自燈明・法燈明の考察

九識は常住だと思っています

 寝る前に少しだけ記事を書いておきます。

 「三世の生命観」という言葉が創価学会を中心にして語られています。でも創価学会では語るだけで、それを具体的に語る事はしていません。何故ならそれが明確に想定できていないからでしょう。

 創価学会では「現世利益」こそ重要であり、それにからんだ「生命観」は述べていても、法華経に基づいた生命観について思索もされていなければ、具体的な話すらしていません。

 池田氏も言ってましたよね。学会活動の功徳は広大で、それによってのみ三世永遠の幸福境涯を確立するんだ。なんて事。

 以前にあった学会の教学冊子「教学研究」では、例えばキュブラー・ロス女史の話や、ムーディ氏の話す欧米の「NDE(臨死体験学)」の一部を引用して考察らしきものをしてはいましたが、その冊子も私が高校生くらいまでの話であって、近年ではそういう冊子すら目にしません。また「法華経の智慧」なんて中で、レーザーのホログラム論や波を譬えに「三世の生命」という事を触れて居たりしてますが、池田氏の話はそのレベルで終わっています。

 日蓮の語る中には、天台教学の九識論がありました。これについては、このブログでも多く取り上げてきました。この九識論の「阿摩羅識(九識)」とは、十界論でいう「仏界」に当たりますし、それは如来寿量品で明かされた「久遠実成の釈尊」にも該当すると私は考えています。

 過去に創価学会では七識(末那識)以下の識、ここでいう「意識」とか「五識」は「阿頼耶識(八識)」に潜在エネルギーとして冥伏(眼には見えない存在)すると述べていますが、これは少し視点が違います。まず仏教とはどこまで行っても人の「内面(心の世界)」を探求した教えであれば、それが自分以外の他者に見えなくなろうが、当の心の当事者とも言うべき本人にとっては消えるものでは無いと私は考えています。

 これの根拠としては、多くの人達が語る「臨死体験」の中に観る事が出来ます。

 「臨死体験者」の多くは、自分自身が外目に意識が無くなり、場合によっては脳死状態にちかい状況で、既に脳が意識活動を継続できない状況と診断された時であっても、己の体を感じ、五識が活発に活動、また「自我」というのが消える事なく残っていた事を経験しています。ここから見れば、外目に「意識が無くなった」「死んだ状況であった」と見えていたとしても、心の働きは常に活発に動いている事を示唆しています。

 そういう事から言えば、創価学会が過去に主張していた「冥伏」というのは、あくまでも第三者的な観点からの姿であって、当の本人からすれば、なんら生きている時と変わらない状態で働いていた事を意味しているのです。仏教が内面の世界に観点を置いているのであれば、そもそも「冥伏」なんて単語を使う事自体がオカシイ話なのです。

 ただここで不可思議と思える事があるのです。

 先日、私は手術を受けましたが、その際には「全身麻酔」というものが施されました。これは麻酔薬により、意識は元より肉体も「死体」に近い状態へと持っていくので、人工呼吸器無しには自発呼吸すらせずに死んでしまう状態です。また麻酔から醒めても、最低限、一昼夜に渡り水すら飲めないのは、肉体が「死体」の状態から復帰していないからだと医者から聞きました。

 私は七時間近くに亘る手術をしていましたが、個人的にはこの七時間という時間は「一瞬」でしかありませんでした。個人的には手術室で「これから麻酔を入れますからね」と医者に言われ、次の瞬間には夕方となって、集中治療室に管だらけで寝かされていたのです。

 麻酔が「死体」と同じ状況に置く措置だと言う割に、この七時間の記憶が私には一切無いのです。やはり麻酔は臨死体験とは違うのでしょうか。でも人によっては麻酔されている最中に、自分の手術のシーンを天井から見ていたという話もあったりしますが、恐らくこれには器官としての「脳」が関係しているのかもしれませんね。

 チベット仏教の「生と死の書」(ソギャル・リンポチェ氏著)によれば、チベット仏教では人が死を経験する最中には、自分の中にある「真実」に触れるタイミングがあると言っていました。そこで自分の中の「真実」と一体化する事で「解脱(ここでいう解脱とは現世に再び再生しなくなる)」を得られると考えているので、チベット仏教では人が死に向かう際の事について造詣が深くなったと言っています。

 もしかしたらこの「死」というタイミングで、器官としての「脳」の機能が止まった時に、自分自身の心の奥底にある「九識」に私達は触れる事が出来るのかもしれませんね。アメリカの脳外科医であるエベン・アレクサンダー氏は、自著の「プルーフ・オブ・ヘブン」でもその事に触れていましたが、彼が臨死体験で経験した事は、言語にしがたく、またそこで認知した事も深い哲学性に示唆されたものだとして、研究対象にしているくらいです。

 九識論は人間の感覚や働きを全て「識(心の働き)」として捉えています。そしてこの九識論で説かれる私達の心の働きというのは、けして「死」によっても崩れ去るものではなく、自己の内面の心の働きとしては、つねに常住していると捉えた方が、道理として合っていると私は今の段階では考えています。


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