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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「エルサレム、エルサレム」(マタイ23:37)

2010-09-03 | マタイによる福音書
 ルカと同様、エルサレムについて嘆くイエスの姿がここに描かれます。イエスが実際にこのように言ったことは大いにありうることです。ルカと同じ資料を見ていることは明らかです。
 エルサレムに向けてイエスが告げます。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23:37)
 もはやイエスがというよりも、ひたすら神の視点でもあるし、捉えようによってはマタイの教会からの視点であるとも言えるでしょう。
 たしかにルカと同様の語句には違いないのですが、ルカは、エルサレムに向かう途上でこれを語っています。マタイはしかし、ユダヤ人の糾弾の結末にこれを置いています。そうして、次にエルサレムの崩壊と終末の姿を描くことへとつなげるのです。これはこれで一つの明確なストーリー展開になりうるものですが、エルサレムを愛しているというよりは、エルサレムに完全に見切りをつけるかのような扱いが、マタイの中に見られます。律法の完成についてエルサレムにこだわることが、もはやできなくなった絶望感さえ覚えますが、今後はイエスの名を掲げる教団が、聖書を受け継いでいくことになると考えているのでしょう。
 ユダヤ人たちに「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23:38)と呼びかけたイエスは、「なぜなら」と原語の中では付け加えた上で、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」(マタイ23:39)と断言します。「主」なる語は教会で用いられていたものでしょうが、その名を掲げて来るのは、もちろんイエスです。イエスは来ます。戻って来るのではなく、端的に、来るのです。
 神はユダヤ人たちをも「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(マタイ23:37)集めようとしました。命を懸けて子を守る親鳥の姿は、まさに神の愛の姿です。
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「今の時代の者たちにふりかかってくる」(マタイ23:36)

2010-09-02 | マタイによる福音書
 ユダヤ人は自らも行為の中で、自分たちが多くの宗教的迫害をしてきたことを口走ったのだと指摘されましたが、それに続いてイエスが、より具体的に指摘するのが、「こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」(マタイ23:35)というフレーズです。
 創世記でアベルがどのように義人であったのか、は明らかにされているとは言えませんが、アベルが義人であるというのは、ユダヤの伝統的理解です。マタイにとり、この「義人」という考えは重要です。律法を完成するイエスの前で、律法に関して正しいということは、非常に重要なポイントなのです。
 より問題なのが「あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤ」であり、これが誰であるのか、私たちにはよく分からないのです。ゼカルヤあるいはザカリヤという名そのものは珍しくありませんが、ここはかなり具体的に状況が説明されています。父親の名からすると、マタイは、どうやら旧約の預言者のことを考えたようです。が、このゼカリヤがこうした殉教者であるということは確認されていません。殉教者ザカリヤは別にいますが、父親の名が異なります。
 ユダヤ戦争のときにそういう名の指導者がいて殺された、という説があります。どうにも詳しい具体的なその描写からして、このあたりが真実ではないかと推測されます。
 マタイは「義人」という意味の語を繰り返して強調します。その血がふりかかるというのは、やはりカインへの神の言葉を思い起こさせるものでしょう。「お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる」(創世記4:11)とありますから。
 マタイは「はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」(マタイ23:36)と、アーメン句を入れ、今のユダヤ人たちが裁かれるふうなことを告げます。ユダヤ戦争においてエルサレムが崩壊したことを念頭に置いているのではないでしょうか。新共同訳は「結果」と訳し出していますが、原文は「これらのことがすべて、この時代の上に来る」という意味です。意味不明と言えば意味不明ですが、マタイの意図は恐らく以上のようでありましょう。
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「蛇よ、蝮の子らよ」(マタイ23:33)

2010-09-01 | マタイによる福音書
 イエスが「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」(マタイ23:32)と凄んだのは、マタイだけが描く姿ですが、これがとどめのように、ユダヤのエリートたちに向けて突きつけられているのが分かります。ただ、この表現は原文においては非常に難儀な形式をとっているといいます。「あなたがたも先祖らの升目を満たせ」と言っているからです。
 
