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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

試練と誘惑

2025-03-20 | メッセージ
ヤコブ1:12-16 
 
そもそも手紙は、ヤコブを名乗った後すぐに「さまざまな試練に遭ったときは、この上ない喜びと思いなさい」(1:2)と始まっていました。忍耐を求め、貧しさを誇れ、とさえ言います。そして今また、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と宣言します。富む者への嫌悪と忍耐の勧めは、最後にもまた念を押されます。
 
そこから、ヤコブの考える「試練」の視野にあるものが見えてくるような気がします。「幸い」というのは、イエスも口にするものでした。詩編が冒頭に掲げたのも「幸い」でした。それは、詩編全体の標題にもなり得るテーマでした。これを約束するのが「試練」ということなのですが、その試練を、人間は自ら招くことがあります。
 
自分から陥ることもありますが、簡単に誘惑に乗ってしまうということもあるのです。この「誘惑」について、警告が始まります。それは、神からのものではありません。荒れ野でイエスは誘惑を退けました。まして自ら人を悪い道へ誘うなどということはあり得ません。誘惑とは、人が「自分の欲望に引かれ、おびき寄せられて」起こるものなのです。
 
その欲望が「罪を産み」、罪が「死を生」むのだと言います。人の中から、死へのコースが始まることを弁えなければなりません。この点を「思い違いをしては」ならない、と告げます。この「思い違い」というのは、人が二つのことを、あべこべに考え受け取ってしまうことです。ヤコブは他の箇所で「二心」を警戒するようにも教えています。
 
心に二つのことが相反して争うことですが、二つのことを体よく使い分ける点が深刻です。そのこと自体が、道の選択を誤っています。申命記には、二つの道が目の前にあり、君たちはどちらを選ぶのか考えてみよ、と迫りました。世界を二元的に整理してしまったかのようにも見えますが、その指摘が、人にとっては分かりやすいものであったと言えます。
 
人はこの問いかけに、決断をしなければなりません。してみれば、神の方を向くのか、神に背を向けるのか、そのどちらかという結論の分かりやすさが、そこにつながるようにも思えます。そのとき誘惑は、決定的に道を誤らせる原因にもなります。試練は誘惑を呼ぶことがあります。しかし試練のせいにせず、人が道を見極めることが求められています。




試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、
神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。(ヤコブ1:12)

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