http://www.reuters.com/article/worldNews/idUST20014220070628?pageNumber=3
政界引退後もアジアとの良好な関係を目指した財政の専門家で外交的ハト派。その政治経歴は第二次世界大戦から90年代の「失われた10年」にまで及ぶ。
最初に蔵相になったのは86年から88年で、このときの低金利がバブルを招いた。
アジアの女性を従軍慰安婦に強制したことへの旧日本軍の関与を認めた最初の首相でもある。宮澤をブッシュ(父)大統領の来日の際、膝で大統領を抱えた人物として記憶している人もいよう。しかし宮澤の任期は1993年に与党の中から不信任案に同調する勢力が出たことで途切れ、その結果50年間与党だった自民党は一時野党に転落した。
5年後の金融危機に際して78歳の宮澤は異例ながら2度目の蔵相となった。このときは数週間内に宮澤は米国へ飛び、国内では与野党を含めた国会議員とやりあった。
宮澤はサンフランシスコ講和会議に同行し、1953年に国会議員になって後、数々の有力閣僚を歴任した。流暢な英語によって米国にも知己が多く、夫人との出会いも米国留学時。娘は米国人外交官と結婚している。
しかし宮澤が政策上の対米交渉で尻込みすることはなかった。東京経済大学教授のAndrew Horvatは「宮澤は米国と実に深い関係があったが、決しておべっか使いではなかった」という。宮澤はアジア諸国に対して規制が多いと米国主導のIMF(国際通貨基金)を批判したことがある。
宮澤主導で成功したもののひとつとして戦後初めて自衛隊の海外派遣を可能にした92年のPKO協力法がある。しかし宮澤は終始自民党内の改憲派の試みに対し憂慮していた。
宮澤は婉曲なものいいをしたことがめったにない。宮澤が人々を驚かしたのは1984年にナイフを持った暴漢とホテルで格闘して勝ったことだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以上抄訳)
IHTも同記事だったため転載した。内容としては乏しいが、これが米国の一般的な見方だろう。日本のマスコミの記事の中では日経新聞の田勢康弘のコラム「激動の時代と合わなかった知の宰相」(29日朝刊)が面白かった。
宮澤は博覧強記で毒舌であった(飛ぶ鳥落とす勢いの金丸信のことを酔った勢いで「釜無川に沈めてしまえ」と放言したことは有名)だったが、『プレイボーイ』誌の連載取材に応じたり、最近もTVの白洲次郎特集で明石家さんまと対談したりと柔軟な精神もひとつの魅力だったと思う。
私が国会議員政策担当秘書の2次試験(面接。衆参両院事務局の幹部が行う)で「敬意を持っている政治家は誰か」との質問に対し、「現在の政治家では」と語ったときに引き合いに出したのが当時まだ健在だった後藤田正晴と宮澤喜一だった。
今となってはこのような「模範解答」をするのに適切な政治家がいないことがさびしい限りだ。
政界引退後もアジアとの良好な関係を目指した財政の専門家で外交的ハト派。その政治経歴は第二次世界大戦から90年代の「失われた10年」にまで及ぶ。
最初に蔵相になったのは86年から88年で、このときの低金利がバブルを招いた。
アジアの女性を従軍慰安婦に強制したことへの旧日本軍の関与を認めた最初の首相でもある。宮澤をブッシュ(父)大統領の来日の際、膝で大統領を抱えた人物として記憶している人もいよう。しかし宮澤の任期は1993年に与党の中から不信任案に同調する勢力が出たことで途切れ、その結果50年間与党だった自民党は一時野党に転落した。
5年後の金融危機に際して78歳の宮澤は異例ながら2度目の蔵相となった。このときは数週間内に宮澤は米国へ飛び、国内では与野党を含めた国会議員とやりあった。
宮澤はサンフランシスコ講和会議に同行し、1953年に国会議員になって後、数々の有力閣僚を歴任した。流暢な英語によって米国にも知己が多く、夫人との出会いも米国留学時。娘は米国人外交官と結婚している。
しかし宮澤が政策上の対米交渉で尻込みすることはなかった。東京経済大学教授のAndrew Horvatは「宮澤は米国と実に深い関係があったが、決しておべっか使いではなかった」という。宮澤はアジア諸国に対して規制が多いと米国主導のIMF(国際通貨基金)を批判したことがある。
宮澤主導で成功したもののひとつとして戦後初めて自衛隊の海外派遣を可能にした92年のPKO協力法がある。しかし宮澤は終始自民党内の改憲派の試みに対し憂慮していた。
宮澤は婉曲なものいいをしたことがめったにない。宮澤が人々を驚かしたのは1984年にナイフを持った暴漢とホテルで格闘して勝ったことだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以上抄訳)
IHTも同記事だったため転載した。内容としては乏しいが、これが米国の一般的な見方だろう。日本のマスコミの記事の中では日経新聞の田勢康弘のコラム「激動の時代と合わなかった知の宰相」(29日朝刊)が面白かった。
宮澤は博覧強記で毒舌であった(飛ぶ鳥落とす勢いの金丸信のことを酔った勢いで「釜無川に沈めてしまえ」と放言したことは有名)だったが、『プレイボーイ』誌の連載取材に応じたり、最近もTVの白洲次郎特集で明石家さんまと対談したりと柔軟な精神もひとつの魅力だったと思う。
私が国会議員政策担当秘書の2次試験(面接。衆参両院事務局の幹部が行う)で「敬意を持っている政治家は誰か」との質問に対し、「現在の政治家では」と語ったときに引き合いに出したのが当時まだ健在だった後藤田正晴と宮澤喜一だった。
今となってはこのような「模範解答」をするのに適切な政治家がいないことがさびしい限りだ。