 ついにイエスは「蛇よ、蝮の子らよ」(マタイ23:33)とまで言い放ちます。これは、バプテスマのヨハネが口にした言葉でした。マタイの福音書は、このヨハネの登場を大きな契機としてドラマが動いていくような構成にしています。すでに殺されてしまったヨハネですが、ここでヨハネを重ねてくるようなフレーズを用いて、福音書の最初からの声の響きが、集約してくるような印象を与えます。「どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(マタイ23:33)と、またゲヘナという語を用いて、厳しい審判を宣言します。
 こうして「わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わす」(マタイ23:34)こと、しかし「あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する」(マタイ23:34)ことを明らかにし、ユダヤ人がクリスチャンに対してどのようなことをしているか、をマタイは伝えます。もはやイエスの言葉でありながら、イエスの言葉ではありません。「わたし」は、イエスというよりも天の父なる神のことでしょう。それとも、イエスがクリスチャンの指導者を遣わしたことを意味するのでしょうか。重ねているかもしれません。これまでの預言者の姿と、それからクリスチャンたちをユダヤ人がマタイ当時の今そのときに、迫害していることとが伝わってきます。他方、過去においてイザヤのような預言者の言うことをユダヤ人の王たちが拒んできたという歴史については、イエスが初めて指摘したのではなく、旧約聖書の預言者たちもまた口にしてきた、ひとつの伝統であると理解されます。
 この「学者」は、「律法学者」と同じ語です。ファリサイ派の一部として批判されている律法学者と区別するために、訳し分けたのでしょうか。でも、全く同じ原語を替えてしまうというのは、読者に対しては不親切ではないでしょうか。読者は読者で、マタイが同じ語で何を伝えようとしているか、判断する自由があると思います。
 それにしても、「十字架」につけたのだという指摘も注目されます。これはイエスのことを言うとすべきなのでしょうか。それとも、私たちが「十字架につける」と理解している言葉が、私たちのイメージするような十字形のものではなく、例えば一本の杭であるにしてもそこに縛り付けてさらし者にする刑のことを指しているとすれば、そのように死刑にされてきた者がいろいろいるからそれをも含んでいる、とすべきなのでしょうか。そうなると、これを「十字架」と言い切ってしまうのは問題があります。十字架は暗黙のうちに、イエスのものです。もちろんイエスの両脇に共に架けられた強盗もいますが、両手を広げて殺されていったイエスの姿の中に私たちはまた愛を見るのですから、十字架に一般の人間が次々と架けられていく姿は望ましいイメージではありません。それに、元来ユダヤ人が死刑の手段として十字架を利用することはなく、例えば石打ちがせいぜいです。ローマの刑罰なのですから、古代イスラエルで十字架刑を続けてきたということは無理な発想です。この十字架という表現は、ローマの、つまりイエス以降の様子を描いているものと理解されます。またそれでいて、自分の杭を背負っていくのだ、とも言われますから、イエスの受難の精神を背負うならばそれは十字架という扱いで然るべきなのかもしれません。
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「自ら証明している」(マタイ23:31)

