パンの仏道日記

仏道の思いを自由気ままに、勝手に記す。
時事問題を考える。市民運動を推進する。

もやもやした気持ちで書いてみた。

2010-02-15 02:11:00 | 仏教
さて、政治がまだまだ大変なことになっているので、何とかして、この国を根本から変えて、良くしたいという一市民としての思いが私には強くあって、気が休まらない日々が続いている。もう疲れてしまう。だが、何とかしないといけない。現政権による政治改革を断行し、成功させなければならない。絶対に、過去の政治体制に戻ってしまったら、この国は闇となり、完全に滅びる。その危機意識が国民にないことは本当にびっくりする。どうしてなのか。政治の茶の間化、劇場化で喜んでいた国民は一体なんだろうか。数十年前から、年金の制度がだめになることはわかっていたのに、何もしなかった国民とは一体なのなのか。
人任せ、政治家に任せ、何とかしてくれるという幻想に支配され、ここまできてしまったのか。

おっと、いけない。仏道のことを書かなくては。

といっても、特別、書くこともない。
既に、書いたもので、自分のいいたことはだいたい言ってしまったと感じる。

最近のエントリーでも、言っていることは同じことの繰り返しである。

発心し、仏乗に基づいて、仏道を実践してください。
そして、仏道の基本である終地を事実、実現してください。仏乗に乗ってください。と。

今日、たまたま手に取った本をぱっと開いたところ、常不軽菩薩のことが述べられているページであった。

私のしていることも、常不軽菩薩のしていることと同じようにシンプルである。
ただ、ひたすら、仏乗に乗るように、他の方に呼びかけているだけであるから。
ただ、私の場合、軽蔑はしないとか、軽んじないとか、常不軽菩薩のように偉いことはできない。
まったくアホなことを言っている奴には、あいつは絶対にアホだ。救いようのないアホだ。と思う。勝手にしろ。と思ってしまう。

仏教の偉い先生や偉い僧侶の方の言っていることでも、仏道の根本を無視していれば、こんなアホな奴はいない。仏教徒をやめたらいいのに、と思う。

もっと救いようのないのは、悟りを得たと自慢する奴らだ。
こんな奴らはクソだ。

あと、悟りの体験をわけのわかない、「気づき」などといっているのは、バカとしかいいようがない。大バカ者だ。
最近、その種の本が売れているらしい。世の中、バカ丸出しである。

玉城仏教を継承しようとする人まで、「気づき」だか、「ヴィパッサナー」とか、インチキなものが本物だと言う始末。目も当てられない。世も末だ。

こんなことをいう奴は玉城仏教を継ぐなんていうじゃねえぞ!と一喝してやりたい。
ま、おそらく、そのバカさ加減は直らないだろうな。きっと。これは頭の良し悪しの問題じゃない。そのような人たちははやく、この仏教の世界から消えたほうがみんなのため。ひとり遠いところにいって、一生坐禅していなさい。

そんな人たちの対し、私は口汚く罵ってやりましたが、そのような私はとても、常不軽菩薩のようなマネはできない。

常不軽菩薩は本当にすばらしい。彼は愚直に思えるが、そればかりでなく、トリックスターの面があり、機知を具えている。そこがまたすばらしい。
仏道者の生きていくためのたくましさを感じる。
日蓮が常不軽菩薩の実践を見習ったというのは、わかる気がする。

私がそれをすばらしいと思うが、それを自分にも課すという気にはならない。あまりに立派すぎる。できれば、そんな立派な人間にはならたいが、まあ、無理だ(笑)。

われわれはのようなごく凡人でも、玉城康四郎は終地を実現できるといっている。
特別なことではない。
【如来と二人連れ】となって生きる。これが終地の仏道であり、仏道の基本・根本である。
その人のままに、如来とともに、仏道を歩んでいく。仏道というと大袈裟に感じてしまうが、そのような大袈裟なものではなく、【如来とともにいきること】が仏道なのだ。
その人のままにいろいろな生き方がある。如来とともにそれを生きる。とてもシンプルなことである。
それを実現しないうちに、勝手な願望によって、終地を神聖化、神秘化してしまう人たちがいる。こんな情けない、愚かなことがあるだろうか。
同じく愚かなことは、ダンマの顕現を得ていながら、自我肥大に気づかず、自惚れている人たちである。このような人たちは、自分を権威化する。本当にバカげたことだ。

親鸞はひとりの弟子もいないといったそうだが、さすがに立派だ。
如来のみが主であり、先生であり、親である。

ダンマの顕現の体験をたしものとしていないものとの差などほとんどない。
ただ、それを知っているかの違いでしかない。どうして、それを権威化するのか。本当に愚かなことである。
本当に指導者になりたいのであれば、そんな程度の体験をして威張っている暇があったら、指導するとは一体どういうことか真剣に探究していくことをすべきではないか。そうではないか。
それをなしに、ダンマの顕現を得たというだけで、先生面する人の気が知れない。
ダンマの顕現の体験は、単なる体験にすぎない。どうして、そんな程度のことを自慢するのか。
それを体験する人が少ないというだけで、それを過大に評価するなど、バカな事とは思わないのだろうか。

ただひたすら、如来を深めていくことで十分ではないか。これ以上にないほどに窮めていけばいいではないか。徹底して実現したとしても、それは終地であるにすぎない。仏道の基本の実現でしかない。
その人はその人のままであることが現実なのだ。ブッダになれるなど、わけのわからないことなど考えないでほしい。

終地は悟りの極みなどと考えるべきではない。
そんな考えをするから、その実態を無視してしまう。
魔、自我肥大と無縁だという大バカなことを平気で言う。そんな愚かな考えが世に蔓延している。実態を知らないか、自身がその魔に支配されているのだ。
どんなに立派な人格者であろうと、関係しない。謙虚に振舞っていても、その陥穽に陥ってしまっていれば、やはり、それは魔道である。
如来を徹底すればいい。それだけ。
ひたすら、それを深めていけばいい。これ以上にないほど。
しっかり身につけば、日常においても、如来とともにいることができるようになる。
もちろん、自我が活発に働いていれば、如来はお留守の状態になってしまうが、だからといって、如来の実感が失われるわけではない。

もし、職業的な仏道者として生きようする人であるならば、必ず、終地を実現し、日常においても、心静かに、如来とともに生きていくことが必要ではないのか。それが本来のすべきことではないか。わけのわからない中観、唯識とかなんか勉強して、何の役に立つのか。私にはわからなし、興味もない。それをしっかり学んだ人たちが仏道とは離れた、まったく的外れなことを言っていることに遭遇することがほとんどである。どうしてそうなのか。
そう、玉城康四郎のいうように、本来の学である、仏道の実践が抜け落ちいてるからだろう。

これを反省し、新たに学びが開始されるべきと玉城は言ったが、それを実践する人たちはいるのだろうか。それを実践していると自称、他称する人たちが、まったく見当はずれのことをしているのはどうしたことか。
私はその人たちに会って、その実態を知って、愕然とした。こんなにショックなことはない。
この世にいない玉城は、これを見て、どう思うだろうか。
この人たちは、今後、それを反省し、玉城の真意を理解することはあるのだろうか。

ずいぶんと、できがよくない文章になってしまった。勘弁を。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。