自燈明・法燈明の考察

業因業果論について

 私は仏教を学ぶ切っ掛けを創価学会で得ました。しかしその創価学会の活動に違和感を覚え、組織の中で自分が今の組織に感じた事を意見として主張したところ、簡単に言えば組織的にはハブされた形になり、そこから創価学会の活動を離れたのです、

 そして活動を離れた後、様々な仏教関連の事を独自に学んだところ、創価学会で教えられた仏教の教義というのは、かなり捻じ曲げられていて、実は創価学会は仏教のラッピングをしていますが、中身は別物であったという結論に達して現在に至ります。

 今回はその創価学会で教えられる「業因業果論」について、少し私が考えた事を書いてみます。お時間のある方はお付き合い下さい。

◆日蓮仏法の「因果論」
 さて、創価学会を始め日蓮正宗、顕正会の教義が果たして日蓮の教えを正確に伝承しているかどうか、そこは私は解りません。何故なら日蓮門下の歴史については、結構捻じ曲げられて日蓮正宗では伝承されていますし、御書と呼ばれる日蓮の遺文集についても、真書と偽書が混在している状態となっています。
 そもそも日蓮正宗が信じている教えは彼らが中興の祖と呼んでいる、江戸時代の貫首の賢樹院日寛師の教義であり、その内容は何度も書きますが、中古天台恵心流の亜流とも言うべき内容となっています。でもこれを指摘したところで日蓮正宗は認める事はありませんし、当然の事、創価学会や顕正会も認める事は無いでしょう。

 別に私は彼らの事を説得はしません。これは信徒である彼ら自身がまずこの事を認識して、自分達で学び直しをする以外に理解する事は出来ません。何故なら「宗教」というのはそういうモノであり、彼らは教えられた事を「信じる」という事には必死になりますが、教えに対して深堀する事は「宗教」にとってはタブーと教えられているからです。

 ただこれから書く事の前提として、彼らが信じる教えをここでは「日蓮仏法」という事で呼称する事にします。

 創価学会の活動家は「因果の法則」と呼び、それを「宇宙の法則」だと呼んでいます。この「因果」とは具体的には日蓮の以下の御書などの記述を根拠にしています。

「般泥洹経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ・或は形状醜陋・衣服足らず・飲食麤疎・財を求むるに利あらず・貧賤の家邪見の家に生れ・或は王難に遭い・及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云云
(開目抄下)

 ここでは過去(前世・過去世)に様々な悪業を作ってしまったから、今世では醜い姿に生まれ、衣食もままならない貧しく賤しい家に生まれ出て、ここでは「王難」と書いていますが、権力からの迫害にあい、様々な苦悩を受けるという事が般泥洹経という経典に書かれている事を引用、日蓮が今世で様々な苦難に遭っているのも、その為だと言っています。

 なるほど人が輪廻転生を繰り返す中、今の人生で様々な苦悩を受けるのは、その過去世(前世)に原因があり、その結果として出ているという事は、人々が何となく納得し易い事でもあります。「過去世の悪業=原因」があって「現世の苦しみ=結果」になると言うのは、恐らく輪廻転生を信じる事を合わせて、人々にとって受け入れやすい事でしょう。

 しかしここで仏教そもそもの事を考えると、果たしてこの「因果の理法」を単純に受け入れて良い物かと、ふと私は考えました。何故なら釈迦時代のバラモン教、現在ではヒンズー教へと変わっていますが、彼らの中で根強く染み付いていて、現在でも問題になっている「カースト制度」は、このバラモン教の「因果の理法」に基づいていました。
 バラモン教では祭祀層(バラモン)や王族(クシャトリア)と言った、所謂ハイカーストとは異なり、下位階層である庶民(バイシャ)や隸民(スードラ)、また不可触賤民(バリア)などは、過去世の宿業があってそういった階層に生まれたので、生々世世、輪廻転生を繰り返す中で婆羅門の教えを奉じ、宿業を潰さなければならないと教えられて来ました。
 そういった宗教に人々は額ずいて生きて来たから、カースト制度は強固な差別制度となっていたのであり、釈迦はその差別制度を破壊したいと考えていた人物です。ではそういった釈迦が果たしてこういった「因果の理法」を説く事を本意にしていたのでしょうか。

