自燈明・法燈明の考察

久遠実成とは①

 以前の記事「法華経が勝れている事」でも書きましたが、法華経には二つの大事があると日蓮は述べていました。そしてその一つが一念三千であり、そこでは心の形を明確に示し、その心の中には仏界という仏と同じ心が常にあるという事を示すと共に、その心は個人の中に収まるだけではなく、社会やその地域、また環境と関係性を持つことも述べられていました。

 そしてもう一つの大事というのが「久遠実成」というものなのです。何故これが大事なのかについては、後に述べるとして、まずはその内容について紹介していきます。この久遠実成という事が説かれているのは、妙法蓮華経の如来寿量品第十六です。ここも日蓮門下では勤行で常に読んでいる箇所なのですが、概要を説明します。

 説明の前に、この如来寿量品第十六の前段である、従地涌出品第十五では、釈迦が末法濁悪の時代に法華経の弘通を託す弟子がいるという事で、地中から呼び出した菩薩がいました。これを「地涌菩薩」と言いますが、その人数は六万恒河沙という計り知れない人数であり、しかもその菩薩たちの見た目や姿は、釈迦よりも尊く立派でした。それを見て弥勒菩薩は「高齢の老人が赤子を指さして”この人が私の師匠である”」というほどの違和感を感じると述べたほどです。つまり地涌菩薩達の尊貴な姿にに比べたら、釈迦が赤子に見えるというのです。しかもその人数が膨大であった事から、弥勒菩薩は大きな疑念を持ちました。

「釈尊は出家してから四十余年で悟りを開いたと言っていましたが、その四十余年という短期間の間に、どうしてこの様な尊貴な膨大な人数の菩薩達を教化してきたのか」

 その疑念に対して釈迦が弥勒菩薩に回答したのが、如来寿量品第十六なのです。そしてそこでは以下の様に述べるのです。

「汝等諦かに聴け、如来の秘密・神通の力を。
 一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏釈氏の宮を出でて伽耶城を
 去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。
 然るに善男子、我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由他劫なり。
 譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人あって抹して微塵と
 為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて乃ち一塵を下し、是の如く
 東に行いて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意に於て云何、是の諸の
 世界は思惟し校計して其の数を知ることを得べしや不や。
 弥勒菩薩等倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は無量無辺にして、
 算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。
 一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ。
 我等阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては亦達せざる所なり。

 世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。爾の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、
 諸の善男子、今当に分明に汝等に宣語すべし。是の諸の世界の若しは微塵を
 著き及び著かざる者を尽く以て塵と為して、一塵を一劫とせん。
 我成仏してより已来、復此れに過ぎたること百千万億那由他阿僧祇劫なり。」

 ここでは「貴方たちはしっかりと聞きなさい、如来の秘密である神通力の力をこれから説きましょう」と言い、それまで秘密にしていた事を説きだしたのです。

「全ての人達は私(釈迦)が王宮を出てから、遠くない時に道場で座禅瞑想して悟り(阿耨多羅三藐三菩提)を得たと言っている。しかし善男子よ、私は実に成仏してからこれまで無量無辺百千万億那由他劫という時間が経過しているのである。」

 一劫とは様々な説がありますが、一億六千万年とも言われていますが、それをはるかに凌駕する時間が経っているというのです。それはどの位の時間なのかの説明を続けます。

「例えば五百千万億那由他阿僧祇という銀河系を仮に人がすり潰して塵にしたとして、東に向かい五百千万億那由他阿僧祇の世界を過ぎる事に、その塵を一粒づつ落として行ったとしよう。そして全ての塵を落とし終った国の数はどれだけだろうか」

 この様に質問すると、菩薩達は「どの様な人智を以っても認知出来る事が出来ないほど、理解できる事の数ではありません」と答えます。すると釈迦は更に続けます。

「貴方達に宣言しよう。この時に塵を落とした国も、落とさなかった国も、全てすり潰して塵にして、一粒を一劫と数えた年数の、更に百千万億那由他阿僧祇劫も長い時間の遥かむかしに私は成仏していたのである」

 どうでしょうか。
 ここまで読んで、この数を考えられる人は、果たしてどれだけいるのでしょうか。実はこの計り知れない過去(これを五百塵点劫と呼んでいます)に釈迦は成仏していたのだと明かした事を、「久遠実成」と呼んでいるのです。

 ではこの「久遠実成」という話には、一体どのような意味があるのでしょうか。
 創価学会や顕正会、また日蓮正宗関係では、この事については以下の様に考えているのです。

「五百塵点劫の昔に成仏した釈迦は、様々な仏を教化してきたといますが、この五百塵点劫という長遠の時間にも始まりのある事で、日蓮大聖人はそれよりも更に昔の五百塵点劫の当初(そのかみ)という時に、実は悟りを開き、この釈迦をも教化した根源仏なのです」

 実はこの考え方は、大乗仏教的には間違です。
 まずこの五百塵点劫とは、既に始まりがあるとかないとか、そういった「時間的な概念」を破壊する言葉である事を理解しなければなりません。これは古代インドで使われていた手法でもあると言います。だから「五百塵点劫にも始まりがある」という事自体が大きな間違いである事を理解すべきです。要はここで説明される時間的な概念は、人間が想定できるものでは無いという事を、この部分で「一切の声聞・辟支仏、無漏智を以ても思惟して其の限数を知ること能わじ」と否定している事に注目すべき処、それを無視した話である事は明白なのです。

 ではこの「五百塵点劫」という時間の話を、現代においてはどの様に解釈すべきなのか。ここからは個人的な私見ですが、書かせてもらいます。

 仏教で述べる「成仏」という事には、常に「どの位の時間、どれだけ修行をするのか」という時間的な概念が付いていました。譬えは釈迦は王宮を出てから数年間とか、あと暦劫修行という概念で言えば、膨大な時間の間、転生を繰り返しながら修行を繰り返す事を述べています。「身子(舎利佛)が六十劫」という説話も、その一つです。

 しかし五百塵点劫というのは、そういった時間的な概念と、その結果として得られると言われていた成仏観を打ち壊し、実は釈迦は根源的に仏であったという宣言に他ならないのです。この事について日蓮は以下の様に実は述べているのです。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、」
(開目抄上)

 ここでは本門(如来寿量品)に至って、始成正覚(菩提樹の下で迷走して悟りを得た)という四教の果(爾前経に於ける成仏観)を打ち破った事を述べ、それはつまり四教の因(爾前経に於ける成仏の為の修行観)をも打ち破る事であった。そして本門の十界の因果(久遠から釈迦は仏であった)を説き顕した。これこそが(法華経の)本因本果の法門なのだと言うのです。

 (次回に続きます)


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