自燈明・法燈明の考察

心のかたちについて-意識について④

 さて、心のかたちについて臨死体験や宇宙人ユミット、また仏教の中の九識論などの観点から少し見てみました。そこで少し見えた事は、私たちの意識というのは、単純に一人の「自我」という事だけでは片付かないという事です。

 考えてみれば私達は、そもそもこの世界に生まれ出た時からこの「現実世界(仏教でいえば娑婆世界)」で生きていますが、この世界で生きていくのは、今の時代ではせいぜい七十年から八十年程度です。そしてこの世界で知る事ができる事、また理解できる事が全ての様に錯覚していますが、実は自分の心というのは、この瞬間の自分という範囲にとどまる事なく、その奥底では他人とも共有している(共有という表現が正しいかはありますが)土壌があり、その心は時間的にも七十年や八十年という時間枠では収まるもので無いようです。

 先に紹介した彗星探索家の木内鶴彦氏の臨死体験では、とても興味深い内容がありました。それは過去の自分の体験と、臨死体験中の自分の体験がリンクしているという内容です。

「私は小さい時に、姉と一緒に千曲川、昔は川で、プ-ルがなかったから、千曲川という川で水遊びしたんです、夏休み。で、私は姉と、兄貴達は先に行ってて、姉とすぐ上の姉と一緒に歩いて行ったんですよね。川原が段段になっていて、川原に下りてく道があって途中から石、岩がゴロゴロゴロゴロしてる所を渡りづたいしながら、川縁まで行くというような所なんです。そこまで下りて行って、石がゴロゴロしてるあたりに差し掛かった時に、危ない!っていう声が聞こえたんです。で、パッと見たら、今にも大きな石がウワッと何ていうの、前にいる姉がその石の上に、そのつたい歩きする石の上に足を乗せた瞬間、この岩がグッとせり出したんですよ。で、危ない!と同時だったんですね。岩が出て来て、姉の背中ボ-ンと押して、僕、後ろひっくり返ったら石がゴロゴロって間落ちて行ったんです。それでは、怪我しなかったんですが、その石が落ちてったために姉が前へ転んで、その時に落ちてった石のために周りが崩れてズルズルって落ちていったいったんですね、姉が。そしたら、ある程度大きい石がゴロゴロって落ちていって、足の爪の、爪を剥いじゃったんです。でも、まあ、それはそれで助かったんです。だから、僕は助けたと思ったんですね。
そうしたら、下にいた、様子を見ていた兄貴達が兄貴がいきなり駆け上がって来て、何をしたか、一言もきかないうちに、拳骨ですよ。バ-ン。もう、エ-ッって、俺今助けたのに何で俺拳骨貰うわけって話になって。理由を言っても言い訳だって言うんですよね。もうみんなからそういう、ああいう時って悔しいですよね。で、言い訳を言って、危ないという声が聞こえたから今やったんだと言ったら、誰が言うんだと。確かにいないんですよ。だけど気になるじゃないですか。俺は確かに聞いたんですよね。あの時に危ないって言ってくれた人はいったい誰だろうかと。その人を見つけて絶対今でも言ってやろうと気持があったくらい悔しかったんです、その時は。相当もう、22歳迄、悔しさを引き摺ってあるんですね。
その今面白い状態になってるから、思っただけでそこに行く事ができるってことは、もしかすると過去にも行けるんじゃないかと思って、その悔しさからね。で、危ないって言ってくれた人がいたんだという証拠をね、掴みたいと思って、その時代のことを想像したらもういるんですよ。そうするとね、僕の小さい時の自分と姉が歩いているんですよ。で、声したあたり、ここらへんだよなと見てるんだけどいないんですよ。あれ、おかしいな、そろそろ、もうそろそろ、そろそろになってくうちに、小さい時の姉がその石へ足を乗せようとした瞬間に、危ない!って言っちゃったんですよ、私が。そしたら、小さい時の自分がこっちを振り返って、そっから後、同じなんですよ。ってことは、私なんですよね、犯人は。犯人じゃなくて、救い主は私だったんですね。犯人じゃない、救い主です、私は。俺、今迄、犯人と言ってた、これ間違いですね。私が救ったんですけども。これ、エ-ッ、何これ。何か、そこで何かもっと納得できなくなっちゃったんだけども。」

