自燈明・法燈明の考察

法華経の思想性について(11)

 昨日、東京都の小池都知事の会見が行われました。内容は武漢肺炎が東京都内で急速に拡大する兆候があった事から、週末の不要不急の外出自粛、また企業についてもテレワークの実姉を要請するというものでした。



 最近この武漢肺炎により、今まで見た事もない情景を見せられています。ヨーロッパを中心とした大都市のロックダウン(都市封鎖)、また教会内に並べられる棺桶や、その棺桶を搬送する軍用車両。(これらは主にイタリアですが)
 終末思想(ハルマゲドン)は、過去からヤソ教(キリスト教やイスラム教、ユダヤ教)では言われていましたが、少なくとも私の親の活躍した時代では、この様な世界の情景を見た事は無いでしょう。恐らくこういった感覚を持った人は今の世界に多くいると思います。
 以前に心理学者のカール・グスタフ・ユング氏は、第一次世界大戦の予兆を、自らの夢判断で予知していたという話を聞いた事があります。それは集団深層心理にあふれている不安の情景が、自らの夢にも反映されたものと分析をしていたと思いますが、世界中の人々の心の中に、今回の武漢肺炎による恐怖がどの様に影響を与えていくのか。それによって、今後の世界の動きも変わってくるのではないでしょうか。

 この時代だからこそ、私は大乗仏教の「最高峰」と言われる法華経の経典を、自分自身で読み進め、その内容を公開する事にも意味があると思っています。まあ、極めて個人的な思いでしかありませんが。

 という事で、今回も法華経の内容について読み進めていきたいと思います。

◆滅後の弘教について
 日蓮正宗や創価学会では「広宣流布」という事を語らってきました。戦後の日本の中で「折伏(しゃくふく)」なんていう言葉が認知されたのは、主に創価学会が行ってきた強引な組織拡大の活動によるものですが、この「折伏」も「広宣流布」の活動の一環で行われてきたものです。そしてこの「広宣流布」という言葉が書かれているのが法華経なのです。

 それでは法華経の中で、広宣流布という事をどの様に語っているか、今回はその部分の内容となります。

 釈迦の滅後の弘教の規範である不軽菩薩の姿を説いた常不軽菩薩品第二十の後、如来神力品第二十一で、地涌の菩薩達は釈迦滅後の弘教を釈迦に誓います。すると釈迦は嘱累品第二十二でそれら地涌の菩薩の頭をなでながら滅後の弘教を託します。

 また虚空会はこの嘱累品第二十二で散会となり、説法の場所は霊鷲山に戻ります。

 虚空会が終わり、その後いきなり宿王華菩薩というのが登場し、釈迦に対して薬王菩薩が娑婆世界で遊行している因縁について質問をします。釈迦はこの宿王華菩薩の質問に答えて、薬王菩薩は過去に日月浄明徳如来の下で、一切衆生熹見菩薩として自らの体に油を塗って火をつけて供養した事を述べ、その功徳により日月浄明徳如来から付嘱(後世を託される)された事を明かします。

 そして釈迦はここで宿王華菩薩に対して広宣流布について語ります。

「是の故に宿王華、此の薬王菩薩本事品を以て汝に嘱累す。我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・龍・夜叉・鳩槃荼等に其の便を得せしむることなかれ。」

 創価学会では、末法という時代(釈迦が滅してから二千年以降)に広宣流布を託されたのは地涌の菩薩であるという事を言いますが、法華経において広宣流布を託されたのは宿王華菩薩でした。

 確かに従地涌出品より以前、様々な菩薩が釈迦滅後の弘教を求めましたが、その場で釈迦はそれらを退けていました。そして嘱累品ではそれら地涌の菩薩に対して、滅後の弘教を託しましたが、この薬王菩薩本事品では、名もない宿王華菩薩に対して「後後の五百歳」と末法を指向し、そこでの広宣流布を託しています。

 この事を考えてみると、日蓮正宗で語っていた「本未有善(下種を受けていない人達)」だから、末法には地涌の菩薩だけが、日蓮大聖人の持つ下種仏法を広げるという広宣流布観とは違う事が解ります。

 確かに釈迦は法華経の展開で、地涌の菩薩に対して付嘱をしましたが、そこで他の菩薩達を退けてはいないのです。

 ここから考えてみても、実は日蓮正宗や創価学会が唱えていた弘教観というのは、法華経とは異なる事が理解できるのではないでしょうか。

(続く)


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