自燈明・法燈明の考察

唱法華題目抄④

 「東京アラート発令」と言っても、それが何を言っているのか、頭のあまり良く無い私には理解できません。先月末に安倍総理が「緊急事態宣言解除」をして、街中には人々が戻って来た様ですが、いまだ感染が終息した訳ではないので、その場所に人々が多く出てくれば、当然、感染者は増加するのは自明の理です。

 感染防止で一番簡単なのは、人同士の接触を減らす事。でもこれは経済活動を大きく減速させる事になり、結果として社会に経済的なダメージを与えてしまいます。経済的にダメージを受けると、社会の中に「経済的な死者」を増加させてしまいます。

 今回の新型コロナウィルスは社会に突き付けているわけです。
 「感染を避け病死を避けるのか、感染を受け入れ経済的死を避けるのか」

 そして今の日本社会は後者を選択した訳です。
 何故なら今の資本主義自由経済の社会では、経済的死の先に、社会的な個人の死が含まれます。しかし病気で死ぬと言っても、新型コロナウィルスに感染しても全ての感染者が死ぬわけではありません。そういう事から経済的な死を避ける為に、リスクを受け入れても経済活動を再開したというのが、日本政府の出した結論なのかもしれませんね。

 まあこういった話はここまでとして、今回は唱法華題目抄にある事について書いてみます。


 この唱法華題目抄では、衆生の「機根」について論じています。法然の念仏宗でも法華経は最上の教えであるとしながら、その一方でこの法華経は機根の低い人に合わない教えである事から、まずは念仏を唱え、それにより西方極楽浄土に転生し、そこで法華経を学んで成仏しましょうという教えでした。そして法華経はこの機根に合わない事から、「捨てよ・閉じよ・閣(さしお)け・抛(なげう)て」とし、「千中無一(千人修行しても一人も得道できない)」としたわけです。



 何故、法然の念仏宗では法華経は末法の人々の機根が合わないと判断したか。それは法華経では大通智勝仏と十六人の王子の説話がありますが、そこで十六人の王子の説法を受けても得道できなかった人達がいて、彼らは機根が浅かったが故に、王子の説法を受けたところで成仏できなかったと解釈、だから機根の低い末代の人達には合わないとしました。

 しかしこの事について、日蓮は解釈したのは、確かに機根は大通結縁の人達も浅かったが、得道できずに六道に堕ちたのは機根が問題ではなく、誹謗正法の故である事をあかします。そして機根の問題ではないと、念仏者の考え方を破折します。

 ここで少し、この「機根」という事について考えてみます。

 日蓮正宗では日蓮の教えは「久遠元初の本仏の教え」として、釈迦仏法と日蓮仏法という事で立て分けして考えています。そしてその根底にあるのが「本巳有善」という事と「本未有善」という考え方があります。

 日蓮正宗の教えでは、本已有善とは「本(もと)已(すで)に善(ぜん)有り」と読み、已に善根を有する機根をいい、釈迦仏法に縁ある人達の事を指します。一方の本未有善とは、「本(もと)未(いま)だ善有らず」で、いまだ善根を有さない機根をいい、末法(釈迦滅後二千年以降)の人達は釈迦に縁しておらず、善根が無いと言うのです。
 そして釈迦在世の本巳有善の人達は釈迦から下種(仏となる種)を受けている人達であるといい、末法の人達は下種を受けていない人達だと言い、だから日蓮仏法を下種するのが大事だと言うのです。この事は賢樹院日寛師が「依義判文抄」に書いています。

 この事について、日蓮の唱法華題目抄では以下の様に述べています。

「然るを天台大師会して云く「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之を強毒す」文文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし、然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらえて後に法華経を説くべし、本と大の善根もなく今も法華経を信ずべからずなにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて逆縁ともなせと会する文なり」

 ここで日蓮は天台大師の解釈を持って、本巳有善と本未有善については以下の様に述べています。

 本巳有善:心に善根があって今生に得道すべき人
 本未有善:今生のうちに、仏法を聞いたとしても、なお誹謗する様な人

 つまり心の中に善根ある人を本巳有善と言い、善根なく仏法に対して不信のある人を本未有善というわけです。そして釈迦在世に於いても本未有善の人達は存在し、例えば法華経方便品で釈迦の説法の場から立ち去る五千人の増上慢がそれにあたる事を、この唱法華題目抄では述べているのです。

 賢樹院日寛師は、この本巳有善と本未有善という事について、釈迦仏法に縁ある人と、縁のない人に立て分け、しかも本未有善の人が末法の時代に生まれてくると解釈していますが、どうしてなんでしょうか?

 また「下種」という話も変な話であり、法華経如来寿量品では「久遠実成」を明かした事で、仏とは全ての人達の心の奥底にあるものだと明かされているのにも関わらず、「仏の種」というものを想定し、その仏の種(仏種とも呼んでますが)を下す事が日蓮仏法だと述べているのです。

 そもそも末法とは、西暦何年からの事ですか?
 どこから生まれた人は釈迦有縁であり、いつから生まれた人は無縁だというのでしょうか?

 これは法華経の思想性から大きく逸脱していると思うのは、私だけでしょうか。

 賢樹院日寛が解釈したこの本巳有善と本未有善の考え方により、法華経の持つ久遠実成という考え方に対する理解も捻じ曲げられたと思いますし、釈迦を「無縁の仏」とする事から、日蓮門下の中で、仏教全般を軽視する思想すら生み出してしまいました。特に創価学会では顕著になり、日蓮の言葉すら学ばない様になっています。

 賢樹院日寛師の解釈は、日蓮が唱法華題目抄で念仏宗を責める事にも相当する様な、大きな間違いだと思うのですが、日蓮正宗や創価学会の信徒たちの中では、それに気付く人達は皆無の様ですね。

 まあ近年、創価学会では賢樹院日寛師の教学から離脱を考えている様ですが、そこにある思惑はかなり歪に見えています。

 唱法華題目抄とは、日蓮の御書の中でも最初の部類に入るものですが、そこに書かれている事すら、気付く事の出来ない「教学」というのは、少し見直すべきではないでしょうか。



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