出エジプト1:15-21
エジプトにおけるヘブライ人ヨセフの働きも、数百年の時と共に忘れ去られてしまいます。エジプト王はいま、いわば難民問題に対して、非人道的な命令を下したのでした。基本的人権もなにもありません。王の思惑ひとつで、庶民の生活や命など吹っ飛ぶような時代です。難民の生活を苦しめて人口が増えないように、と企んだのでした。
さらに、それでも難民が減らないとなると、国が脅かされると見て、ついに産まれた男児を殺せ、と命じるに至りました。しかもヘブライ人の助産婦に命じ、ヘブライ人の女が男の子を産んだら直ちに殺せ、と支持したのです。「助産婦たちは神を畏れていたので」という美しいフレーズがここにあります。多くの説教でこれが語られ、心に残りました。
シフラとプアという名前まで記録されている二人のヘブライ人助産婦は、王の命令に従いませんでした。それは命懸けのことです。自分の立場や生命を危うくする行為でしたが、神を畏れていたために、正しいことができたというのです。私たちキリスト者は、そう称えたくなりますが、この言い逃れが適切であったのかどうか、判断に迷います。
王はもう助産婦を信用しなくなり、ヘブライ人一人ひとりに向けて、産まれた男児を殺せ、という命令を下したのでした。ナイル川へ投げ込め、と。これが、水の中から引き出してモーセと名付けた、という次の話につながる準備であることは分かるのですが、ますます深刻な事態へヘブライ人たちを追い込んだのは、助産婦たちの独断でした。
もちろん、神は二人の振る舞いを良しとします。モーセ以外の男児の運命が気になりますが、民族全体の救いへの道は、確かに始まるのでした。名の残された名誉な二人に対して、聖書は批判の目を向けることはありません。むしろ「神は二人の家を栄えさせた」のです。ヘブライ人ですから当然主なる神を知っています。神の民の子を殺すことなどできません。
しかし、そうでなくても助産婦という者が、子を殺す行為を是認するのは難しいものでしょう。安楽死を医師が手伝うことよりもなお、矛盾の中に晒されることになりそうです。ヘブライ人の神云々に拘わらず、基本的な職業倫理だといえます。他の宗教を信じていたとしても、この命令には従えないのではないでしょうか。しかも、同胞に対して。
ここで、私たちは現実の歴史の中に目を落としましょう。ナチス・ドイツでは、同じドイツ人であっても、ユダヤ民族だということで、職務に忠実に人を殺して憚らないことが起こりました。日本でも、同じ日本人が切支丹の信仰をもったということで、拷問に掛けなぶり殺しにしました。職務として、それを正義の名の下に行っていたのです。
助産婦たちは神を畏れていたので、
エジプトの王が命じたとおりにはせず、
生まれた男の子を生かしておいた。(出エジプト1:17)