そればかりか各々の人だって事物の存在について驚嘆するでしょう、少なくとも子供のときには。しかしそれだけではまだ哲学者とはいえない。哲学者は厳格でなくてはならない。精神に憧れつつ精神を発見し、そして精神を透明に照破しようと熱望するのが哲学者です。哲学者はつまり精神を守る者なのです。哲学する精神力とてもまた、天禀の問題です。あたかも詩人のと同じく。私はもちろん、小さな哲学者ですけれど――(私たちは皆笑いました)――アリストテレスによればまだ哲学者としての話をする権利がないのですが、まだ四十にはなりませんから。でも哲学的精神を少しばかり感じたと思うのです。この精神のためにもうじっとしていることができないのです。
私の確信するところでは、いわゆる哲学者という者は詩人にまさるものです。人間においてロゴスの最も発達したものは哲学者なのです。でもご安心なさい、これは決して傲慢ではありません。
私たちは哲学者として神に恵まれたことを感じています。私たちの授爵について聖ヨハネ福音書の一章一節に書いてあるとおりです。『元始(はじめ)に御言(みことば)(ロゴス)あり』……そして三節に『万物之に由りて成れり』と。私たちはこの言葉の重さを毎日毎日感じる。この言葉ゆえに私たちは絶対的な地位におかれるのです。私たちは不真面目な思想の研究に対しては慈悲を知らぬものの如くなるのです。私たちはロゴスに最も近い親戚だと思うのです。ロゴスを発見し、ロゴスを弁明することは私たちの最上の幸福です。すべての思想を軽卒にとりあつかう人びとをロゴスがその口の息で倒し消し去ってしまうでしょう。神のロゴス、永遠の神、世界宇宙はロゴスによって造られたものです。それがために私たち哲学者は、ロゴスに溺れている。私たちは事物を把握したい、物に名をつけたい、秩序を与えて整理したい。そしてもしできることでしたら物を新しく創造したい。しかしそれはできませんから、そこが哲学者の最も深い苦しみの存するところです。物を造る代りにシステムを造らねばならない。私はまだ体系を造っていません。まだ四十にはなりませんからね。まだ鷲のように自由です。しかし年とともに鷲もその巣を造らなくてはならない。この巣が、自分の死んだ後で毀されることはわかっています。にもかかわらず巣を造らねばならない。それはわれわれの悲劇です」
「この問題には信仰が先生の役に立つのではありませんか」とだれかが聞きました。
「人間性そのものを救い出すには救い出すのですけれども、哲学者はすべてのこの世のものと同様に、自分自身救われねばならないものです。おそらくは詩人は別として、詩人は作り出した作品のうちに何らか完全性を感じています。世の人びとは皆この世の形象と影 Bilder und Schatten を超越して、その彼方に生の希望を求めて行かねばならない。詩人だけはこの形象の存在を同じく神のものとして感じ、この形と影を用いて自ら作り上げるのです。ですから詩人はなつかしい神 Vom lieben Gott について物語るのです」
妹さんはいろんな種類の茶碗とコップを集めて、私たちの前に茶菓を供しました。彼女が哲学者の耳に一言ささやいたので、鷲は高い蒼空からこの私たちの世の中におりて来て私たちをもてなしました。私たちは天使が焰の剣をもって精神の聖堂を守り、そしていささかの冒瀆をもゆるさないのを感じました。それもまたこの都会のはずれに――
ここで言われる哲学者は、哲学者吉満義彦先生のことだ。
吉満 義彦(よしみつ よしひこ 1904 - 1945) は、日本における最初のキリスト教哲学者。鹿児島県徳之島出身。一高文科丙類(仏語)を経て、1928年東京帝国大学倫理学科卒。在学中、岩下壮一に出会いプロテスタントからカトリックに改宗。フランスでジャック・マリタンに師事。1931年上智大学講師、東カトリック教神学校講師。雑誌『創造』、『カトリック研究』などに寄稿。また、戦時中の「近代の超克」企画に参画した。
この一文のト書き(脚本で人物の動作や動きなどを指定する「ト言って泣く」など)と台詞(せりふ)を織り交ぜたテンポの速い対話の流れは、劇作家ヘルマンホイヴェルスの面目躍如たるものが感じられる。師は幾つもの戯曲を書き、上智大学の学生たちに演じさせ、自ら舞台監督をつとめた。オペラ細川「ガラシャ夫人」を原作演出し、歌舞伎座では、当時の名女形歌右衛門の主演で同じ「ガラシャ夫人」を一か月通しで上演した。私は歌舞伎座の初演日、中の日、落の日にホイヴェルス師の右隣りに坐って歌右衛門の演技を見守り、師に言われてカトリック新聞に劇評を書いた。また、ホイヴェルス師原作の新作能「復活のキリスト」は宝生流の能舞台では春、師の没後もしばらくの間、春の復活祭のころに毎年演じられていた。それが今年6月に日本バチカン修好75周年記念公演として、バチカン市国において演じられ、宝生和英宗家のシテによって正に「復活」した。
それにしても、この短編の全体に漂う格調と洗練された日本語の味わいの深さに皆さんは舌を巻かれないだろうか。日本への宣教を志した時、渡航前に万葉集を勉強したという逸話を聞いたが、この日本語の造詣の深さは、日本人も脱帽するほどで、外国人宣教師の中では秀逸だと思う。
また、吉満義彦教授は、若干41歳の若さで世を去ったが、日本における最初のキリスト教哲学者として、惜しまれる一生だった。ホイヴェルス師との親交の深さはこの一文ににじみ出ている。先生が亡くなられた時まだ6歳だった私は、先生のことは著書でしか知らない。まだ吉満先生を越えるカトリック哲学者は出ていない。」