新古今和歌集の部屋

長明発心集 第一 多武峯僧賀上人、遁世往生の事

 

多武峯僧賀上人遁世往生事

僧賀上人は經平の宰相の子慈惠僧正の弟子也。

此人少しに碩徳人に勝たりければ行末には无止人な

らむと普くほめ相たりけり。然ども心の内には深く世を

厭て名利にほだされず極樂に生れむと事をのみぞ人し

れず願はれける。思ばかり道心の發らぬ事をのみぞ歎て、

根本中堂二千夜参て夜ごとに千返の礼をして道心

を祈申けり。始は礼の度ごとに聊も音立る事も無

りけるが、六七百夜になりては、付給へ/\と忍やかに云て

礼しければ、聞人此僧は何事を祈り天狗付給へと

云かなんど且はあやしみ且は笑けり。終方になりて道心

付給へどさだかに聞へける時、哀なりなんと云ける。斯し

つゝ千夜満て後さるべきにやありけん世を厭心いとゞ

深く成にければ争身をいたづあらになさんと次を待ほどに、

有時内論義と云事ありけり。定る事にて論義すべき

ほどのをはりぬれば饗を庭になげすつれば、諸の乞食方々に

集りてあらそひ取て食習なるを、此宰相禅師俄に

大衆の中よりはしり出て此を取てくふ。見る人此禅師

は物にくるふかとのゝしりさはぐを聞て、我は物にくるはずかく

いはるゝ大衆達こそ物にくるはるめれと云て更に驚かす

あさましと云あふ程に、此を次として籠居しにけり。後には

大和國たふの峯と云所に居て思ばかり勤行て年

を贈ける。其後貴き聞ありて、時の后の宮の戒師に

召ければ、憖に参て南殿のかうらんのきわによりてさま/"\に

見苦き事共を云かけて空く出ぬ。又佛供養せんと云

人のもとへ行間に、説法すべき樣なんと道すがら案ずとて、

名利を思にこそ魔縁便を得てげりとて、行つくや遅き

おこはかとなき事をとがめて施主といさかひて供養をも

とげずして歸りぬ。此等の有樣は人にうとまれて再加樣

の事を云かけられじとなるべし。又師僧正悦申し給ける

時、せんくうの数に入て、からざけと云物を太刀にはきて、

骨限なる女牛のあさましげなるに乗てやかた口仕まつ

らむとて、をもしろく折まはりければ、見物のあやしみ驚ぬはな

かりけり。かくて名聞こそくるしかりけれ。かたいのみぞたの

しかりとうたひて打離にける。僧正も耳には悲き哉我

師悪道に入なむとすと聞へければ、車の内にて此も利生の

為なりとなむ答給ひける。此聖人命終らんとしける時先

碁盤を取寄て獨碁を打。次に障泥を乞て是を

かづきて小蝶と云舞のまねをす。弟子共あやしむで問

ければ、いとけなかりし時此二事を人にいさめられて

思なから空くやみにしが心にかゝりたればs、若生死の執と

なる事もぞ有と思てとこそ云れけれ。既聖衆の向を

見て悦て哥をよむ。

みづはさす八十あまりの老の浪くらげの骨にあひにける哉

と讀てをわりにけり。此人のふるまい世の末には物くるひ

とも云つべけれども、境界離れんたんめの思ばかりなれば其に

付ても有がたきためしに云置けり。人にまじはる習ひ髙き

随ひ下れるを哀むに付ても、身は他人の物となり。心は

恩愛の為につかはる、是此世の苦のみに非ず。出離の大

なるさわりなり。境界を離れんより外にはいかにしてか乱

やすき心をしづめむ。

 

 

※僧賀上人 増賀、蔵賀とも書く。橘恒平の子。延暦寺で良源の弟子となる。
 
※經平の宰相 橘恒平。四位参議。年齢から橘恒平が僧賀の父である事は無い。
 
※慈惠僧正 良源。平安時代の天台宗の僧。諡号は慈恵。一般には通称の慈恵大師、元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。第18代天台座主あり、比叡山延暦寺の中興の祖として知られる。また、中世以降は民間において「厄除け大師」など独特の信仰を集め今日に至る。
 
内論議 朝廷の年中行事の一。正月14日の御斎会の結願の日、高僧を召して、天皇の御前で最勝王経などの経文や経書の意義を論争させたこと。また、8月の釈奠の翌日にも博士による論議が行われた。ないろんぎ。
 
※時の后の宮 円融天皇女御藤原尊子又は詮子。
 
※障泥 馬具で泥よけのために下鞍につけ、馬の脇腹を蔽う皮。蝶の羽に似ている。
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