パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
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玉城康四郎、最晩年、仏乗を説く

2010-02-20 23:48:18 | 仏教
玉城康四郎『仏道探究』より、以下、引用する。

実際、われわれ凡愚のものは、ともかく死んでみなければ、死後の世界のあるのかないのか、皆目わかりません。死の不安は最後までつきまとってはなれません。この不安を除くものこそ、「生前にもブラフマンと一つとなり、死後にもブラフマンと一つになる」というあのブッダのの言葉です。
なぜか。ブッダの禅定を学びつづけていくうちに、入定ごとに顕わになってくるのは果てしなき宇宙そのものです。すなわち、ブラフマンです。いいかえれば如来の世界です。まったく形を離れきった、いいかえれば、この世を根絶した、生きているままでもっとも深く安らえる世界、つまり如来の国土、いいかえれば浄土です。死後にはそこに生まれること必定です。
これは入定時のことですが、出定して日常にあるときも、心が静まってくると自然に如来が憶念されます。すでに如来が私の体に通徹しているという事実に出会うと、おのずから浄土に安らいます。…(略)


…広大無辺の慈悲喜捨の四無量心が十方世界に満ちわたると説いてある。これはもはや小・大乗を包んだ、後にいうところの一仏乗と同じであることは明らかです。しかも、ブッダだけでなく、ブッダの説法とおりに行じていけば誰でもそうなるといっておられます。

では、実際にそういう弟子がいたのでしょうか。その一人として舎利弗(…略…)を挙げることができるでしょう。…(後略)

「舎利弗は世尊自身の子であり、ダンマより生まれ、ダンマより現われ、ダンマの相続者である。」
その一節は、その際述べましたように、初・中、終の三地の終地であり、大乗であることはいうまでもありません。…(後略)


以上、付け加えて説明する必要がないほど明らかであろう。
終地の実現がダンマの相続者であり、一仏乗であるということが。
いうまでもないが、若干の補足を加えるならば、次のようになる。
これはこれが完成というのではなく、死後にも、浄土に生まれ、仏乗に乗って、仏道が進められていく。あるいは、普賢行によって仏乗の乗り、仏道が進められていく。

私は、この玉城が指摘する終地に達した舎利弗が、法華経に登場する舎利弗とどういう関係にあるのか、検討した。玉城は他の著書のなかで、既に、このつながりを指摘しており、法華経の舎利弗へとストレートにつながっているという趣旨のことを述べている。これに注目して、私も考察してみたのである。それをこのブログで既に紹介した。関心のある方はご覧下さい。

そのことを端的に言えば、終地の舎利弗は自我肥大の状態にあり、影を認めることができていない。竜女を見下し、竜女が法華経を相続する高い境地にいる菩薩であることをまったく認識することができていない。
そのような舎利弗は法華経の釈尊の指導によって、正しく発心し、誓願を起こす。
終地を実現し、法華経を聞き、適切に発心した舎利弗は、無限に渡る時間をかけて、自身の仏国土を建設へと向かうのである。この完成が報身仏となることである。

仏乗に基づくことはこのようにシンプルである。
しかし、法華経は自身のことを経文で、難信難解の経典であるといっている。
さて、現代においても、どうなのか。法華経のいうとおりなのか。
いまこそ、法華経の原点に立ち返り、そこから出発して、さらに探究を深めていくことが必要なのではないかと思う。

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