カナコロ
やまゆり園 事件考
「最終経歴『死刑囚』、やばい」 死刑判決後の被告と接見
> 何が言いたかったのかと尋ねると、被告は「世界平和に一歩近づくにはマリフアナが必要、と伝えたかった」と説明。
>その意図については「意思疎通できなくなったら死ぬしかないと気付けるようになる」と答えた。
意思疎通が出来ない=死ではないとまで言い切れませんが、
脳死でもない限り死とは認められません。
社会的な死亡フラグと言うような概念を持ち出す人はその人の
価値を見出せない
社会を真に考えていないのでしょう。
宗教観などで言えば、救済してこそ信徒なのでしょうから。
私の人生経験は浅はかでしょうが、それでもこの世の中の明るさの一端が福祉にあると信じています。
会社、企業の合理化や儲け主義はその存在で仕方ない面もあります。
しかし、コンプライアンスや納税、社会奉仕、文化活動などで社会貢献するものでした。
過去形になっているのは1995年くらいから日本を問わず世界的に不満が多くなってきたのでしょう。
その背景には中国の台頭で自己中心的な存在が大手を振ってまかり通る世界経済の課題が有るのかと考えました。
生まれた時に既にかなりの部分が決められている物心つく頃に気づき、反抗期と共に育つのかと。
ただ、一般的には社会で生きていかないといけませんからほとんどの人は妥協します。
しかし、大事件を起こすような犯罪者は社会に出てからも尾を引いて
社会への不満を爆発させる形で事件を起こすのかと思えてきます。
そんなに単純ではないとは思っていますが、社会への不満が解消できずに自己主張を押し通して
事件になるとすれば
何処かで引き留める存在が必要だったのでしょう。
意外に世の中なんて下らない物に捌け口があってそれでも満足すれば明日が来ます。
捌け口を間違うとやれイジメだ、〇〇ハラだとなってしまいます。
>不幸に慣れている
人はたいていそんな存在です。
祖父母やペットの死とか不幸を体験して痛みを知り、優しくなろうとするのです。
一生懸命に努力しても埋められないような状況の人に何故反旗を翻すような
行為の犠牲を求めたのかなんとも情けないです。
一番救われないのは最期までまともに戻れない歪み切った思考回路です。