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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

生ける道への礼拝と故意の罪

2025-03-22 | メッセージ
ヘブライ10:19-31 
 
イエスの十字架の死の際に、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」(マタイ27:51)たという記事があります。神と人との隔てが取り除かれることの象徴としてよく語られますが、ヘブライ書は「垂れ幕、つまり、ご自分の肉」だと理解しているように見えます。これを通って、「新しい生ける道を私たちのために開いてくださった」のです。
 
すると、肉が真っ二つに裂けたことになります。「私たちは、イエスの血によって聖所に入」るのです。その上、そこには大祭司がいて、心が清められるというのです。イエスは大祭司である、とこの書で繰り返し知らせていますから、イエスは幾つもの役を演じていることになります。このことを信頼する、それが信仰というものです。
 
私たちは聖所に、つまり神に近づくことがこうして許されています。そこには「良心のとがめ」は消え去っています。こうして私たちは、「希望を揺るぎなくしっかり保」つことができます。さりげなくここに挟まれた「集会をやめたりせず」に、私たちは過剰に反応することがあります。だから、教会を離れるな、礼拝を休むな、と言いたいのです。
 
コロナ禍に於いても、この砦は切実でした。それまでは殆ど考えられなかったリモートという手法の是非も、議論されました。二千年前のスタイルが現代にそのまま通じるとは限りません。そして、深刻なのは後半です。福音を知り、恐らくは一度は信じた上で「故意に罪を犯し続けるならば」どんなに恐ろしいことになるか、激しく主張されています。
 
それは「どれほど重い罰に値する」のか。それは「生ける神の手に落ちる」ことです。「神の子を踏みつけ」「恵みの霊を侮る」ことを、クリスチャンは自らやっているとはまさか考えません。確かに、びくびくする必要はないのですが、それは慢心とは異なります。私たちに必要な「確信」について、この後語られてゆくことになります。




イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、
新しい生ける道を私たちのために開いてくださったのです。(ヘブライ10:20)

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