久遠実成について続けていきます。
この久遠実成を釈迦が述べたという事で、ではそこでは、具体的にどの様な成仏観の転換が起きたというのでしょうか。それまでの成仏観、前のこのブログの記事で、その事を日蓮が開目抄では「四教の因果がやぶれ」と述べていましたが、それは過去世で多くの仏の下で修業を重ね、その修行の因により結果として成仏できるという考え方の大転換なのです。
この久遠実成を釈迦が述べたという事で、ではそこでは、具体的にどの様な成仏観の転換が起きたというのでしょうか。それまでの成仏観、前のこのブログの記事で、その事を日蓮が開目抄では「四教の因果がやぶれ」と述べていましたが、それは過去世で多くの仏の下で修業を重ね、その修行の因により結果として成仏できるという考え方の大転換なのです。
大乗仏教の発生には、「ジャータカ伝説(本生譚)」というのが関係していたと言います。ジャータカ伝説とは、釈迦の過去世の姿の話として語られ、そこでの釈迦は輪廻転生を繰り返し、ある時には国王や大臣、長者や婆羅門、商人や盗賊という話もありました。またこれは人間に輪廻転生するだけではなく、中には象や鹿、猿などの時代もあったようです。そしてこの様々な姿で様々な修行をしたという物語なのです。この伝説で有名な話では、以下のものがあります。(Wikipedia参照)
◆尸毘王(しびおう)
釈迦の前世である慈悲深い尸毘王は、ある時バラモン僧のために両眼を布施した。そのバラモン僧は帝釈天で、両眼を元に戻したという説話。なおこれは南伝の説話で、北伝では、鷹に追われた鳩を救うために、王が鳩と同じ分量の自分の肉を切り取って鷹に与えた。鷹は帝釈天、鳩は毘首羯摩天で、王の慈悲心を量った。
◆雪山童子(せっせんどうじ)
施身聞偈(せしんもんげ)で知られる。『涅槃経』に説く。釈迦の前世である童子が無仏の世にヒマラヤで菩薩の修行をしていると、羅刹が諸行無常・是生滅法といったので、その残りの半句を聞くために腹をすかせた羅刹のために、生滅滅已・寂滅為楽の半句を聞き、木石などに書き残して投身した。投身した刹那に羅刹は帝釈天に姿を戻し、童子の身を受け止めて、未来に仏と成った時に我らを救い給えといった、という説話。
◆薩埵王子(さったおうじ)
捨身飼虎(しゃしんしこ)で知られる。『金光明経』などに説く。釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った。
釈迦の前世である慈悲深い尸毘王は、ある時バラモン僧のために両眼を布施した。そのバラモン僧は帝釈天で、両眼を元に戻したという説話。なおこれは南伝の説話で、北伝では、鷹に追われた鳩を救うために、王が鳩と同じ分量の自分の肉を切り取って鷹に与えた。鷹は帝釈天、鳩は毘首羯摩天で、王の慈悲心を量った。
◆雪山童子(せっせんどうじ)
施身聞偈(せしんもんげ)で知られる。『涅槃経』に説く。釈迦の前世である童子が無仏の世にヒマラヤで菩薩の修行をしていると、羅刹が諸行無常・是生滅法といったので、その残りの半句を聞くために腹をすかせた羅刹のために、生滅滅已・寂滅為楽の半句を聞き、木石などに書き残して投身した。投身した刹那に羅刹は帝釈天に姿を戻し、童子の身を受け止めて、未来に仏と成った時に我らを救い給えといった、という説話。
◆薩埵王子(さったおうじ)
捨身飼虎(しゃしんしこ)で知られる。『金光明経』などに説く。釈迦の前世である王子は、飢えた虎とその7匹の子のためにその身を投げて虎の命を救った。
このジャータカ伝説には五百を超える説話があると言いますが、ここで語られている様々な姿での修行を通して、釈迦は仏になったという事から、大乗仏教では釈迦も菩薩行を行い成仏出来たのだから、私達も同じ様に修行をすれば仏になれると説かれていました。
しかし久遠実成となった場合、このジャータカ伝説で語られた様々な説話は、全て釈迦が成仏した後の行動という事になるのです。つまり成仏というのが「目標・目的」ではなく前提となって、この様々な伝説で語られる修行の姿があるという事であり、「成仏」というそのものの考え方が大転換された事になります。
