「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

「生かす愛」の疑問点

2013-01-02 | 感想 2

「生かす愛」の疑問点について、数年前に書いた文章を見つけましたので、貼っておきます。本文はいじってませんが、タイトルの一部……「ちょっと軽口まじりの批評篇」を「軟派篇」と変更……だけは直しています。(「○○篇」というのは内容のことではなくて、文章の雰囲気のことです。)

 

「生かす愛」の疑問点(一) 軟派篇

軽口まじりというのに、前節では、少々、生真面目すぎたかもしれませんね。これからは真面目すぎたことを反省して、不真面目になろうと思います。(笑)

なーんていうのは、おかしな話ですが、「軽口まじりとあるのに、堅物じゃないか、看板に偽りありだ」とクレームをつけられる前に、態度を改めたいと思います。あははは。

でもね、軽口まじりとはあっても、ぺっらぺらの中身のない篇という意味でつけたタイトルではないんですよね。ぱっと見た目は、軽口や、くだらない冗談が多く、一見、軽薄なようだけれども、よく読んでみると、中身はきちんと詰まっているというものを念頭においてつけたタイトルなんです、自分としては、ね。文体は軽薄だけども、それなりにいいこといってるじゃないかというものを目指しているのです。

もっとも、それを達成できる能力が、自分にあるのかどうかは、まだわかりません。わたしは根が真面目だから、お気楽な軽口はとても難しいんですよね。(笑) 

でも、まあ、それでも、自分なりに精一杯、その方向で行きたいと考えています。それが成功しているかどうかは、読み手の判断にゆだます。男らしく、いさぎよく、ね。

さて、それでは、そろそろ、本題に入りましょうか。前節では、与える愛と奪う愛について、いろいろ書いて見ました。ここでは、同じく某団体が説いている「生かす愛」について、思うところをつづってみたいと思います。

 

「生かす愛」の疑問点(二) 軟派篇

「生かす愛」とは、某団体によれば、人を善導する愛なのだそうです。真に人を導き、真に人を生かすのが「生かす愛」なのだと説いています。

すばらしいですね。とても、勇気付けられるお話です。こんなお話を聞くと、さわやかな、心が洗われたような気分になります。感動して、涙ができちゃうかもしれませんね。

もしかしたら、涙を流すだけじゃなくって、鼻水まで垂らして、「真理だーっ、これこそ、まさしく、真理だーっ、ぼくはこの真理と出会うために生まれてきたんだ。幾転生もしてきたんだ。ようやっと、真理と出会えたんだ。最高の幸せだ。欣喜雀躍とはこのことだーっ!」なーんて、大いに感動してしまうこともあるかもわかりません。そういう人もいるかもしれません。

でも、それは、多くの場合は、最初のうちだけではないでしょうか。さほど、ものを考えることなしに、お話を聞いている間だけのことではないでしょうか。

一時の感動から脱し、頭を冷やし、冷静になって、このお話の内容を、よくよく吟味してみると、「?」だらけになってしまうものじゃないでしょうか。ある程度の思考力のある人ならば、いろいろな疑問が、次から次へと、浮かんでくるのではないでしょうか。

新しい思想と出合ったときの感動……いいかえれば宗教的な感動といってもいいでしょうか、その手の感動は、多くの場合、一過性のものであって、長続きするものではないのかもしれませんね。

 

「生かす愛」の疑問点(三) 軟派篇

では、いよいよ、本題に入って、いくつかの疑問点を提示してみましょうか。まず一つ目は……ええっと……「生かす愛」には、傲慢さが潜んではいませんかということです。

人が人を導くなんてことができるもんなんでしょうかね。それはなかなかの難事業でしょう。それこそ、象が針の穴を通ることよりも、ずっと難しいんじゃないかな。それを、できるかのようにいうのは傲慢ですよね。

技術的なことならば、他人に伝授するということはあるでしょう。「鉛筆はこんな風に使うんですよ」「作文はこうやって書くんですよ」などと教えることはできなくもないでしょうね。

それから、「子どもはこんな風につくるんですよー」なーんていうのも、教えてあげることはできますね。口だけじゃなく、実践的に、手取り足取り、教えてあげることはできます。これだったら、ぜひ教えてあげたいという人は、いっぱい、いっぱい、いると思います。(笑) まあ、これは冗談ですけどね。

