「幸福の科学」観察日記

「幸福の科学」を観察しつつ、心に浮かんだ感想などを綴っています。

人間らしく

2013-01-02 | 感想 2

数年前に、人間らしさについて書いた文章を見つけたので、とりあえずそのまま貼っておきます。後ろの方では、“疑” について少し書いてます。(「○○篇」というのは内容のことではなくて、文章の雰囲気のことです。)

 

人間らしく(一) しとやか篇

 世の中には、実に、さまざまな人間が生きています。神々しいほどに素晴らしい人間もいれば、けだもの、悪魔とさげすまれるような人間も、残念ながら存在するようです。

 しかし人間は、一方は常に神々しい人間であり、もう一方は常に悪魔的な人間というように、固定的に分けられているわけではありません。善人とされる人間が、時に悪事を行い、悪人とされる人間が、時に善行を為すということはめずらしくありません。

 文芸作品に例をとれば、夏目漱石の『こころ』に描かれた主人公は、本来は善人でありながらも親友を裏切ってしまいます。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の主人公は、盗人ではあるけれども蜘蛛を憐れむ仏心を秘めています。

「魔がさす」「仏心を起こす」などの言葉が示すように、人間は、その時々によって、人間らしくもなり、悪魔のようにもなるのでしょう。

 では、その変化を起こす原因になっているものは何なのでしょうか。この人間らしさは、何によって維持されているのでしょうか。どうも、これには、いくつかの事柄が関わっているように思われます。

 

人間らしく(二) しとやか篇


 まず一つは、愛です。仁、忠恕、惻隠の情、思いやり、親切、温情、やさしさ……その呼び方はさまざまですが、人間らしさを維持するために必要な第一のものは、まちがいなく、愛でありましょう。

 愛というと、次のような意見を耳にすることがあります。
「知のない愛は相手を駄目にする。砂糖菓子のような甘いだけの愛は、その時は相手を喜ばしても、後には虫歯をつくる元になるのだ」

 このような意見は、多くの場合、愛ではないものを愛だと誤認しているために生じているようです。

 愛はそれ自体完全なものなのです。もしも相手を駄目にしたり、虫歯を作ったりする愛があるとしたならば、それは本当の愛ではなかったということです。自分かわいさの思い、自己保存の思い……そのようなものを、愛だと勘違いしていたということです。

 このことは知性にあふれた高学歴の母親や、いわゆる教育ママなどが、必ずしもよい母親ではないことを思えば、容易に、理解できるはずです。一見したところでは、彼女らは知性と厳しさを備えた愛を持っているように見えます。けれども実際には、自分の自己保存を、子どもへの愛だと勘違いしていることが少なくないものです。

 愛は人間心の浅知恵や、功利的な成果をもくろむ打算を超越したものです。知性や意図的な厳格さは、愛を生かすどころか、別のものにすり替え、死なせてしまう場合が少なくありません。本当の愛を発揮しようとするなら、知や意図から離れて、自分の真心を素直に発現させることが肝心です。

 さほどの学歴もなく、教養も深いとはいえないが、いざというときには、こんなことを叫んでしまう母親がいます。
「お前が世間様に顔向けできないようなことをしでかしたなら、お前を殺して母さんも死ぬ!」

 もしかしたら、これは暴論かもしれません。しかし、このような母親の言葉こそが、子どもを救うことを思えば、上記でいわんとしたこと……心の内が愛で満ちていればそれだけで十分であるということを理解していただけると思います。

 

人間らしく(三) しとやか篇

 さらに、もう一つ勘違いの例をあげるとすると、愛というと、何かの行動を起こさなければ、それは十分な愛とはいえないという考え方があります。そういう考えを持つ人の中には、行動を起こしていない人に向かって、「あなたは、愛、愛というが、いつも口だけで、実際的な愛他行はまるでしていないではないか」と、なじる人もいるようです。

 しかし、愛は、必ずしも行動をともなうものだけではないのです。行動をともなわない愛もあるのです。それは祈りです。祈りとは、もっとも純化された愛であるといっても過言ではありません。誰かを本気で愛するならば、それは必ず、祈りへと通じます。愛は祈りへと導く先導者です。

