「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

与える愛と奪う愛

2013-01-02 | 感想 2

「与える愛と奪う愛」について、数年前に書いた文章を見つけました。読み返してみると、手直ししたいところもありますが、とりあえずそのまま貼っておくことにします。(表題の「○○篇」というのは内容のことではなくて、文章の雰囲気のことです。)

 

与える愛と奪う愛 (一) 軟派篇

それにしても、世の中には、本当に、いろいろな考え方があるものです。考え方が分かれるもののうちで、最たるものといえば、「愛」が挙げられるでしょうかね。

「愛とは何か?」

これは、本当に、人によって、考え方が違ってきます。

不倫しながら、「これこそが真の愛だ!」と感動する人がいる一方で、ただ一人の相手に貞節であることこそが愛だと考える人もいるわけでしょう。

「恋と愛は違う。恋はすき、きらいであり、個人的な好悪から離れることはできないが、愛はもっと大きなものだ」という人もいれば、「恋と愛は連続しているものであり、両者を明確に分かつ事は出来ない」という人もいるのでしょう。

もしかしたら、愛の定義なるものは、人の数だけあるのかもしれません。

 

与える愛と奪う愛 (二) 軟派篇

そういえば、ある宗教では、愛を、「与える愛」と「奪う愛」に区分して、前者を善しとし、後者を悪とする意見があるようです。

「奪う愛」とは、何やら仰々しい呼び方でありますが、これはつまり、どうということもない、愛を求めることを、さも愛を強奪か何かするかのように「奪う愛」と大袈裟に呼び、罪悪視しているだけのことらしいですね。

しかし、それにしても、愛を求めることは、そんなにいけないことなんでしょうかね。「奪う」と泥棒扱いされなくちゃならんほどに悪いことなんでしょうか。わたしにとっては、それは何だか極論すぎて、おかしいような気がします。どことなく違和感があります。

「そんな風に感じるあなたの方がおかしいんだ」という声が聞こえてきそうですが、そんなことをいわれたって、おかしいと感じていることには違いありませんから、それを無視したり、抑圧することはできませんし、そんなことまでして自分に嘘をついたって仕方がないことです。

あれあれ、ちょっと話が逸れちゃいましたので、戻しますね。

どこがおかしいと感じているかというと、もしも、仮に、愛を求めることがいけないことだとしたら、人間を否定する事になりはしないかということです。また、努力・進歩を止めることになりはしないかということです。

人間は誰だって、生まれてから死ぬまで、絶え間なく、常に、そして切実に、愛を求めて止まない存在です。愛なしには生きられない存在です。

赤ん坊は、母の愛を求めて泣くものだし、若者は一日の大半を異性の愛を得ようとして悩んでいるものでしょう。一日の大半じゃなくて、一日中といっても、いいすぎじゃないくらいでしょう。眠っているときだって、異性の夢ばかり見て、寝ぼけちゃうくらいでしょう。

成年に達してからも、中年、老年となってからも、こういう愛を求めるという性質はさして変化しないものです。家族からの愛、友人からの愛、その他の隣人たちからの愛……ただ、ひたすら、愛を求めて止まない。

人間は、このように他者からの愛を求めています。でも、ただ求めているだけではない。愛を得るためには、それなりの努力をします。ここに進歩が生じます。愛を求めるがゆえに、人間は進歩する。

果たして、これを罪悪視して、否定してよいものでしょうか。愛を求めることを悪としたら、愛を求めるという人間の本質、および愛を獲得するために努力し、人類全体が進歩するという流れを止めてしまうことになりはしないでしょうか。

わたしはこういった疑念から、愛を求めることを悪と断定することには危惧を感じます。これを否定したら、人間は身動きがとれなくなり、窮屈で仕方がなくなりそうです。ただでさえ生き難い世の中が、もっと生き難くなりそうです。

 

与える愛と奪う愛 (三) 軟派篇

与える愛・与えきりの愛・無償の愛……これらは結構なことです。それを実践できるなら、なお結構です。

でも、実際のところは、これらは目標・理想にはなっても、現実に実行することはほとんど不可能でしょう。この世の中に、果たして、他人に親切ばかりを行い、ただの一度も「ありがとう」というお礼の言葉を受けることが無くても、そんなことを気にすることもなく、親切を続けることができる人なんているのでしょうか。

こういうことができるとしたら、それは、神様くらいのものじゃないでしょうか。いいや、やっぱり神様でも無理かもしれませんね。神様の中には、妬みの神・復讐の神・祟り神……いろいろな神様がおられますからね。

結局のところ、「与える愛」というのは、一つの思想であり、理想ではあっても、現実ではないんですよね。人間は愛を求める存在であり、与える愛に徹し続けることは極めて困難であるというのが現実です。この現実はなかなか動かしがたいものがあります。

こういう理想と現実の見極めは、とっても、とっても、とっても……、何度「とっても」と強調してもよいくらいに、とっても大切なことです。なぜ大切かというと、それを知っていないと、人間関係に問題が生じるからです。

「与える愛・無償の愛こそが、真の愛である。奪う愛は許されないことだ。それは罪悪だ」などという信念を持つのは、個人の自由ではあります。そういう理想を抱き、その実現のために努力することは尊いことでしょう。

けれども、こういう理想は、あくまで理想であり、現実ではないということを承知していないと、他人を裁いてしまいがちになってしまうんですね。「あなたは与える愛をせず、奪う愛ばかりだからけしからん」と、他人を叱責したい誘惑に勝てなくなってしまうんですね。

そしたら、そんな説教をされた方は、たまらない。あまりしつこく説教されたら、「奪う愛はだめだという個人的信条を、他人に押し付けることこそ、奪う愛ではないですか。それはいけないことじゃないんですか」と突っ込みたくなってしまうかもわからない。まあ、これは冗談ですけど、ね。

こういう、つまらない摩擦を生じさせないためにも、自分の抱いている理想は、あくまで理想であり、願望にすぎず、現実とは違うということを承知しておくのが大切です。これで無用の軋轢は幾分かは回避できるでしょう。



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