繰り返しになりますが、よーするに、人を導くというのは、並大抵のことじゃないということがいいたいわけです。それをできるとするのは、人としての則を踏み越えているのではないかといいたいのです。

こんなことを書くと、「生かす愛」を目指している人から、「あなた、ちょっと、大袈裟なこといってるわ。人を導こうとすることは、人としての則を越えているですって? ゴーマンですって? なに、おかしなこといってるのよ。これこそが愛じゃないのよ。あなた、ちっとも愛をわかってないのね、ほんとバカね、あなたは完全に、下根だわ」……などと怒られてしまいそうな気がしないでもないですが、ま、ちょっと想像してみてくださいな。次の二つの台詞をみて、どう思いますか。どちらが人として、まともでしょうか。

「わたしは、他者を正しく導き、生かすことを実践しています。自らの才能と努力によって、他者にはわからないものまでも知ることのできる、大きな認識力を獲得したからです。それによって、『生かす愛』を実践できる境地に達しました」

「わたしは平凡であり、特別に優れた人間ではありません。他者を正しく導くような能力は持っておりません。もし、こういうわたしが、他者を正しく導いたことがあったとすれば、それは神が、わたしをお使いになってくださったのでしょう。賛美すべきは、わたしではなく、神です」

このうち、どちらが、より美しく、誠実で、信仰のある人間であるかは、いちいち、書く必要はないですよね。みなさんは賢明な人ばかりでしょうから、それをいちいち説明したら、釈迦に説法みたいなことになってしまいますでしょう。

うーん。でも、もしかしたら、ごく一部には、「おい、おれはわからんぞ!」と、ご立腹なさる方も、あるかもわかりませんね。今、これを読んでいる「あなた」ではなく、別の人は分からなかったりするかもしれません。それでは、そういう人のために、少しだけ説明しておきましょうか。

えっとですね、あっさり答えをいえば、前者は途方もないほどに傲慢で、後者は謙虚なんです。では、なぜ、そうなったかというと、それは神に対する信仰の有無によってそうなったということです。

人は、神を信じれば、謙虚になるんです。信仰は、神の偉大さと己の小ささを痛感させるものです。信仰が深まるほどに、そうなります。「よいことは、みな神のおかげ、わるいことは、みな自分のいたらなさによる」というような謙虚な姿勢になってゆきます。

そして、このような心からは、「生かす愛」のように、自分が、真に人を導くという発想は出てこないもんなんです。

「生かす愛」には、傲慢が潜んでいるのではないかというのは、このあたりから出てくる疑問です。言い換えれば、「生かす愛」をうんぬんする人は、神を信じているのだろうかという疑問でもあるのかもしれません。これは言い難いことではありますが、あえて、はっきり言えば、まあ、そういう疑問ともいえます。

 

「生かす愛」の疑問点(四) 軟派篇

二つ目の疑問は……何だったっかな? そうそう、人は人を「真」に導き、「真」に生かすことはできるのかということです。何をもってして、「真」とするのか、これは難しい問題ですね。

人生の諸問題といえば……受験、就職、離職、恋愛、結婚、病気、死……いろいろありますが、これらの問題において、真なる選択というのは、あるんでしょうかね。

たとえば、結婚にしてみても、傍から見たら、こりゃだめだ、止めとけという相手と結婚し、その後、うまくいっている夫婦もあるでしょう。

誰もが良縁と思った結婚が、早々に破綻してしまうということもなきにしもあらずです。他人からは、これは不幸な結婚だなぁと見える状態でも、当事者は割合に幸福感を感じていたり……なーんてことも、ないこともない。ほんと、複雑なんですよね。

「南はどっちだ?」という問いにならば、磁石をつかって、「南はこっちだ」と答えることはできるでしょう。でも、人生の諸問題については、そんな便利な道具はないんですよね。先人たちの智慧は一つの指針にはなるでしょうが、それはあくまで参考程度のものであって、絶対的に確かなものだとまではいえないしね。

大雑把な言い方になってしまいますが、やっぱり、人生問題については、正解なんてないんです。結局ね、こういう場合の正しさというものは、人の良心の数だけあるのであって、普遍的にこれが正しい、これが真であるとはいえないんですよね。誰かにとっての真が、他の誰かには間違いであることは、別にめずらしいことじゃないんです。