2010-08-31 | マタイによる福音書
 次の呪いの理由は「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ」(マタイ23:29)ときました。
 ルカにも同様の記事がありますが、別に記述されたものと見なされます。マタイのほうが話としても長くできています。ルカよりもマタイのほうが、この話の実情を詳しく理解していたために、記事も丁寧に書くことができたのかもしれません。
 石灰の墓の話が出たところで、その墓からの連想なのか、過去の預言者について言及されたのでしょう。預言者や義人の墓や祈念碑を、律法学者やファリサイ派の人々が立てて飾るということが挙げられます。
 ここは現代の私たちにとっても、含蓄深い内容のように見えます。
 ユダヤ人たちは、預言者たちの墓を建て、義人の祈念碑を築きます。そして、かつて迫害された彼らの死のことを思うとき、さも自己弁護するかのように、言うのです。自分だったら、そんな預言者を殺すことなど、しなかっただろう、と。けれども、イエスはそこを斬り込みます。この斬り込み方は、語弊があるかもしれませんが、爽快です。私も大賛成の論理です。「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している」(マタイ23:31)と、イエスが言ったのです。
 どうして、これが証明したことになるのでしょうか。マタイは何も説明していません。説明せずとも分かる、という故でしょう。本当に分かるのでしょうか。今でも読者はこれを、「確かにそうだ」と肯いて読んでくれるのでしょうか。
 彼らは、墓を建て、祈念碑を築くことで、それが非業の死であったと感じていることになります。また、自分だったらそんなことはしなかった、と口にするのは、それが罪であることを認識していることになります。
 それだけでは分かりにくいでしょうか。
 太平洋戦争の結果、日本に原子爆弾が投下されました。あるいは、特攻と賞する自爆攻撃で、優秀な若者が次々と死んでいきました。原爆の碑が建てられています。特攻を称え立派だったと涙ぐむ人々がいます。原爆のモニュメントは、もちろん市民も協力しています。しかし、建設者は公共団体あるいはその長というのが一般です。そのような公共団体は、戦争で人々を死に追いやった側にあるのではないでしょうか。特攻を好んで取り上げて美化しているのは、特攻をした側ではなくて、特攻をさせた側にいる立場の人々ではないでしょうか。そして今のその知事などは口にするのです。私だったら、こんなことを若者にさせなかった、と。
 実は、その当人こそが、再び戦争をけしかけるような言動を繰り返しているのではありませんか。断固たる平和主義ではなく、日本は強くなければならない、もっと軍隊を強くすべきだ、と主張する当人が、特攻を美化しているのではないでしょうか。
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「白く塗った墓」(マタイ23:27)

2010-08-30 | マタイによる福音書
 次は、「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちている」(マタイ23:25)ことを呪います。「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(マタイ23:26)と言うのです。
 外というのは、律法を表向きちゃんと守っている、ということでしょう。内というのは、その精神や魂の部分のことでしょう。しかし、内面だけのことを言っているのではないようです。「強欲」というのは、無理矢理奪い取る行いに使われる言葉であるために、ただの貪欲とは違うものでしょう。これはショックな指摘です。律法を守っていればよし、とするときに、内面を問うただけではなく、その内面からくる実際的な行為も非難されているのですから。たしかに、たんに道徳的な心理的呵責などという次元ではないわけです。改宗者をつくろうと駆け回り、弱い立場の人々を虐げることをしているわけで、実のところ律法の精神とは反対のことを実際に行っている、という点を、私たちは自分のすることに関しては、見事に見落としてしまうものです。
 まずそのことに気づいて直すならば、自ずから行為も変わっていくことだろう、とイエスは指摘します。
 このようなことを、もう一つ続けます。「白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(マタイ23:27-28)というのです。「白く塗った」というのは、石灰で上塗りをした、という意味です。「汚れ」は律法の規定による汚れの概念を使って説明していると言えるでしょう。これは比較的分かりやすいイメージの比喩ではないでしょうか。
 一見、正しく律法を守っているような行いをしている中で、その中に何があるのか、ということが問われています。マタイはもちろん、律法学者やファリサイ派を念頭に攻撃しているのですが、はたして私たちはイエスの口からそのように言われたら、どのように言葉を返すことができるでしょうか。考えてみるのも必要なことかもしれません。
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「ものの見えない案内人」(マタイ23:24)

2010-08-29 | マタイによる福音書
 呪いの言葉を掲げてなお、「薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである」(マタイ23:23)と事例を挙げます。依然として、当時の人々に具体的によく分かる律法規定を細かく示して、律法学者たちが偉そうにこれが神の救いの律法だと説明している事柄がいかに神から遠いことであるのか、を暴露しようとしています。ここはルカにも並行記事がありますが、同じ文章だとは言えない面があります。
 香料の名を並べ、それらに税金をかけていた様が明らかにされます。贅沢品と言えば贅沢品なのでしょう。しかし、イエスにしてみれば、そんな細かなことに力を注ぐよりは、もっと重要なことがあるはずだというのです。それが「正義、慈悲、誠実」です。マタイが重視する律法の真髄はここにあります。だから、マタイはファリサイ派などと同じく律法を尊重するのですが、その解釈が全く違うということになります。ほんとうの律法というのは、あなたたちの考えとは違うのだ、ということです。それは、イエスのたとえや癒しなどの救いの業の事例にも、よく反映されています。
 マタイは独自に「もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」(マタイ23:23)と付け加えます。ここが律法重視のマタイらしい但し書きです。ですからどうかすると、マタイもまたファリサイ派と同じではないのか、と目に映ることがあります。それは私たちもまた同じです。私たちも、ファリサイ派は敵だ、ダメだ、と非難しているうちに、実は自分こそそのファリサイ派の先頭に立っている者である、ということになっているかもしれません。自分の心を調べるのは、人間には実に難しいことなのです。
 その続きとして「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(マタイ23:24)と、ちょっとユニークな表現もイエスは用います。7章にあった、目の中の梁あるいは丸太というあたりとつながるものでしょう。
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「愚かで、ものの見えない者たち」(マタイ23:17)

