パンの仏道日記

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極愛一子地

2009-08-15 00:26:19 | 仏教
極愛一子地

 極愛一子地に達するためには、どのように学んだらよいというのでしょうか。
『涅槃経』には、慈悲喜を修することによって、極愛一子地に住することができるといいます。
慈の成就とは最も愛しい者と最も憎い者に等しく、最上の楽を与えることができることをいうといいます。しかし、これは慈の成就とはいえるが、大慈とはいえない大慈とは一闡提に対しても、心に差別なく、その過を見ることなく、怒らないことができることをいうといいます。

人の心は調伏しがたい。怒りの心が去りがたいことはまるで犬が家を守りそこを離れないようであり、慈心の失いやすさはまるで野鹿が去るようにあっというまである。一日中、心を整えて、気をつけていても、調伏することが難しい。
それは、過去の無量劫において、多くの煩悩を集めて、善を実践することがなかったからであるといいます。

 大慈とは衆生の無利益を除くこと。大悲とは衆生に無量の楽を与えること。衆生の喜びに歓喜することであるといいます。この大慈如来ともいうといいます。仏道者の究極の目標はこの大慈の実現でもあるといえるでしょう。

 ちなみに、『楞伽経』では、この極愛一子地に住し、常に衆生とともにし、衆生の仏道の教化に尽くす菩薩のことを菩薩の一闡提といいます。一闡提が成仏するまでともにあるというからです。

 この極愛一子地の説法は非常に重要であり、原始仏典の四無量心と大乗の『涅槃経』が説く四無量心と違いを明確にしています。

(5年まえに書いたもの)

慈の成就でさえ、人間離れしている。とても、われわれができそうもないこと。慈の成就より、さらに上に、大慈がある。大慈は如来である。
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