こういうことを無視して、普遍的な真があるかのように、きばって、「人を真に導く」と言ってみたって、むなしいもんです。その内実は、自分の良心の納得できる生き方を他人におしつけていることになっちゃってるだけだったりするんですからね。もっと露骨に言えば、自分にとって正しいと思える方向に、人を誘導しようとしているだけになってるのがオチなんだよね。

「生かす愛」うんぬんという人は、そういうことに気づかずに、「やった、彼を真に導くことができた」「あれ、彼女は真から外れちゃった。『生かす愛』を失敗しちゃった」「おいおい、君、そっちに行っちゃだめだよ。こっちだよ、こっち!」なーんて、勝手にやってるだけなんですね。残念だけど、そういうことは少なくありません。

ああ、そうだ。「生かす愛」について、わかりやすい実例をいえば……スバリ、宗教勧誘がそれですね。宗教勧誘……ほんとに、これって、「生かす愛」にそっくりです。

「生かす愛」の実態は、宗教勧誘と同じような形になるもんです。どーしたって、そうなってしまう。これが「生かす愛」の宿命なのかもしれんですね。

「そんなことはないぞ!」という反論があるかもしれませんけどね、宗教勧誘の決め台詞って、大体が、こんなものでしょう。

「あなたの生き方は間違っています。そのままでは大変なことになってしまいます。真なる生き方を、この宗教が示しています」
「人生の真実、霊界の真実……真実を教えるのは、この宗教だけです」
「この経典には、究極の真理が説かれています。それはいままで明かされたことのない真実です」

自分の考える「真」に、他人をも巻き込もうとする思考回路という点では、宗教勧誘も、「生かす愛」も、どっちも同じ、そっくり、うりふたつの兄弟みたいなもんですね。これが「生かす愛」の陥りがちな陥穽であり、二つ目の問題点ということです。

 

「生かす愛」の疑問点(五) 軟派篇

もう一つの疑問は、「生かす愛」は、はたして、「愛」と呼べるのかということですかな……。

愛というものは、本来は、自他一体となるものだと思うんですよね。自他一体なんていうと、変な想像をして、「うん、うん、愛は一体になるものだ。自分は毎晩、嫁さんと愛し合ってるよ」という人があるかもしれません。(笑)

「愛は一体になるものなんだよ。だから、〇〇子さん。ぼくを愛しているなら一体になろうよ」なんていうようなことを、口説き文句にしてる人もいるかもしれません。(笑)

まあ、それらは全くの見当違いだとはいいません。わたしも、公の場所ではとてもじゃないが、口に出せないような、はずかしーい口説き文句のお世話になってきたのでね、あまり堅苦しいことはいえません。

でも、それらは、ここで、いおうとしている自他一体とは、ちょっと違います。いや、大いに違っているかもしれません。(笑) でもね、あまり目くじら立てても仕方ないんで、全くの見当違いだと、いちいち全否定はしませんよ。ただ、ちょっと違うということだけはいっておきます。

ここでいおうとしている自他一体とは、もうちょっと、高尚なものなんですね。愛とは、自他を隔てることなく、精神的に深く結びつき、共にあることではないかってことなんです。

たとえば話をしてみましょうか。……そうですね。三人の少年が並んで歩いているとき、そのうちの一人が、小石につまずいて転んだとします。その子が、「あ、いたい!」と小さな悲鳴をあげたとします。膝をすりむいたらしく、ふうふう息をかけたり、つばをつけたりしています。痛さをこらえているのか、目には涙をためています。

こんなときに、一緒にあるいていた二人の友達のうちの一人は、こんな風に声を掛けたとします。

「すごく痛そうだね。大丈夫? 歩ける?」

もう一方は、次のように、いったとします。

「不注意だから、小石につまづいたりするんだよ。これからは、もっと足下に注意して歩かなくてはいけないよ」

先に、ここでいう自他一体とは、もっと高尚な意味だと大見得を切ったわりには、あまりにも卑近なたとえになっちゃいましたけどね、まあ、それはそれとして、これは一読しただけで、どちらが愛であるかは、誰にだって判別可能ですよね。

そう、前者こそが、直球の愛です。愛とは、相手が幸福のときには共に喜び、相手が苦境にあるときには共に泣くというように、相手に寄り添い、一体になろうとするものだからです。

後者は何であるかというと、教育ですね。もちろん、愛は含まれています。ないこともありません。転んでしまった友達の痛さを思いやり、もう転ぶことがないようにしてあげたいという愛があります。