2010-08-28 | マタイによる福音書
 この理由付けの中でもなお「愚かで、ものの見えない者たち」(マタイ23:17)と、攻撃の手を休めません。「見えない」というのは、重い言葉です。ヨハネは、見えていると言い張るところにこそ罪があるのだと指摘しました。見えないものを見るのが信仰である、と手紙の中にも触れられていました。私たちは何を見ているでしょう。どのように見ているでしょう。あるいはまた、どこから見ているでしょう。
 もちろんイエスは、黄金と神殿とのどちらが尊いのかというクイズを出しているのではありません。そういう比べ方自体が、奇妙な律法の捉え方である、と告げているのです。神を忘れているではないか、神の愛した人間を忘れているのではないか、そんなふうに聞こえないでしょうか。
 祭壇と供え物との比較も全く同様です。マタイは、律法の細かい規定についてはくどいくらい詳しく並べ立てます。それは、当時のユダヤ文化の中にある人に、より鮮明に伝わる方法であったに違いありません。
 ですから、「祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ」(マタイ23:20-21)と回答がなされました。
 さらに「天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ」(マタイ23:22)と畳みかけます。一切の誓いを否定した以上、ここでクリスチャンに、「このようにして誓うのです」と教えているのではないはずです。誓いというものが、何かにかけてするのであれば、そこに格差が生じるという矛盾を起こします。誓いという建前をよいものにして、なお逃げの口実を作るかのような現実的なあり方をしていて、それで何の誓いぞ、と戒めているのです。
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「改宗者」(マタイ23:15)

2010-08-27 | マタイによる福音書
 律法学者やファリサイ派を呪う言葉が続きます。「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」(マタイ23:15)とあるのですが、私たちの常識からすると、これは驚くべきことです。ユダヤ教は伝道しないと考えられているからです。恐らくローマ帝国に壊滅的打撃を与えられたユダヤ教は、民族的危機を痛感し、血統ではなしに信仰により民族が形成されるとの見解と共に、信仰を伝える運動を展開したということなのでしょう。となれば、弱者を虐げることをさらに広めようとするわけですから、これはイエスの目からしても由々しきこと、悪しき行いであるに違いありません。改宗者をわざわざつくろうとするこの有様を巡り歩くなどと称して、さらに地獄の子を増やすことだと断じています。ゲヘナの子という表現です。永遠の刑罰の火に落とされるということです。
 この「改宗者」という語そのものは、「こちらへやってきた者」というふうな意味の言葉ですが、ユダヤ教では古来、ユダヤ教を信じるようになった人のことを言いました。つまり本来伝道をしていくというよりも、向こうからやってきて信じるようになった、というイメージなのです。そのまま現代西欧語にも受け継がれる表現ともなっています。
 さらに、表現を換えて「ものの見えない案内人」(マタイ23:16)と攻撃が続きます。「あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う」(マタイ23:16)というのは、すでに5章で、誓いを否んだ言明と対応してくるかもしれません。誓いが偶像化していく危険性をも含み見るのはどうでしょう。神よりも、神の前で誓ったことが上に立つのです。イエスの神は、そんな神ではありませんでした。神よりも、神が言った言葉を人間が理解したに過ぎない程度の律法規定を偶像化していくことを、危険視しているのでした。
 とはいえ、マタイ自身、その律法は神からのものであるからとして、極めて重視しているのです。イエスという神の子、そしてそれを師匠とする有能な弟子たち、その弟子たちが、あるいはその弟子たちの教育を受けて教団をリードしている指導者たちとその教会、そちらに権威を継いでいくことで、クリスチャンという集団を生き延びさせようとする思いが強いのです。
 なお、「無効」というよりも、それは「拘束力がない」という程度の理解をすべきだという意見があります。「何ごとでもない」というのが原語の響きです。
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「あなたたち偽善者は不幸だ」(マタイ23:13)

