自燈明・法燈明の考察

法華経を信じると語らう人が理解すべき事

 さて、この週末は南関東方面では線状降水帯の影響で集中豪雨の状態でした。その影響もあってでしょう、熱海の伊豆山地区では大規模な土砂崩れが発生し、二十人の人達が行方不明となってしまいました。

 この様な状況にも関わらず、自公政権の菅内閣は「観客がいる事がコロナに勝利した事」なんて言い出して、間もなく開催する東京オリンピックに観客を動員する事を目指していると言います。この状況は日蓮が言う「頭破作七分」という状況と言っても良いのではないでしょうか。



 そもそも「頭破作七分」というのは、精神的に支離滅裂な状況を指す言葉であり、けして昔の映画の「スキャナーズ」の様に頭がはじけ飛ぶ事を指している訳ではありません。

 この事は法華経の陀羅尼品第二十六にある以下の言葉から来ています。

「若し我が呪に順ぜずして 説法者を悩乱せば
 頭破れて七分に作ること 阿梨樹の枝の如くならん」

 これは十羅刹女の誓いの部分ですが、この十羅刹女とは鬼子母神の十人の鬼の子供だちです。彼女達は呪文を唱え、その呪文に反して法華経を説く人を悩ませるのであれば、その人は悩乱するであろうと誓っています。

 ではそもそも法華経を説く人とは、どういう人なのでしょうか?

 それは「経典」としての妙法蓮華経を読む人でしょうか?
 それとも日蓮の言う「御題目」を唱える人でしょうか?
 それとも日蓮の文字曼荼羅を信じる人でしょうか?

 私は違うと思うんですよね。
 法華経とは、要を言えば人の心の姿や在りようを「二乗作仏」「久遠実成」で表した経典であり、それはけして何やらマヤカシの様な世界を説いている訳ではないと私は理解しています。法華経が説く事とは、「人の心とは仏から派生している」「同じ仏という精神的な土壌から見たら、私とか貴方という、一人ひとりが分断した存在ではない」「仏から派生した心であれば、それは仏と同質な存在である」という事だと、私は信じています。

 つまり人の心とは「自他彼此」という分断された存在でもなく、この世界を造り出している根源と同質な存在であるという事ですね。またこういった意義を様々な形で社会の中に語り、自らその事を信じよう、そして理解しようという人の事を、法華経を説く者と言っても良いでしょう。

 そんな人達を軽んじて無視し、悩ませる様な社会的な動きを取る人、またそれに同調する人が居たのであれば、その人達は正常な思考が出来なくなるようになると、命を食らう鬼である鬼子母神の十人の娘たち(十羅刹女)が誓っている箇所が、先の陀羅尼品の言葉だと思います。

 なにも特定の宗教組織に反する行動を取るとか、その特定宗教の教えを信じない人という事ではなく、ある意味で法華経の説く「人の心の姿」を無視する人達の精神的な破たんについて、この部分では述べているのでは無いかと、私は理解をしています。

 こっちの方が、道理にまだ合うとは思いませんか?
 何も法華経とは、人の心から離れてぶっ飛んだ事を説いた経典では無いと思うんですけどね。

 まあ幾度も言いますが、法華経の成立は釈迦滅後、約五百年以降と言われており、その成立の過程を考えてみると、それは大乗仏教運動の中の、今風に言えば「スピリチュアル運動」の成果だと私は理解していますので、原始仏教の形式に囚われた教えでは無いと、私は考えています。

 さて、今の社会はこの「人の心の姿」に対して、理解を寄せ、寄り添おうとしているでしょうか?

 日本で見れば東京オリンピックに向けた政治の姿勢。また新型コロナの「蔓延防止対策」とやらへの取り組み。またワクチン接種への行動。そして世界的に目を広げて見ても、この「人の心の姿」に対しては軽視した姿勢ばかりが見えてしまい、何一つ寄り添おう、理解しようなんて姿勢が見えません。これでは日本のみならず、人類社会自体が「頭破作七分」であっても、ある意味でオカシクないと思います。

 自称、法華経を正しく信仰している団体というのであれば、この事を真摯に考えると共に、自分達が組織だって行っている行動についても、是非振り返りをして欲しいものですね。


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