 ちょっと長文ですが、木内鶴彦氏の経験を紹介しました。ここでは「危ない!」という過去の小さい頃の木内氏が聞いた声は、実は臨死体験中の自分自身が発した言葉だと言うのです。こういった体験ついて、もう一つ、木内氏の体験を次に紹介します。

「で、今度はじゃあ未来へ行ってみよう、で、或る未来、適当な未来へ行ったら、それこそ中年の私がですね、腰をついて、高野山みたいな畳の大きな部屋でこういう感じ、これほど大人数じゃないんですが、地球の大切さを訴えているんですよ、私が。中年ですよ。ということは、俺は生き返るかなと。で、その時どんな人がいたかっていうと、顔をズ-ッと見て歩くんですけどね、ヘ-、成る程成る程。そして、この畳の大きな部屋の、僕が座ってるその自分の姿を見ながら、ヘ-、成る程なあなんて思ってね。そして、後ろには大きな掛け軸があるんですね。で、掛け軸はあるんですが、これがまた、その建物の上から見たような見取り図なんです。木が生えててっていうものいっぱい書いてあった。そうだったんですね。そういうの見てまた帰って来たんですね。
ヘ-、俺は未来でこういうことをするのかな。で、もう少し先の未来へ行ったら、もう少し爺さんになってる僕がいるんですね。で、それが何をしてるかというと、ここがちょっと不思議だったんですけども、実はもう殆ど荒れ果てているんです。で、一人で、ああ、えらいことになっちゃったなって言ってるんですね。
ところが、そこに同時にうっすらと同じ時刻で同じ場所なのに、緑の多いところで子供達や孫達に、多分そうだと思うんですよね、星を見せてる自分がいるんですよ。これが、今にも消えそうな情けない状態であるんですよね。ハ-、これどうして同時に存在してるのか良くわかんない。両方とも同じ時間で同じ時刻なんですよ。同じ場所で。まあ、でもこういうこともあるのかあとそれはそれで終わったんですね。」

 これは今度、未来の体験について語っています。
 この2つの木内氏の体験によれば、意識だけの世界では、過去も未来も無いという事になります。過去から未来にわたり存在する心の働きとしての意識があるという事なのかもしれません。
 ただ未来という時間に関して言えば、条件によって同時に複数の未来というのが存在するかの様な内容となっていますが、これについては近年言われている「多元宇宙論」という考え方に近しい様に思えます。この多元宇宙論によれば未来というのは刻刻と変化しながら同時並行の宇宙として存在するという、摩訶不思議な理論です。

 ここは妄想の話に近くなりますが、今の世界には様々な「予言者」というのが居ますが、その予言が外れる事というのはよくある話です。外れるから怪しげに見られますが、もしその予言が「可能性のうちの一つの宇宙」の事であれば、当然はずれる事もあり得るでしょう。(まああまりにも怪しげな人達が多いのも事実ですが。。)

 宇宙人ユミットによれば、この宇宙とは双子の宇宙でありながら、十次元で構成されていると言います。三次元は立体空間を示し、それに時間軸が入ると四次元と言われます。私達が日常、生きている世界というのは四次元なのですが、この時間軸だけは過去から未来へ流れていく事であり、それを私たちが動かす事は出来ません。

 この時間という概念ですが、考えてみれば法華経という経典でも、この時間については私達の「常識的な感覚」という事とは度外視の時間を述べており、空間についても同様に私たちの常識を超えた空間を説いています。

 法華経を説法したのは霊鷲山の八年間とされています。しかしその法華経の中では「小劫」という時間枠が多用されています。この小劫とは「人間の寿命が8万歳から100年ごとに1歳を減じて10歳になるまでの間、または10歳から100年ごとに1歳を増して8万歳になるまでの間。また、両者を合わせて一小劫ともする。」というもので、これだけ見ても私達の想像を遥かに超える長遠の時間です。また三世十方というのも「過去・現在・未来」のそれぞれの空間を指すものです。

 この様な時間の世界が説かれているのは法華経であり、これは私達の心の世界の時間軸の話をしているのかもしれません。

 少しつらつらと書きましたが、私たちの心、またその心の中にある「意識」というのは、実は私達が自覚している以上に時間的にも空間的にも広がっているものであり、そこを考えるならば、けして卑下したりするものでは無いし、他者と自分についても、深いところで連動していて共通の土壌の上にあるものの様です。そうであれば、そこに自分と他者の「差別」という事も存在しないし、差別とは一時的な錯覚の様なものである。

 その様に思えてならないのです。

(続く)


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