2010-08-26 | マタイによる福音書
 しかしマタイの関心は、弱い人への共感というよりは、教会組織に対する妨害のような次元のことにより多く注がれました。マタイの時代、ユダヤ教からの圧力は、それほどにクリスチャンたちに強かったのです。この時代背景は同情すべきものがあります。これを無視して、マタイの権威主義などと騒ぎ立てても、益はありません。
 マタイは、律法学者やファリサイ派たちを、徹底的に「偽善者」だと呼ばわります。「あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)とありますが、ここも以前18章で指摘したように、マタイはまず「わざわいだ!」とぶつけているのであって、呑気に「あなたたち偽善者は……」と話し始めたわけではありません。5章の「幸いだ」の列挙と同様に、ここでもまた、「わざわいだ」「不幸だ」と叫んでいるのです。さらに言えば、これは呪いの言葉として「わざわいあれ」とまで訳して当然であるとも考えられます。
 それにしても、マタイの対照ははっきりしており、天の国のための義と、この偽善とが、この福音書全体で大きく並べられているように見えてきてなりません。読者よ、あなたはどちらを選ぶのか、そういった迫りを覚えます。
 この偽善者は、天の国を閉ざしています。さらに、天の国を求める他の人々をも妨害します。道案内を、目の見えない人がすることと似ていますが、ここはさらに意図的に妨げているイメージを強くします。律法を守らねばと押しつけて守れない者に心理的負担を与える手法が弾劾されています。
 このようにして、間もなく十字架のストーリーに入らなければならないマタイにとって、公然とユダヤ人たちを批判する機会はこれで最後となるわけで、余すところなく非難しようと立て続けに強い言葉を並べていくことになります。
 続いて、マルコ12:40を後世の写本筆記者が書き加えたようです。古いものにはありません。章節を入れた16世紀当時、そのことが判明していませんでしたので、そのまま数字としては残りました。新約聖書にしばしばあることです。
 つまり、マルコの短いフレーズを拡大したマタイですが、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(マルコ12:40)は省いています。これはむしろもったいないような気がします。マタイの脈絡からすれば合致しにくかったのかもしれませんが、ここはイエスの批判の鋭い部分ではなかったか、とも思われます。
 ですから、写本家がこれを補ったというのも、気持ちとしては理解できるのです。
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教会における信徒のあり方

2010-08-25 | マタイによる福音書
 同じ精神は、宴会の席や、広場での挨拶、あるいは「先生」と呼ばれることの中にも、現れているとされました。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタイ23:8)とイエスは言います。「先生」という語は「ラビ」です。ギリシア語として「ラビ」は「先生」と訳して然るべきではありますが、「師匠」という響きだと捉えてよかったのではないでしょうか。また、「ラビ」は元来「大いなる者」という意味から作られた言葉で、まさに「師」のようなことです。私たちは牧師のことを「先生」と呼びますが、それまでも禁じられているかのように聞こえてしまいます。あなたがたの「師」の語は新約聖書の中でここだけに見られる語だといいます。良く教えるという意味で、教師を指すものです。
 ここでマタイが「兄弟」という言葉を用いているのは、すでに教会内でそういう呼び方ができていたことを意味するものでしょう。
 並んで「また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)とも命じられます。このあたり、当時の律法学者たちが好んで呼ばれていた様子を反映しているものです。しかしまた、その後マタイが築いたペトロ基盤のカトリック教会で、指導者を「父」と呼ぶようになったのは、何の因果なのでしょうか。
 父だというのは、マタイも主の祈りなどで触れているものの、ヨハネに見られるような、父と子との密接な関係が強調されているのではないことでしょう。
 そして「『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタイ23:10)ときますが、「導く者」としての意味をもつ語ですから、「教える師」というとは違うかもしれません。マタイ以降の教会で、信徒教育を司る役割をこのように呼んだらしいとも言われています。「ラビ」にしろ「先生」にしろ「父」にしろ、当時の感覚からすればさして違いがあるわけでなく、このあたり、学者たちが呼ばれていたことを漏らさず批判しようとしているものだと理解できるところです。
 マタイの好きな「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイ23:11-12)がここに置かれていますが、これは教会の中でどういう役割を果たしていくのか、を教えるこれまでの姿勢と大きく違うものではないと認められます。自分が先頭でありエリートなのだという空気をもっている律法学者やファリサイ派の考えを粉々に砕くために持ち出されたとはいえ、マタイの教会における信徒のあり方をも教えるものとなっているのでしょう。
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「すべて人に見せるためである」(マタイ23:5)