けれども、よくよく見れば、教える側と、教えられる側とが分離されている部分があることが分かるでしょう。さらに見れば、愛だけでなく、裁き、見下し……という要素が見え隠れしているのが分かるでしょう。

教育というものは、自他一体という愛と同形の側面もあるけれども、教育する側と教育される側を分かつ、愛とは別のものが混入している場合があるのですね。

たとえば、教育については、こういう感想がありますね。

「自分は、相手を教育していたつもりでしたが、実際には、相手から教育されていたことに気がつきました。教えているつもりが、逆に、教えられていたんですね」

恐らく、これは愛が多分に含まれた教育のかたちでしょう。

また正反対の教育もありますね。たとえば、とにかく自分の教えたとおりに行なわせないと気がすまない一方通行的な教育などですね。これは教育する側と、教育される側を明確に区分しようとする、自他一体の愛とは逆方向のものですね。

さて、あれこれと回り道になることを書いてきましたが、あまり長く書いても仕方がないので、そろそろ結論を書きましょうか。それは、「生かす愛」は、上の分類で行くと、自他を分かつ教育に相当するのではないかということです。

「生かす愛」は、先の者が、後の者を導くということですから、先と後に分かれています。また、「生かす愛」は、知っている者が、知らない者を導くともいえますね。これは上と下とに分かれています。これは一方通行的であり、真なる「愛」と呼べるものではないのでは? ということです。

「愛」とは、「する」のでもなく、「される」のでもなく、ただそこにあるものでしょう。また、一方通行的なものではなく、双方通行のようなものでしょう。一方が生かし、一方が生かされるものではなく、双方が生かし生かされるものでしょう。そうであれば、愛から生まれるのは、「生かす愛」ではなく、「生かし生かされる愛」なのではないでしょうか。

三つ目の疑問は、大体、このようなものです。

 

「生かす愛」の疑問点(六) 軟派篇

さて、これで、この項も最後となります。いろいろと書いてきましたが、どうも批判が多すぎたかもしれませんね。

このままだと、「なんだ、批判ばかりじゃないか、ケチつけるだけなら、誰でもできるぞ! もっと前向きなことはいえないのか!」なんていう、お叱りがあるかもしれませんね。

それでは、少しは建設的なことも書いておきましょう。

うーん。「生かす愛」について、よい面を探すとすると……これは、他者に向けてではなく、自分に向けるならば、よい結果を生み出せるかもしれませんね。

自分を生かすということが、「自分が、自分が」という自己顕示におちいってしまっては困りものですが、自分の持っている善きものを見出し、それを磨き、生かすことで、より多くの他者に奉仕し、幸福にしようという方向に行くなら、結構なことです。そういう気持ちを奮い立たせようというものなら、素晴らしい。

それから、もう一つ。教訓的なことも述べておきましょうか。こういうお説教のようなことは、苦手なんですけどね、あえて、それこそ、自分の気持を奮い立たせて、いいます。

ええっとね、それは、ものごとというのは、思想でも、行為でも、なんでも、一長一短があるということです。長所だけのもの、短所だけのものというのは、まず、ないといってもいい。

たとえば、ですね、醜男や、不美人であっても、すべてがダメということはなく、どこかにいいところがあるはずなんです。名探偵ホームズのように虫眼鏡をつかって、注意深く探せば、きっとそれがみつかるはずです。(笑) 目鼻口は不恰好で不美人だけれども、肌はきれいだとか、イケメンではないけれども、身体は丈夫だとかね。

また、どんなにイケメンでも、どんなに美人でも、いまいちのところはあるもんです。イケメンをよくよく見れば、耳たぶの形が不恰好だったり、頭に十円ハゲが隠れていたりするもんなんです。美人をよーく見れば、すでに、うなじにキスマークがついてたりするもんです。おしりにオデキを発見するかもしれません。まあ、そーいうもんです。(笑)

「生かす愛」についても、これは同じです。一部の人にとっては、非常に、思想的魅力があるように感じられるかもしれません。立派な真理に見えるかもしれません。でも、それであっても、完璧ということはなく、欠点もあるもんなんですね。

実は、こういうことを示すために、たくさんの批判をしてみたという面もあります。ここのところ、よーく、ご理解を願いたいと思います。一つの思想を絶対視することで、視野狭窄に陥るようなことにならないように注意してみてください。では、また。



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