自燈明・法燈明の考察

いまこそ冷静な議論を

 近所の桜が咲き始めました。
 桜の木とは、人間社会の思惑とは関係なく、季節になると芽吹き花をさかせ、そして散っていきます。いまの人類社会はロシアのウクライナ侵攻、また足掛け三年以上にもなる新型コロナ過で混乱しています。こんな時代だからこそ、冷静に考えなければならない事が多くあると私は思うのです。



 いまの日本国内の世論を見ると、このウクライナ侵攻を切っ掛けとして今までに無かった議論が行われています。昨日、安倍元総理大臣は産経新聞の単独インタビューに答え、以下の事が記事となっていました。


  ここで安倍氏は「ロシアのウクライナ侵攻でそもそも交渉できる環境ではなくなった。責任は日本ではなくロシアにある」と述べ、「日本の隣国であるロシアは強大な軍事大国だ。北方領土問題を解決し、北方四島の元島民の悲願でもある平和条約を締結する政府方針は今後も変わらないだろう」と語っていました。

 ロシアは19世紀末から常に軍事大国であり、開国して間もない日本はこのロシアの脅威に対抗した事で、日露戦争となりました。そして大国のロシアに対してアジアの小国である日本が、必死の戦いにより「勝利の形」を作り上げ、このロシアの南侵を止めたのです。

 安倍氏は先の記事で「(ロシアと)交渉できる環境はなくなった」と言いますが、以前にプーチン大統領が訪日の際、北方領土返還の件で「北方四島を返還したとして、日本はそこに米軍基地を作らないと約束出来るのか」と問われた事に対して、安倍(当時)総理は「約束出来ない」と答えた事から、そこで北方領土交渉がとん挫したのは有名な話です。

 いま日本が締結している「日米安保条約」では、日本国内のどこでもアメリカの望む場所に基地を建設する事を認めています。そして何度も言いますが、日本の首都圏上空はアメリカ軍の管制下にありますが、要は日本という国は首都上空の制空権をアメリカに渡してしまっているのです。

 そんな国(自主独立国家とは言えませんが)の宰相が、「自分の国は自国の努力で守ることが基本だ」「国の防衛に努力しない国のために一緒に戦う国はない」なんて言っている事自体に、私は「政治家としてはどうなのか?」と、大きな違和感を感じています。

 私は日本は太平洋戦争によって、自主独立の為に大事な観点である「国家」という考え方と、「国土を防衛する」という観点が、すっかり抜き取られてしまったと考えています。特に苛烈を究めた太平洋戦争により国民の多くが戦争により亡くなり、その厭戦気分から「二度と戦争を起こしてはならない」と感じた事は解りますが、本来は戦争で負けた後、太平洋戦争で何が問題であったのか、何故戦争が起こり、この戦争では何が良くて何が悪かったのか。こういう自分達の国の行動や、その歴史的な総括を日本人自らが取り組むべきところ、連合国により「東京裁判」が行われ、そこで一方的に戦犯者を決められた指導者たちが処刑されました。
 これはある意味で国民の知らない場所で、アメリカ中心の連合国により一方的な戦争総括が行われてしまったと言っても良いでしょう。日本人は自らの行いを総括するタイミングを失ってしまいました。
 またその後、制定された日本国憲法にしても、当時は国民で憲法が議論できる状況で無かった事もあり、主にマッカーサー連合国最高司令官が主導して制定されたものを受け入れて来たのです。

 いまウクライナ紛争を切っ掛けとして、日本国内では「憲法に自衛隊を明記すべきだ」という話や、安倍元総理大臣に至っては「アメリカとの間で核兵器シェアリングをすべきだ」という事を言っています。しかし長年に渡り、自分達の国の自主独立を理解していない国民が、果たして自国軍を持ち、そこで核兵器を持つと言った処で、何が出来ると言うのでしょうか。

 もしその様な事を考えるのであれば、まずはアメリカと日本との「国としての関係」を見直す必要も当然あるべき事ではないのか、またそこでアメリカの軍の傘の下から日本は独立すべき事も検討すべき事だと思うのですが、今の日本の国民は、そういう事を理解できる段階でも無いと私は思うのです。

 本来であれば、こういった事は政治の世界で議論すべき事柄だと思うのですが、今の自民党の政治家を見ても、立憲民主党の政治家を見ても、そんな議論を真正面から喚起する事が出来る政治家は存在しません。

 自民党にしても、言葉は勇まし気な事を言う政治家は大勢います。しかし日本が何故、太平洋戦争で国が亡ぶ様な戦争をしてしまったのか、そこに対して明確なスタンスを語れる政治家を、私は見た事が無いのです。過去に暗い政治家が、これから混沌の度を増す世界の中で、果たして日本という国のかじ取りを行えるのでしょうか?

 安倍元総理もそうですが、せいぜい、アメリカの顔色を窺いうながら、アメリカの戦略の上で踊る事が精一杯という政治家ばかりにしか見えないのです。

 また立憲民主党の政治家にしても、イデオロギーに凝り固まり、そこに「日本の国益」をしっかりと議論できる政治家が居ないのではありませんか?

 それ以外の公明党や共産党にしても、近代史に歴史観もなければ、近視眼的な観点でのみ語るだけしかできず、これでは話にならないと思うのです。れいわ新選組の山本代表は、確かに良き事は語りますが、彼の周囲にはその彼の意見を元に政治を動かせるブレーンがおらず、あれでは国を動かす事が出来ないでしょう。

 思うに政治とは「国民の意識」の上で成り立つ事であり、この様な政治状況とは、私を含めた国民の政治意識の産物である事から、やはり日本人が自分達の国の形を理解する事、また国際社会の中の日本という観点を持てる人が増えない限り、こういった問題の解決は難しいのではないでしょうか。

 その様な事を考えてみると、行きつく処は「教育」という事になります。そこで次世代の日本人に対して、近代史の教育にまずは取り組み、この世界を見れる観点を持てる国民を育てていく事しかないと思いますが、肝心要の教育についても、どうやら日本国内では既に崩壊している感じもしていますし、そもそも人類社会の状況は、そういう時間を日本に与えてくれそうにもありません。

 この混沌度を増しつつある世界の中で、日本国内では様々な議論が巻き起こってきています。
 そんな状況でも多くの国民は、やはり目先の事ばかりに目を取られ、大事な事に関して関心を持つ事すら出来ない状況にあるとも思えます。多くの人が「何となく」という感覚でウクライナで起きている状況を見ているのではないでしょうか。また一部でその問題に気付き始めた人達の中には、今の政治家の一部にある「蛮勇」ともとれる言葉にシンパシーを感じている様です。しかし今の政治家の「蛮勇」は単なる蛮勇に過ぎず、けして今の日本の為にはならないのではないでしょうか。

 こういう時代だからこそ、冷静な目で世界を見つめる事、そして冷静に議論する様になってほしいものと念願せざるを得ない状況だと、私は感じています。



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