2010-08-24 | マタイによる福音書
 律法学者やファリサイ派は、「背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:4)のだといいます。守りたくても守れない立場の人がいるのです。そこに、そんなことも守れないのか、と上から見下ろし、自分たちの優越を証明していくかのようなあり方がここに描かれています。イエスは、まさにそういうところを崩壊させるために立ち上がったのではないでしょうか。価値の逆転にしろ、弱者の救いにしろ、マルコはひたすらそこに焦点を当ててイエスを描いていました。マタイであれ、その精神を見失うようなことはありえません。ただマタイは、その精神を律法を基礎に支え、教会組織を築き上げたかっただけだと考えられます。
 まことに「そのすることは、すべて人に見せるためである」(マタイ23:5)わけです。神のためではない、と言いたいのでしょうか。真に神と結びついているのではない、というのは、きつい批判です。私たちもまた、今そんなことをぶつけたくなる誘惑に駆られます。果たしてそれは他人のことであるのか、自分のことであるのか、その辺りは各人の信仰に任せましょう。
 具体的に、どういう点が、人に見せるためだというのでしょう。これはマルコも少しばかり挙げていました。逆に言えば、マルコが少し記していたそのことを基に、マタイが強調のためにここを拡大して長い記事にした、ということになるでしょうか。
 マタイの目にイヤミに見えたのでしょうか。「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする」(マタイ23:5)とまず挙げられます。この「小箱」というのはユダヤ人にとっては周知のもので、羊皮紙を入れた箱でした。その羊皮紙には、出エジプト記13:1-10と13:11-16、それに申命記6:4-9と11:13-21の四ヶ所が記されていました。成人男子は、安息日のほか朝の祈りのときには、これを身につけて祈ることになっていたそうです。語としては「お守り」のような語で示されていますが、ユダヤ人にとりこれは切実なものであって、この「お守り」の語をより重要な価値をもつものとして認識して扱っていたものと思われます。
 また、「衣服の房」というのは、衣の裾に付けられた四つの房のことだと思われます。モーセ五書の中に規定があります。民数記15章によれば、主の命令を思い出すためにいつも目に入るようにしておくべきものとされていました。
 これらは、神の言葉を自分の戒めとするために、つまり聖書の言葉を自分としっかり結びつけるために用意されたにも拘わらず、それを逆に、自分たちが神の言葉を守っているのだぞという顕示のための手段としている精神を、イエスは、つまりマタイは糾弾したのでした。
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宗教的エリート意識

