パンの仏道日記

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原始仏典の釈尊と極愛一子地の菩薩、提婆達多と善星

2009-08-16 23:28:38 | 仏教
原始仏典の釈尊と極愛一子地の菩薩、提婆達多と善星、如来とともにあるということ

 地獄に落ちた者に対する対応が原始仏典と大乗経典とでは違いがあることを挙げておきたいと思います。
 原始仏典によると、提婆達多は釈尊の従兄弟であり、阿難の兄であるといいます。提婆達多はきわめて聡明な人物であり、出家前の王族であった頃より、釈尊とライバル関係にあったといわれています。その対抗心によってなのか、釈尊に対する反逆的な行為を幾度も繰り返し、五逆罪のうち三つもの罪を犯してしまいます。ついには、釈尊の命を奪おうとしますが、その場で、それまでの自らの業の果報が熟し、地獄の業火によってその身を焼かれることになります。その極苦のなかで、弟の阿難に助けを求めます。そこで、阿難は兄を助けようと思い、至心に如来に帰依するように兄に促します。提婆達多はそれに応えて至心に反省し、「南無仏」と唱えようとしますが、その業火は待ってはくれず、「南無…」というのが最後、その場で無間地獄に落ちてしまうのです。釈尊の優秀な弟子の一人である目連は地獄に落ちた提婆達多を不憫に思い、釈尊に助けてくださるように頼みますが、釈尊はそれに対して「地獄の衆生は人のことばが通じないのであるから、助けることは不可能である。」と答えるのです。「提婆達多は自らの業の果報のために一劫の間、地獄において苦を受けなければならないが、その罪が消えれば、次第に修行して、ついには、独覚の仏となることができるだろう。」というのです。

 それに対して、大乗の『涅槃経』は極愛一子地の菩薩の例を挙げて、地獄の衆生とともに地獄に落ち、説法によって救済しようとするというのです。以上のように、原始仏典の釈尊と『涅槃経』の極愛一子地の菩薩との違いがここで、はっきりと区別されています。

 『涅槃経』では、極愛一子地の例として、釈尊が一闡提である善星比丘とともにすることの例を挙げています。
 『涅槃経』は『法華経』を継承し、提婆達多は極悪人としていません。それにかわって善星という比丘を登場させ、極悪人、つまり、一闡提の例としています。極悪の例を、五逆とはせず、業報の否定、放逸(勝手な考えや行為)とし、その行為によって善星は悉く善根を失っている一闡提であるとされています。善星は釈尊の菩薩のときの子であり、釈尊の給仕を二十年努めますが、釈尊より、さまざまな説法を聞くことがあっても、悉く理解することなく、勝手な理解ばかりしていたといいます。十二部経(仏典の全集のようなもの)を読誦し、四禅を実現していたけれども、経典の一字一句その意味することを理解することがなかったといいます。あるとき、悪友の影響を受けて、四禅を失い、邪見を持つようになります。迦葉菩薩が釈尊に断善根である善星の出家を許したのはなぜなのですかという問いに、釈尊は、善星の出家を許さなければ、ますます悪行を重ねて、多くの人を悪へと導くことになるだろう。そのために、こうして出家を許しているのであると答えます。善星のような一闡提であっても、こうしてさまざまと説法しても、放逸(仏教に対して勝手な見解、行動)のために、邪見を持つようになり、現在の善星をどうすることができないとしても、仏性によってこそ、救われるのである。一切衆生は悉く仏性を具えているのであり、一闡提であろうとも、同じである。仏性を断じることはありえない。仏性は不生不滅、常住不変であるからであると答えています。

 『涅槃経』においては、原始仏典の釈尊が提婆達多に対して、手の施しようがないと放置したのに対して、『涅槃経』の釈尊は、ともにいることを選んでいます。善星比丘のなかの仏性に期待をして、ともにいることを選んでいるのです。原始仏典も『涅槃経』も仏性の働きによって救われるということは同じでありますが、ともにいるかいないかの違いが存在します。四無量心のダンマが放散するという玉城康四郎のいう終地の実現を最高とする原始仏典のあり方と、極愛一子地の実現を理想とする『涅槃経』のあり方の違いが歴然としています。極愛一子地に達するには、調伏しがたい自らの心を整えていくことによってこそ可能であると主張しています。終地を実現すれば、それが利他であるとはまったく考えていないし、心を訓練していくことによってこそ、極愛一子地へと近づいていくというのです。

(5年まえに書いたもの)

どうかすると、間違った解釈をしかねないもの。業の果報や謗法の罪を自分勝手な都合で解釈し、それを信じる者や勧誘する他人に対する脅しと利用していることが世間でよく見られること。これこそ、酷い。
業の果報を正しく見るものは絶対者としての如来のみであり、自分を聖者やブッダなどと自称するものたちには絶対に不可能であり、たとえ、どんな人間であっても、それはできない。それを権威化することの恐ろしさをわれわれはよく認識して、警戒しなければならない。
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