 ですから、愛の実践は、事情があって体を動かせない状態にある人にも可能です。他者と交わることの苦手な人にも可能です。祈りは全ての人に許されています。つまり愛は全ての人に許されています。このことは決して忘れることのないようにしたいものです。

以上、愛について述べてましたが、人間らしくありたいと願う者は、すべからく、この愛を心に抱いていてほしいと思います。

 

人間らしく(四) しとやか篇

 二つ目は、義です。人間らしさのためには、悪を捨て、正義を選ぶことが、ぜひとも必要です。

 義というと、なにやら大袈裟のように感じたり、赤穂四十七士を思い浮かべ、時代錯誤のように思う人があるかもしれません。

 しかし義は一時代に限らず、永遠のものです。義の中身……何を持って正義とするかは、時代によって変化することがあっても、義は尊くない、悪を選ぶべきだとするような時代がくることはありません。この意味で、義は永遠なのです。

 また、時代的な制約を受けているように見える義であっても、その動機において純粋であれば、時代を超えて支持されうる美しさを備えているものです。たとえば、封建的な義であっても、その根っ子に、恩、義務、尊厳、愛……など、無私なる心がある場合には、現代社会においても、その尊さは変わりません。いまでも忠臣蔵など、仇討の物語が支持されているのはこのためでしょう。

 義は大切です。しかし無闇に義を振りかざした横暴は許されません。時代や地域を超えた本当の義のためには、その義の動機の純粋さについて確認することが肝要です。

 

人間らしく(五) しとやか篇

 三つ目は、礼です。巷では、人という字は支えあってできているように、人は単独で生きるのではなく、支え合って生きているのだといわれます。全く、その通りです。人は、人と交わりながら生きています。その交わりの中で、ぜひとも必要とされるのが礼です。

 礼というと、煩雑な礼法を想像し、敬遠してしまう人があるかもしれません。しかし、本来の礼は、瑣末な形式ばかりを偏重することではないのです。礼の根本は、他者に対する思いやりにあります。他者を不快にさせないようにしようという優しさです。相手に対する敬意でもあります。……つまり、心が大事なのです。

 人との交わりは挨拶からはじまり、挨拶で終わります。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「おやすみなさい」……そういった挨拶を交わすことではじまり、そして、終わります。

 これらは、あまりにも当たり前のことですから、ただ習慣的に口先だけでいってしまいがちになるものです。けれども、ほんの少しだけでも、「あなたと会えてよかった」「今日も元気そうで、なによりですね」というような気持を添えて、挨拶をするならば、それはとても心のこもった温かな挨拶になり、相手を幸福にすることでしょう。

 礼はこんな簡単なことから、「ゆっくり、焦らず」を心掛けつつ、身につけてゆきたいものです。「ゆっくり、焦らず」を旨としていれば、その立ち居振る舞いはまずまず美しく見えるものですから。

 さて、礼といえば、二つの対極的なエピソードがあります。

 その一つは、乃木大将とステッセル将軍との会見です。乃木大将は、敗軍の将であるステッセル将軍に対して、礼をもって対し、帯剣を認めました。これは美しい話です。

 もう一方は、昭和天皇とマッカーサーの会見です。マッカーサーは礼を欠いた態度で、昭和天皇と会見しました。勝利の驕りと、政治的な打算によるものでした。あの有名な写真は、マッカーサーの意図とは裏腹に、マッカーサー自身を貶めています。これは非常に気の毒なことです。

 これらは、礼の根底には、心……謙虚さと相手への敬意……があり、もし、それを欠くならば、後々までも恥を残すことになるということがよくわかるエピソードであると思います。

 

人間らしく(六) しとやか篇

 人間らしさの基礎として、四つ目に挙げられるのは知です。

 人びとは知を求め、獲得し、後世へ伝えてきました。その知の遺産は膨大な量となっています。その量を実感したい方は、図書館に出かけてみたらよいでしょう。図書館に積み上げられている書物は、人類の知的遺産のほんの一部です。しかし、それだけでも、あれだけの量があるのです。

