新古今和歌集の部屋

天明の大火

こんな話がある。

1200年の歴史を誇る京都の長い歴史の中で、都を破壊し尽くした大火と言えば、応仁の乱と天明八年一月三十日に発生した別名団栗焼の大火である。
応仁の乱は、あそこで戦が始まればあの神社が焼かれ、こっちの街道を上洛する軍団との陣取りでここの神社が焼かれと10年掛けて焼き付くしたが、天明の大火は僅か1日で京都の大半を焼き付くした。

翁草 洛陽(天明)大火2
翁草 洛陽(天明)大火3

四条の鴨川東岸の団栗橋の辻の空き家で三十日の夜明け前に発生した火事は、強い春風に煽られ瞬く間に燃え広がり、1時間後には南東の風により西岸に飛び火し、北は仏光寺、因幡堂、六角堂まで、西は堀川を越え壬生野まで燃え広がって行った。
15時には、みぞれ混じりの横殴りの雨が降り、それでも火の勢いは止まず、西本願寺の門、西陣を焼き尽くし、北は丸太町通を越え、いよいよ皇居も危うくなった事から、光格天皇、後桜町上皇、恭礼門院を始め、大臣、公卿らも鴨川東岸まで行幸して避難した。
その後も御所・公家屋敷を焼き尽くし、真夜中になって、北は鞍馬口、南は東本願寺、1時を過ぎて下御霊神社まで燃え広がったが、2時頃になって雨が止み、木屋町三条で焼け止まった。
夜明け頃に、今度は鴨川の東岸に飛び火し、頂妙寺及東方寺院の際、南は壇王法輪の50m北まで燃えて、風が少し弱くなり焼け止まった。

ここで、不思議な事が2つある。
① 風は途中強烈な南風となったが、猛火は風上の南へ燃え広がって行き、東本願寺は灰燼に帰した。
② 猛烈な雨が降ると火の勢いは弱まる筈なのに、その後も延焼は続いた。事実、西本願寺は門を焼失したが、風に煽られた銀杏が火を消した所謂水吹き銀杏の伝説が生まれ、御影堂、阿弥陀堂の大伽藍は燃えなかった。


さて、焼け残った所を京都市資料館所蔵のかわら版で調べて見ると、驚くべき事実が判明する。
焼け残った場所に、
① 火元から600mに有る八坂神社は、当所東南の風とはいえ無傷
② 千本通で火が止まった為に600m西の北野天満宮は無傷
③ 紫野の今宮御旅所までは燃えたが、大徳寺手前で火は止まり、今宮神社は無事
④ 相国寺で火が止まった為に、東西両側は焼亡したが、上御霊神社は無傷
⑤ 洛内が燃え尽きた頃、再度鴨川を越え、新地を焼き付くしたが、岡崎神社、粟田神社は無傷
つまり、京都内に配置された厄神は、寺町通に移転した下御霊神社を除き、残っている。
しかも、下御霊神社も蔵が燃えず、神が座した中の神輿は無事であった。

これは、この火事の性格が、「洛内に有る不浄を全て焼き払った神罰」と言っているようなものである。

あなたは、この話を信じますか?
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