自燈明・法燈明の考察

宿業について

 今日、朝に近所を歩いていたら、近所の小川の川面が凍ってました。やはり寒いんですね。一月も半ばを過ぎましたが、まだまだ冷え込む日が続きそうです。体調管理には十分に気を付けて、日々過ごして行きたいものですね。

 さて、今回は「宿業」という事について、書いてみたいと思います。この宿業とは「宿る業」と書き、人の中に宿る過去の行いの記憶という事と言えるでしょう。ここで言う過去とは、何も今生きてきた時間だけを指すわけではなく、過去世という、いわゆる「前世」からの行いも入ると言われています。
 また仏教では「業因業果」という事で、過去の自分の行いの結果が、今の自分に降りかかるとも考えていて、その行いの因を「業」と呼んでいます。先に記憶という言葉を使いましたが、業というのは行った行為の事で、その事から宿る業という事から「宿業」という単語もあるのでしょう。



 日蓮はこの事について、以下の様に述べています。

「何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い」
(佐渡御書)

 ここでは烏の色が黒いのも、鷺の色が白いのも、先業(宿業)によると述べています。
 この宿業という考え方は仏教独自の考え方かと言うと、そうではなく、これはそもそもバラモン教(ヒンドゥー教)の考え方から来ているのです。よく創価学会では「因果の法則」とか「生命の法則」なんて呼んでいて、如何にも日蓮大聖人仏法の教えという様な事を言いますが、実態としては日本に伝来した仏教にあるこの様な業因業果論の大本は、そもそもインドにあったバラモン教から来ている事を、まずは理解すべきです。

 インドで現在も残っている「カースト制度」の根っこにも、この宿業論があって、そこから派生した制度です。宿業あるものは、生まれ変わるごとに修行を重ねひとつひとつ、その宿業を消していかないといけない、その様に考えられており、現在貧しい人、卑しい人は過去にその様な行いをしてきた報いであると考えているのです。

 では果たして仏教を説いた釈迦は、そんな事を認めていたのでしょうか。

 大乗仏教でも「暦劫修行」という事で、長きに渡り様々な仏のもとで修行に励み、そこで徳を積み業を消し去る事で成仏するという様な思想があります。また人は過去世に盗みをすれば、今世では貧困の家に生まれ、過去世で謗法を行えば、今世では邪見の家に生まれる。これはまさにバラモン教でいう「輪廻転生」の概念そのままではないでしょうか。

 しかし法華経の如来寿量品では、人は元来から仏の心を持ち、その仏からある意味で派生した存在である事を明かしました。そこから考えると、すでに宿業なんていう概念は壊されてしまったと言っても良いでしょう。

 久遠実成の釈尊は、仏の姿として現れもしますが、その仏のもとで修行をする衆生も、仏同様に久遠実成の釈尊だという思想なのですから、そこに「過去世の宿業」とか、業因業果的な思想は既にありません。

「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」
(開目抄上)

 以前にも紹介しましたが、始成正覚(この世界で釈迦は悟りを開いて仏になった)という概念を否定した事で、四教(法華経以外の教え)の成仏という概念は壊され、この従来の成仏という概念を壊すという事は、四教で説く成仏の為の修行や考え方も壊したと、この開目抄で日蓮は述べています。

 つまり法華経の観点から見れば、宿業論なんて言うのは「仮(方便)の教え」程度のものであり、釈迦の本心ではないという事にもなるのではないでしょうか。

 そして日蓮も法華経の根本義である「久遠実成」を理解していた事から、実のところ「宿業論」というのは、本心では既に認めていなかったとみる事が、当然かと思います。しかしそんな事を当時、仏教を篤く信じていた人達に語っても、なかなか理解できない事や、人々を導くために、あえて語っていたという風に理解するのが妥当だと思うのです。

 でも御書を「御金言」なんて呼んで、それこそ背景や大意を理解せず、それぞれが「真実の言葉」なんて鵜呑みに解釈する人達には、この事は理解できないし、否定される内容なのかもしれませんね。

 ちなみに欧米で研究が進んでいる「臨死体験学」の中では、仏教のカルマ(業)というのは、この世界に生まれ、様々な事を経験するために、あえて自分で選択してきたものであると言われています。これは仏教の中にある「願兼於業」という考え方に近しいものです。仏教の「願兼於業」とは、本来、悩みや苦しみの無い菩薩が、この娑婆世界で人々を導き、法を説くために、あえて業を作って生まれてくると言う概念です。

 私は業という概念を認めるにしても、こちらの方がしっくりくるんですけどね。

 思うに「宿業」という言葉は否定されるべき概念だと思います。人はこの宿業とか業という言葉により、ありもしない過去世に縛られ、この人生をも自縄自縛にしてしまいます。そうではなく、自分の人生で巡りあう様々な困難とは、過去世の悪い行いが原因ではなく、自分自身で選択してくた苦しみであると理解した方が、人生、より価値的に生きて行けるのではないでしょうか。

 そんな苦難でも、生きてさえいれば解決できる。そして解決した経験は、自分の人生を飾る宝物になる。

 皆さんはどの様に思いますか?



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