2010-08-23 | マタイによる福音書
 論争がなくなったことは、ファリサイ派への批判が終わったということではありません。むしろ逆で、ここからマタイは堰を切ったように、一気にファリサイ派批判の言葉を立て続けにイエスに語らせます。もう反論の力を失ったファリサイ派にどとめをさすかのように、徹底的に叩き潰そうとするのです。
 しかも、マルコではただわずかな批判に留まるものが、マタイは、これぞ真髄と思ったか、そこにこだわり、膨らませて、多大な批判を展開することになりました。マタイの熱意が伝わってきます。
 これは、群衆にも弟子たちにも伝えている、とマタイは言います。一般信徒も心して聞くべし、という意味に受け取ることができるでしょう。
 イエスはまず「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」(マタイ23:2)と語り始めます。マタイの時代、つまりこの福音書を読者が手にしているその時代に、ユダヤ教と言えば、ファリサイ派でした。また、その派の中でも律法を丁寧に論じ研究するのが、律法学者でした。庶民派であり生活レベルの場所から律法遵守を掲げるファリサイ派は、律法学者というブレインによって、強固な基盤を得て活動していたことになります。モーセの座はその律法という根本的に重要なあり方を示しています。マタイたちクリスチャンは、このファリサイ派に追われるような立場にありました。これと対決しなければ、キリストに従う派が生き残る術はありません。
 なお、宗教的エリート意識があるとき、自分たちが専門家だという思いも伴うでしょうが、他方で自分たちこそ生活レベルで庶民の味方ですという顔をしたがり、なおかつそういう背景で政治的な力をもつように動き始めていくのは、現代でも同じようなことがあるものだと言えないでしょうか。
 イエスは「だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(マタイ23:3)と続けます。律法そのものを重んじるマタイの考え方が記されています。極端な見解ではあるかもしれませんが、彼らの行為に従って行為するようなことはするな、と、従うべきはイエスであること、さらに言えばマタイにとっては、教会に従うべきだという途を用意しています。彼らは、言うが、しかし行わないのだというのです。そのような姿に従うな、ということなのでしょう。
 けれども、律法遵守を誇っているファリサイ派です。簡単にそんなことを言ってよいのでしょうか。マタイはこれまでも彼らを十分に批判しています。それが「偽善者」です。もうマタイは、ここまでにも十分それについては伝えてきたはずだ、という前提でいるものと思われます。総まとめとして、念を押すかのように、従来の律法主義の誤りを指摘しているような感じになるでしょうか。
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「どうしてメシアがダビデの子なのか」(マタイ22:45)

2010-08-22 | マタイによる福音書
 マルコにおいては、イエスが淡々と話を続けていくのに対して、マタイは、ファリサイ派に真っ向から論争を挑むかのように、問いかける設定になっています。マタイはここを強調したい気持ちがあったのではないかと推測されます。マタイはしばしばマルコのエピソードを、端折って短くまとめる癖があるのに、ここはわざわざ長く展開させているのです。
 イエスが「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」(マタイ22:42)と訊きました。「メシア」は原文では「キリスト」です。油注がれた者というところから作られたという元のヘブライ語による「メシア」は、新約聖書のギリシア語においては「キリスト」と訳されました。これら二つの語は、私たちは日本語でどちらも採用しています。それなりに使い分けているわけですが、従って、ここの翻訳においては、錯綜した状況が発生します。私たちの使い分けのルールに従って、ギリシア語の「キリスト」であっても、私たちの意味で「メシア」と訳しておかないと、不釣り合いな印象を与えてしまうのです。ユダヤ人に向けて、ユダヤ人が思い描いていた救い主を指すときには、「メシア」とした方が、分かりやすいのです。
 ファリサイ派はすかさず「ダビデの子です」(マタイ22:42)と答えます。それはファリサイ派における当然の見解でした。マタイは、このファリサイ派のテーゼに対して疑問を投げかけます。というより、それをイエスというまさにそのメシアである人が、超えてしまうのです。
 イエスは「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」(マタイ22:43)と問い、詩編110:1を引用します。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と』(マタイ22:44)と指摘した上で、「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」(マタイ22:45)と問うのです。
 マタイをはじめ、クリスチャンたちは、イエスを「主」と呼びました。私たちもそうです。私たちもまたイエスを「主」と呼ぶその理由がここにあります。マタイたちもそうだったのでしょう。メシアが「主」と呼ばれているのです。そこには、復活のイエスが前提されているものと思われます。ですから、ファリサイ派の理論ではこれに返答できないのではあっても、復活のイエスをメシアとして、つまり新たな意味での「キリスト」として信じるクリスチャンたちには、このダビデの構図がそのまま受け容れられるということで、聖書の見解に、そして本来のメシア像に合致していることが明らかにされる、とマタイは計算していることになります。クリスチャンたちこそ、メシアはダビデの子である、と真の意味を汲んで理解しているのだ、と論ずるのです。
 ファリサイ派はこれに対して沈黙しました。言葉を返すことができませんでした。「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」(マタイ22:46)ということで、もはやここから論争という手段が講じられなくなっていくことを、マタイは示します。
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「この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)