 知を愛してやまないのは、人の特質であり、人間らしさを保つものです。人と獣とを分かつものです。

 場合によっては、「知」と聞くと、拒絶反応を起こしてしまう人がいるかもしれません。「そんな難しいことは自分にはわからない」と後退りしてしまう人がいるかもしれません。

 けれども、そういう方も、どうぞ安心してください。ここでいう「知」は、学校の勉強に限定されるような狭く、小さいものではありません。もっと広く、大きいものです。あらゆることに興味関心を持つことを指しています。

 そうですね。たとえていえば、幼子の疑問のようなものです。
――どうして空は青いの?
――どうして氷は冷たいの?
――どうして火は熱いの?
――どうして人は二本足で、犬は四本足なの?
――死んだらどうなるの?
――ドラえもんには、どうしたら会えるの?

 これらの問いは、大人から見たら、荒唐無稽な愚問にしか見えない場合もあるかもしれません。しかし、何に対してであれ、「どうして?」「なぜ?」という興味関心を持つことは、本当に大切なことです。

 残念なことですが、一つの宗教または一つの思想に凝り固まってしまい、これこそが最上の宗教(思想)だと思い込んでいる人たちがいます。こういった人たちが、「自分は知っている」と思い上がり、全方位的な知の探求を放棄し、みずから視野を狭め、宗教(思想)の傀儡となって、人間らしさを失ってゆくのは、上述のことが欠けているのが、その一因となっているでしょう。

 興味関心は、裏返して見れば、「自分はまだ知らない」ということを意味していますから、謙虚さに通じます。謙虚さは、向上心や他者へのいたわりの生みの親でもあります。少々、大袈裟ないいまわしかもしれませんが、興味関心は、自分の将来への道を開き、周囲の人たちとの交わりを促進します。

 幅広い興味や関心……言い換えれば、素朴な疑問……は、自分のためにも、周囲の人びとのためにも、失うことないようにしたいものです。

 

人間らしく(七) しとやか篇

 五つ目に数えられるのは、「信」です。これが、人間らしく生きるためには、ぜひとも必要です。

 この「信」は、およそ三つほどに分けることができます。

 まずは神仏を信じるということです。神仏ということに抵抗があるなら、人を超えた何かというようにもっと抽象的なものを対象としてもいいでしょう。とにかく、何らかの信仰を持っているのは、生き物の中では人間だけです。動物が合掌して神仏を礼拝している姿を見たことがある人はいないでしょう。ですから信仰は、人と獣を分かつものです。

 もう一つの信とは、相互信頼です。信頼関係というものは、人間に限らず、群れをつくる動物の中には、多かれ少なかれ観察されるようです。互いの蚤を取り合ったり、協力して狩りをしたり、危険が迫っていることを仲間に知らせたりする動物は少なくありません。しかし、人ほどに他者と親密な交際をする生き物は他にはありませんでしょう。

 三つ目は、自分を信じるということです。人は自分に対する信頼を失くしてしまっては、人らしく生きることは困難です。「自分はダメな人間だ」と思い込んでしまっては、本当にダメな人間になってしまいかねません。

「自分は完全ではないかもしれない。間違いを犯すかもしれない。けれども本来は善い人間だ」というように、自分を信じていてこそ、善い人間でいられるものです。

 再度、繰り返しますが、人らしくあるためには、神仏、他者、自分という三つを信じることが大切です。このことを忘れないようにしたいものです。

 

人間らしく(八) しとやか篇

 人間らしさを支えるものとして、愛、義、礼、知、信について述べてきました。

 ここまで読みすすめてくださった方の中には、すでに承知されている方があるかもしれませんが、愛以外のもの……義、礼、知、信は、すべて、愛に集約されるものです。義、礼、知、信は、愛を展開したものでもあります。

人が人であるためにも、愛……このもっとも大切な宝物を、常に心に育んで行きたいものです。



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。