自燈明・法燈明の考察

創価学会による政治意識の刷り込み

 まもなく東京オリンピックが開催されます。今まで行われたオリンピックにはまだ意義があったかもしれませんが、これだけ世界的に感染症が広がり、開催国である日本の中でも、その対策に様々な矛盾がある中、こういった体育大会(オリンピック)を開催する事に、果たして意味があるのでしょうか。

 菅総理はこの東京オリンピックを「新型コロナに勝利した人類の証」としての意義づけを以前に行いましたが、今の世界の状況は「勝利した」というよりも「翻弄され続けている」という姿を露呈しており、開催国の日本であってもこのパンデミックで浮き上がったものは「国家の安全保障能力の欠如」だと言っても良いでしょう。
 この様な国家の姿は何故出来てしまったのか。そこは国民の政治意識の低下が一番の問題だと思いますが、そういう政治的な意識の低下、根底にある「政治のシラケ」に乗じて、無策な政権与党を支え続けているのが公明党であり、そこに創価学会という宗教団体が関与している事も問題です。

 そんな創価学会が機関紙の聖教新聞に原田会長の指導(談話)を掲載していましたが、そこには創価学会の政治活動の基本的な理念が語られていましたので、まずはその内容について紹介します。

「広宣流布とは、仏の魔との熾烈な攻防戦でもあります。魔は「魔の国土」を広げようと必死に策を弄し、我ら仏の軍勢は「仏の国土」を築こうと賢明に戦っている。このせめぎ合いが「立正安国論」の言論戦です。
 すなわち、私たちの推進する支援活動は、「仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治」を実現するための、宗教運動の一環であり、だからこそまず何よりも、私たち自身の人間革命―言い換えれば祈りを根本に、全ての人の仏性を信じ抜いき、あらゆる差異を超えて友情を広げる中で、自己の境涯を広げゆく実践こそ、根本中のこんこんであります。」

 さて皆さん、これって何を言っているか理解できますか?

 恐らく創価学会の中で盲目的に活動している人達は理解している(つもり)でしょうが、読んでみると原田会長の言っている意味が全く分かりません。

 この原田会長の言葉については、敢えてここで論及しませんが、一般的な考え方から見れば突っ込み処満載で、正直論及するに値しない内容です。この程度の言葉を吐く人が創価学会の会長というのですから、そんな組織に日本人の中で二百万程の人が所属し、捨て票集めに走っている事がとても残念でなりません。

 私が壮年部という年代になり、創価学会の活動を止めた時、これは今から十数年前ですが、通勤途中に男子部の後輩で区幹部をしているメンバーと会い、少し話をした事があります。彼はその後、大手企業から創価学会関連団体に転職し、今では職業幹部として壮年部の区幹部という要職をしています。

 私は彼に率直に聞きました。
「創価学会の会員だからと言っても、政治信条と信仰は別なのだから、全ての会員に公明党の支援を組織として指示する事には、人間主義の組織として矛盾があるのではないか?」

 すると彼は答えました。
「何を言っているんですか?創価学会の会員であれば、公明党の支援をするのは当たり前じゃないですか。そこに何の矛盾があるというのですか?」

 もう既にこの段階で、話がかみ合いません。
 そこで私は「思考実験」として次の話を例に挙げました。
「例えば共産党支援する家族の中に居る青年が、日蓮大聖人の仏法に感銘を受けて創価学会に入信したとする。そして彼が共産党の政治活動の中で、人間中心の政治の志を以て政治家という仕事に立候補したとして、そこの選挙区に公明党の大物議員がいた場合、彼の立ち位置は創価学会とは矛盾を起すのではないか?」

 彼は言いました。
「そうならば公明党から立候補すれば良いでしょう。公明党の支援を邪魔すれば、それは広宣流布を阻害する事で、仏敵となります。」

 私は彼に問いました。
「公明党から立候補なんて、個人の希望で立候補する方法なんて無いし、そもそも政治信条の自由は憲法で保障されている基本的人権だろう。また仕事として政治家を志していた人の職業選択の自由の権利を奪うのが広宣流布なのか?」

 この私の問いに、彼は答えられませんでした。

 信教の自由とは基本的人権の一つで大事に扱われるべきです。そしてその自身の信じる宗教や思想をどう自分の生活や社会に展開するのかは、一人ひとりの取り組みであり、そこは宗教活動とは別次元で考えるべき事ではありませんか?

 創価学会の第二代戸田会長が、過去の指導の中で語っていた創価学会と政治の関わり方として、政党を作らない、どの政党から学会員が立候補して政治家になっても構わない、という事も、この関係性を考えていたからだと思います。

 そもそも戸田会長は参議院議員選挙にのみ関与し、衆議院議員には出ないこと、また政党を作らないと明言していたのも、こういう宗教と政治の距離感を心得ていたからではないでしょうか。宗教団体が政治権力に利用される事を防ぎたい、そういう考えがあったからでしょう。

 しかし第三代池田会長は、戸田会長の思いとは裏腹に公明党をつくり、衆議院議員選挙にも参加を決めました。これには既に議員となった学会幹部の要望が強くあったと言いますが、状況はどうあれ池田会長は戸田会長の構想にあった政治との関係性を変える決断を行い、行き着いたのが今の「選挙創価学会」ともいうべき姿なのです。

 まずは創価学会の活動家達は、自分達の宗教団体の政治に対する軌跡を理解すべきなのですが、おそらく今、創価学会で捨て票集めに奔走している人達は、こういう事は知らないと思います。

 彼らは臆面もなく言うでしょう。
「創価学会が路線を変える事の何がいけないのか?世の中は恒に変化するのだから、変える事は何も悪い事ではないのだ!」

 確かにそうかもしれません。であれは変更する際には組織内でしっかりと既定路線を見直し、何がどう変わったから路線を変更したという事を、会員には周知すべき処、何も創価学会の中ではこういった政治視線に関する議論すらしていません。そもそも創価学会が政治に進出した理由も「国立戒壇建立」という目的があったからですが、昭和47年の国会で、共産党から指摘を受けて路線変更を行い、創価学会と公明党の役職を分離したのです。

 こういう事は何も政治に関する事だけではなく、教義についても同様で、2014年11月に行われた教義改正についても、未だにおざなり状態であって、末端組織の多くの会員は理解すらしていないのです。

 これだけ日本社会もおかしくなり始め、世界的な情勢も変わってきたのですから、創価学会の人達もそろそろ考え始める必要のある時代に入ってきたと思うのですけどね。いまだ創価学会の組織には、過去からの刷り込みのまま、とにかく動くという組織文化が、幅を効かせているのです。でも創価学会の活動家が、この政治的な意識の刷り込みから離れる事は、容易な事ではありません。

 まったく以て創価学会という組織は、罪作りな団体ですね。




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