2010-08-21 | マタイによる福音書
 イエスの返答は、まず「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』これが最も重要な第一の掟である」(マタイ22:37-38)というものでした。申命記6:5を引用しています。マタイは「力を尽くして」というマルコの引用を省いています。数としては申命記のオリジナルも三つなのですが、比較すると、マルコの中で削除すべきは「思い」のほうでした。マタイらしくないミスなのでしょうか。それとも、マタイの何か意図があるのでしょうか。写本の中には、やはりこれに気づいた人がいて、修正しているものがありますが、元はやはりこの誤った引用であるようです。また、マタイは、マルコがこの引用の冒頭に掲げた「イスラエルよ、聞け」などのフレーズも削っています。ルカも然りです。分かり切っているという理解でしょうか。マタイの意図がもうひとつはっきり見えてこない箇所であるかもしれません。
 さらに「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:39)と挙げられます。レビ19:18にはっきり示されていますが、ユダヤにおいて、律法の基底にあるものとして、極めて重要視されていたものでした。神に対する愛と、人に対する愛とが問われます。
 マルコにおいて、この認識は実に正しいものとして、答えた律法学者が褒められていたのですが、もちろんマタイはそういう記事を載せることは許しませんでした。ではマタイで、この問うた学者はどういう扱いを受けているのでしょうか。それが、さっぱり分かりません。イエスを試そうとして持ち出した問いですが、このことでファリサイ派がやりこめられているという結末がないのです。ただマルコの叙述に従ってマタイが記事を流していく中で辿っただけのようにさえ見え、しかも律法の中心を紹介するというから省くこともできないが、かといって冗長な記事のままで残すことは、ただでさえ長くなったマタイによる福音書においてはよろしくないとでも考えたのか、少しでも削っていこうという態度で臨んだために、さらに、そのときにイエスがこの学者を褒めたというのは残せないということで、こういう形でどこか宙ぶらりんに記事が掲載されることになったかのように見えます。実のところどうなのか、私などには分かりませんけれど。
 イエスはただ「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:40)と、聖書そのものがここに神髄をもつことを指摘しているだけです。しかしこれがマタイだけの付加です。律法学者が言明をとりまとめるためのようにも窺えます。たんなる福音一般ではなく、律法の成就を神の国の実現に必要としていたマタイが、いかにも聖書の核心を指示するかのように、はっきりとまとめているのだと言えるでしょう。
 それはまた、教会において第一とすべきことでもある、ということなのでしょう。
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ファリサイ派

2010-08-20 | マタイによる福音書
 ファリサイ派は「イエスがサドカイ派の人々を言い込められた」(マタイ22:34)ことを聞きました。これはマタイの演出でしょう。サドカイ派は退けられ、残るはファリサイ派だけとなります。マタイがとことん律法にこだわる以上、律法の専門家としてのファリサイ派は、現実的にも、理論的にも、最大のライバルとなります。
 マルコにおいてこの逸話は、イエスがこの学者が正当に答えたことを褒める構図になっていますが、マタイにしてみれば、律法学者がイエスに評価されるというのは断じて許されないことです。なんとか変えなければならないと考えたことでしょう。しかもこれは、ルカもその傾向を帯びています。ルカにおいては、いわゆる「善きサマリア人のたとえ」を導く問いかけとしてこれが利用されていました。ルカはこの箇所には、必ずマルコの他の資料からの記事を並べています。何かしらマタイとルカとの間に、共通の資料があったことを考えさせる改変だと考えられます。それは、マルコのように、律法学者の中にも優れた者がいたという片鱗をも見せないようにしたものでした。
 ファリサイ派が集まりましたが、「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」(マタイ22:35)のでした。明らかに悪意があることを示します。また、通常の「律法学者」という語とも違う語をわざわざ用いています。通常は書記のような語から書物の研究社を指しますが、こちらはまさに「法」の学者なのです。ルカが好んで用いているようです。マタイは唯一ここのみ使っています。だからこそまた、ルカと共通の資料であると断定されるのです。
 その問いは「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」(マタイ22:36)というものでした。これは律法の完成をイエスに見るマタイにとり、重要な問いでもあります。重要というのは「大きい」という意味です。律法学者らしい語の用法であるとされています。
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