 ここで日蓮の開目抄に戻ると、日蓮はこの事については「般泥洹経」からの引用と述べています。「般泥洹経」とは小乗涅槃経典と呼ばれているもので、これは釈迦滅後の紀元前後に記録編纂された経典と言われています。(訳語からみた「佛般泥疸経」と「般泥疸経」の訳経者 著:福島謙應 身延山大学)つまり日蓮の教相判釈からすれば、爾前経の類であり、それが即ち日蓮の本意であると取れないものです。おそらく方便の一つとして、日蓮はこの部分に引用したに過ぎないと私は考えるのです。

◆久遠実成の釈尊からの観点
 日蓮や天台大師等は法華経を大乗経典の最上位の経典と位置付けています。そしてこれこそが「実教(真実の教え)」であり、それ以外の経典は「権教(仮の教え)」だと位置づけています。そしてそこで説かれる重要な事とは「久遠実成の釈尊」であり、それこそ仏の本来あるべき姿だと言うのです。

 では「久遠実成の釈尊」という観点から考えてみた場合、果たして「因果の理法」は成り立つのでしょうか。

 一般的に「因果の理法」で言う内容とは、原因と結果が異なって存在します。例えば業因業果の考え方で言えば、過去世の行いが現世に結果として出て、その報いを受けるという事で、タイムスケールで考えても「異時=異なる時間」で働いているのが解ります。これを「因果異時」とも呼んでいます。
 一方、法華経では「因果俱時」を説いています。そもそも妙法蓮華経の蓮華とは「華=結果」と「種=原因」が共に共存している華と言われていますが、これを一つの側面から言えば「成仏=結果」は「修行=因」と共にあるとも言っています。要は法華経の観点から見たら「因果の理法」でいう原因と結果は常にともにある事であり、異なって存在するものではありません。

 現に「久遠実成の釈尊」という成仏観では、過去世に置いて悩み苦しんだ釈迦は、その過去世の時に既に成仏していた事が明かされているではありませんか。楽法梵̪士や雪山童子、不軽菩薩など、全ての経典で説かれていた過去世の釈迦の姿は、法華経の久遠実成から見たら、全て「久遠実成=長遠の過去世に於ける成仏」の後の姿になっているのです。そればかりか仏教で目指すべき境涯である「成仏」というのは、実は目指すべき目的ではなく、私たちの実在の根源的な存在として説かれています。

 これってわかりますか?

 こうなってくると、所謂、輪廻転生の観点から言われる「因果の理法=業因業果」というのは、実は大乗仏教においては「真実の教え」ではなく、人々を誘引するための「方便の理屈」でしか無いのです。

◆業因業果論は人々を縛る鎖
 こういった事をつらつら考えてみると、所詮、創価学会や日蓮正宗などで述べている「業因業果論」というのは、宇宙の法則とか、そんな大それた教えではなく、人々を自分達の宗教に縛り付け、額づかせるための教えであるとしか思えません。創価学会の選挙活動の場で「今回の法戦(選挙活動)で宿命転換をしよう!」とか「今の苦しみは過去世の宿業なのだから、しっかり闘い転重軽受しよう!」なんてのは、典型的に宗教組織に人々を利用する為の口実です。

 私はもし「宿業論」を取るとしても(私はそんな事を考えていませんが)それは「願兼於業」であり、本来、人はそんな苦しみを背負わなくても良いのかもしれませんが、敢えて願って業という形を持ってこの世界に生まれ出て来たという考え方を取ります。いま目の前にある苦悩とは、かけがえの無い人生の経験を得る為に必要なものだから、あえて背負って生まれて来たと言う考え方です。

 もちろん、この考え方は私独自の考え方であり、これが絶対的な事とは言いません。何故なら、いくら「願兼於業」だと言っても、そこには本人の心の底からの自覚が無い限り、けして受け入れられるものではありませんし、もし他者に対して声高に教えだと言った処で、それは単なる「苦悩の強要」にしかならないからです。

 あくまでもこういった事は、一人ひとりの人生に対する「自覚」の話であり、人は人生の苦悩を、人生を生き抜く中で乗り越え、自分自身で解決していくものだと考えています。

 そして宗教とは、そんな人に寄り添う組織であれば良いだけなのです。

 私はその様に考えています。


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