マタイは、例のユダヤ人の番兵の件を忘れてはいません。その疑惑を晴らすことは、マタイの福音書の一つの大きな使命でした。
女性たちが弟子のもとに行く前に、とわざわざ断っています。「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」(マタイ28:11)と、番兵たちがユダヤ教側に情報を伝えます。直ちに、ということなのでしょう。死人のようになったという番兵たちは、気を失っていたのではなく、事態を見ていたのでした。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った」(マタイ28:12-13)のですが、はっきりと「兵士たち」とあるために、前述のこの番兵たちは何者かという議論においては、ローマ側が提供した兵士であるのではないかと思われます。しかし、兵士であればどうして、上司のローマ側ではなく、まずエルサレム場内の祭司長たちに報告したというのでしょうか。それは一つには、囚人を取り逃がした見張りは命をもって責任を取るというのが、よくあるスタイルであったからかもしれません。ローマに知られるとまずいのです。いったいこのことをどうしたらよいのか、ユダヤ側に相談しました。しかも、命乞いに行ったのではなく、逆にユダヤ側から口止め料をもらうというところにまで発展しています。それでも、このことを言えば、命が危ないのですから、どうも事情を鑑みるにこのあたりのやりとりは、判然としません。
女性たちが弟子のもとに行く前に、とわざわざ断っています。「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した」(マタイ28:11)と、番兵たちがユダヤ教側に情報を伝えます。直ちに、ということなのでしょう。死人のようになったという番兵たちは、気を失っていたのではなく、事態を見ていたのでした。「そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った」(マタイ28:12-13)のですが、はっきりと「兵士たち」とあるために、前述のこの番兵たちは何者かという議論においては、ローマ側が提供した兵士であるのではないかと思われます。しかし、兵士であればどうして、上司のローマ側ではなく、まずエルサレム場内の祭司長たちに報告したというのでしょうか。それは一つには、囚人を取り逃がした見張りは命をもって責任を取るというのが、よくあるスタイルであったからかもしれません。ローマに知られるとまずいのです。いったいこのことをどうしたらよいのか、ユダヤ側に相談しました。しかも、命乞いに行ったのではなく、逆にユダヤ側から口止め料をもらうというところにまで発展しています。それでも、このことを言えば、命が危ないのですから、どうも事情を鑑みるにこのあたりのやりとりは、判然としません。