自燈明・法燈明の考察

この現実世界について

 ようやく春らしくなってきましたが、「三寒四温」と言われるように、少し暑さを感じる日もあれば、少し寒さを感じる日もありますね。こういう時が一番体調を崩してしまうので、皆さんご自愛ください。

 中国から黄砂も飛んできているみたいなんで。

 さて、私達が日々「紛れもなく現実なのだ!」と疑うこと無く生きているこの現実世界(娑婆世界)について。近年は「仮想現実」とか「パラレルワールド」とか、様々な事が言われています。考えてみれば、例えば「デジャヴ」とか「心霊現象」で語られる様々不可思議な事、その外にも色々と理屈に合わない現象というのがある事から、こういった様々な理論が出て来ているのかもしれませんね。

 あと近年、科学の中の量子力学の世界で言われている「月は私達が見ているから存在する」という事や、「シュレーディンガーの猫」という思考実験の話にしても、こういった摩訶不思議な事を裏付ける理論として扱われていたりします。曰く「人の観測行為が実験結果に影響を及ぼす」という話。

 以前からこのブログで取り上げている、涅槃経に説かれている「心如工画師(心は工なる画師の如し)」という言葉も、こういった事が言われていたりします。つまり私達が日常、捉えているこの世界というのは、自分自身の心がまるで巧みなる画師の様に描き出している世界だと言うのです。華厳宗などはこの言葉から、この心に仏性がある根拠としている様です。

 皆さんはの中で、寝ている時に変な夢を見て慌て、そこから目覚めた時に「は~夢だった」と安堵した事がある人がいると思いますが、これは私たちが生きているこの「現実世界」が、自分が生きている「揺るぎの無いしっかりとした世界」だという事を、意識する事も無く信じているからだと思います。でもオカルトで語られている様な摩訶不可思議な現象や、量子力学の中で語られる様なまるで「幽霊の世界」は、そういった「現実世界」について一石を投じる事にもなるので、多くの人には認められない事なのではないでしょうか。

 しかし仏教では私たちが信じている「現実世界」は、あくまでも心が認識している世界だと言っているのです。

 幾度もこのブログで引用していますが、九識論では五識(眼識・鼻識・耳識・舌識・触識)が、自分の外界を識別する「識(心の働き)」であるとしています。人には眼(景色など)・耳(音)・鼻(臭気)・舌(味覚)・肌(触覚)という各器官があって、外界の情報を受容していますが、この情報は人の意識にはダイレクトに届く事はなく、そこにはそれぞれの「識(心の働き)」が関与していると説いています。

 例えば街中の人混みでは、全ての人を私達は認識している訳ではありません。見るとしても意識(心の働き)が求める情報を選び出し、それを見ているのです。そもそも全ての情報を感覚器官は受容はしているかもしれませんが、必要とする以外の情報は心が「破棄」している訳です。

 これは眼識の事なのですが、要は各識別器官が受容した情報が意識へ届くまでに、それぞれ五感(五識)の情報は、それぞれの心の働きで取捨択一をされている事を指しています。そして五識それぞれの心の働きは、情報を取捨択一するだけではなく、もしかしたら加工する事もあるかもしれません。「心如工画師」という華厳経の言葉、また量子力学で言われる「観察する行為」が「実験結果に影響する」という事も、実はそういう事を指しているのではないでしょうか。

 心理学者のカール・グスタフ・ユング氏は、それまで非科学的で理屈に合わないと無視されてきた「ポルターガイスト現象」や「UFO」「心霊現象」などを否定する事なく、「共時性」として心理学の対象範囲として生涯研究をしていましたが、それも卓越した見識なのかもしれません。

 以前に大ヒットした映画「マトリックス」は、人が認識しているのは創り出された仮想現実であるという物語で、人々の脳髄はプラグで接続され、この世界はコンピューターにより創り出された仮想世界だというストーリーでしたが、もしかしたら私達が日々生きているこの世界も、そういう世界なのかもしれません。ただそれを実現しているのは、巨大なスーパーコンピューターのネットワークではなく、全ての人の心を収める広大無辺とも言うべき「心の世界」であるのかもしれませんね。

 だた違うのは、ここで私が話しているのは「アーキテクト」が設計した「スーパーコンピュータ」ではなく、法華経の久遠実成で解き明かされた広大無辺で、時間軸としては元初と言われる根源的な過去から、遠い未来に渡り存在している「心」によって創り出されているという事です。

 そして人々は、そういった「心」が作り出している世界に固執し執着し、日々喜怒哀楽などの感情の大きなうねりに翻弄されているという事があるのかもしれません。だから原始仏教では「執着を捨てよ」「全ては無常であり、実体の無いものなのだ」という事を説く思想であったのかもしれないのです。釈迦とは自身の心の内面を観ずる中で、そういった事に気付いた「覚者」であったのかもしれません。

 これは私の妄想なのかもしれませんが、最近、私はこの「現実世界」とは、そういう仕組みなのかもしれないと、考えたりしているのです。


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