「仏とは苦悩を乗り越え、三惑を已に断じた存在ではなかったのか?」
そしてそこから、こういう考えも当然出てくる事では無いかと思うのです。
ではその辺りについて、如来寿量品で釈迦はどの様に語っているのか、そこについて見ていきます。
ではその辺りについて、如来寿量品で釈迦はどの様に語っているのか、そこについて見ていきます。
「是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す。
亦余処の百千万億那由他阿僧祇の国に於ても衆生を導利す。
諸の善男子、是の中間に於て我燃燈仏等と説き、又復其れ涅槃に入ると言いき
是の如きは皆方便を以て分別せしなり。
諸の善男子、若し衆生あって我が所に来至するには、我仏眼を以て
其の信等の諸根の利鈍を観じて、
度すべき所に随って、処処に自ら名字の不同・年紀の大小を説き、亦復現じて
当に涅槃に入るべしと言い、
又種々の方便を以て微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき。
諸の善男子、如来諸の衆生の小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、
是の人の為に我少くして出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。
然るに我実に成仏してより已来久遠なること斯の若し。
但方便を以て衆生を教化して、仏道に入らしめんとして是の如き説を作す。」
ここで釈迦は成仏してから、常に娑婆世界(この現実世界)にあって、常に法を説き人々を教化してきたと言うのです。またこの娑婆世界以外の場所でも、百千万億那由他阿僧祇の国でも人々を導いてきたというのです。そしてこの中(五百塵点劫から現在までの間)で釈迦は燃燈仏等の諸仏となったり、そこで涅槃に入ると言ってきたと言うのです。これはどういう事なのでしょうか。常に娑婆世界にあったと言いながら、実は他の国でも様々な仏となって衆生を教化してきたという事は、つまる処、大乗仏教で説かれているすべての仏は、釈迦の姿であったというのです。つまり釈迦は大乗仏教で説かれる全ての仏の根源仏(根源的な仏として存在していた)であるという事であり、そこには時間とか空間という概念は取り払われた存在であるという事になります。
ここで釈迦は成仏してから、常に娑婆世界(この現実世界)にあって、常に法を説き人々を教化してきたと言うのです。またこの娑婆世界以外の場所でも、百千万億那由他阿僧祇の国でも人々を導いてきたというのです。そしてこの中(五百塵点劫から現在までの間)で釈迦は燃燈仏等の諸仏となったり、そこで涅槃に入ると言ってきたと言うのです。これはどういう事なのでしょうか。常に娑婆世界にあったと言いながら、実は他の国でも様々な仏となって衆生を教化してきたという事は、つまる処、大乗仏教で説かれているすべての仏は、釈迦の姿であったというのです。つまり釈迦は大乗仏教で説かれる全ての仏の根源仏(根源的な仏として存在していた)であるという事であり、そこには時間とか空間という概念は取り払われた存在であるという事になります。
そしてこれらはみな「方便」を以って分別してきたと言い、人々が自分の処に来た時に、釈迦は仏眼を以ってそれらの人々の機根を観じて様々な名前、様々な時間枠、また様々な姿を現わしながら、これから涅槃に入るとも述べ、方便力を以って微妙な法をを説き歓喜の心を起こさせたというのです。
こなると、ジャータカ伝説で述べられた過去世の釈迦の姿も、その根源は久遠実成の釈迦ですが、そこに登場する諸々の仏も、その根源は釈迦だという事になります。これはつまり「仏」とは衆生を救済する存在であると共に、その救済を受ける側も実は「仏」という事になります。
つまり仏とは、生きとし生ける存在の、根源的な姿という事にもなっていきます。そして煩悩を断じ尽くしたという事や、三惑を断じ尽くした姿も仏であると同時に、煩悩におぼれ、三惑の中で苦悩し、法を求めて修行するのも仏であるという事になっていくのです。
これは一体どういう事なのでしょうか、この思索は更に続けます。
(次回に続く)