自燈明・法燈明の考察

私が感じた創価学会の問題点③

 年末年始休暇の中、時間があるので記事を更新します。私は自身の信仰体験や、1980年代後半の創価学会の主張していた事、また当時は創価学会では多少の論理性もあった事から、この信心で人々を幸せにする事が出来ると確信していました。

 今から考えれば、それは盲信であったからかもしれませんが、ネットが今の様に整備されて無い中で、情報を得る事は出来ず、この判断は創価学会の組織の中で教えられる情報にだけ依ることが大きかったのは否めません。

 ただ少なくとも、当時の青年部の先輩たちが語っている事には、とても論理性があったと感じていましたし、実際に社会の中で信頼を得ている人達はそれなりに居たと思います。

 私が青年部の頃には国連支援活動、オープンハウス大学校運動など、社会に開こうという動きもありましたので、この創価学会の思想性はベストでは無いかもしれないが、唯一のベターなものでは無いかとも感じていたのです。

 ◆生活パターン
 活動家時代で地区リーダーの時までは、まだ創価学会以外の友人とも遊ぶ時間がありました。ただ部長という役職以降、こういう時間を取ることが困難にもなりました。しかしそれも自分が選択した事なので不満はありませんでした。

 この部長になって以降の生活パターンは、苛烈なものでした。

 平日は当たり前の事ですが、朝は仕事に行きます。「信心は一人前、仕事は三人前」という創価学会の指導性もありましたが、男たるもの社会で認められてナンボでしかなく、けして組織内しか通じない様な人間になってはいけない。社会でも必要とされる人間になる事が大事だとも言われたので、仕事に手を抜くことはありませんでした。また私は本山担当や本部運営創価班もやっていたので、2ヶ月に一日は休まなければならないので、平日は極力仕事をやり抜こうと決めていました。
 とは言え会館担当日もあるので、18時迄には会館に着かなければならない日もありました。その時には部下に仕事を割り振って、職場を早退していました。私の場合、ベンチャー企業に勤め、二十代後半からは友人と会社をやっていたので、そこは融通を利かせることが出来ました。でも仕事は当然溜まりますので、深夜に会社に戻り、部下に依頼した仕事を確認したり、自分の仕事を片付けたりしてましたので、週の半分は朝帰りという状況でした。

 唯一ゆっくり出来たのは、土曜日の午前中で、それ以外は殆ど家に居ることなく、会館や家庭訪問、また各種会合に走り回っていたのです。

 ある時は、家に帰り、気が付いたら背広姿のママ布団の上でアグラをかいて座って寝ていた事もありましたが、こんな生活を十五年近くやっていたのです。

 よく池田氏は言っていました。
「広宣流布の組織に尽くしぬく人生が尊いのである」

 自分自身の行動が少しでも社会の役に立てば、また広宣流布する事で、人類社会が少しでも良くなるのであれば、自分自身の体が壊れても構わない。また寿命が短くなっても構わないとも真剣に考えていたのです。
 
 要は私がTwitterでも良く書きますが、当時の私の中には「創価学会こそ正義」という確信がありましたので、そこまで考えていたのです。また当時は独身でもあったので、何かあったとしても失う物が無い(少ない)という事も関係していたのかもしれません。

 ◆疑念の切っ掛け
 疑念の一つの切っ掛けとなったのは、三十代後半で県幹部になり「副役職」になった時でしょうか。当時は選挙戦で自分自身も選挙スタッフとなっていましたが、当時は仕事で職場も変わっていて、任された仕事もあった事から、日々終電で帰宅するという日々が続きました。このプロジェクトのメンバーの中に数人の男子部幹部(私とは違う地域)も居たのですが、その彼らが仕事を真面目にやらず、直行直帰をしたり、遅刻してきたにも関わらず早退を願い出て来たり。私は仕事には拘りがあったのですが、彼らは「今日は大きい会合で司会をしなければならない」とか「今日は折伏があるから」という理由で、とにかく仕事を真面目せず、仕事を早く上がったりしていたのです。当然、創価学会以外のメンバーは私と同様に終電間際に帰宅という日々も続いていて、そんな彼らからは「創価学会は忙しいんですね。まあ社長も(当時の会社の社長は学会幹部でした)創価学会だから仕方ないんでしょうね」という、皮肉めいた事まで言われていました。

 私は当然、プロジェクトの責任者でもあったので、そんな彼らには勤怠について指摘したのですが、選挙戦の序盤であるという事もあり、彼らには馬耳東風でした。

 この男子部メンバーの仕事の煽りも受けて、私はより帰宅時間も遅くなり、結果として創価学会の組織活動から遠ざかっていたのですが、そんな私に対して地元組織では「斉藤は組織に顔を出さなくなった」「彼は退転した」という噂が飛び交っていたのです。まあ分県幹部なので、それなりに知名度もあったのですが、その言葉を先輩幹部である分県幹部や総県幹部からもフォローしてもらえず、気が付いたら「退転した幹部」の様な扱いを受ける様になっていたのです。

 これには我慢できないと、私は先輩幹部に相談したのですが、その幹部から言われたのは「彼らはそれぞれの使命の場で必死に戦っているじゃないか!むしろ私は活動をしない君が心配なんだ!」と言われる始末。一体全体「仕事は一人前、仕事は三人前」という指導はどこに行ったんだと思いましたが、そういう私の想いをくみ取る幹部は、当時の組織には居なかったのです。

 この事もあり、私はとにかく仕事でプロジェクトを進めなければならなかったこともあり、組織からの連絡を無視して仕事に没頭する事にしました。

 「自分が考えていた広宣流布というのは何だったのか」

 ここから私自身、思索の振り返りを始めました。これは今から十数年前の事でした。

(続く)


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