ルカと同様、エルサレムについて嘆くイエスの姿がここに描かれます。イエスが実際にこのように言ったことは大いにありうることです。ルカと同じ資料を見ていることは明らかです。
エルサレムに向けてイエスが告げます。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23:37)
もはやイエスがというよりも、ひたすら神の視点でもあるし、捉えようによってはマタイの教会からの視点であるとも言えるでしょう。
たしかにルカと同様の語句には違いないのですが、ルカは、エルサレムに向かう途上でこれを語っています。マタイはしかし、ユダヤ人の糾弾の結末にこれを置いています。そうして、次にエルサレムの崩壊と終末の姿を描くことへとつなげるのです。これはこれで一つの明確なストーリー展開になりうるものですが、エルサレムを愛しているというよりは、エルサレムに完全に見切りをつけるかのような扱いが、マタイの中に見られます。律法の完成についてエルサレムにこだわることが、もはやできなくなった絶望感さえ覚えますが、今後はイエスの名を掲げる教団が、聖書を受け継いでいくことになると考えているのでしょう。
ユダヤ人たちに「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23:38)と呼びかけたイエスは、「なぜなら」と原語の中では付け加えた上で、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」(マタイ23:39)と断言します。「主」なる語は教会で用いられていたものでしょうが、その名を掲げて来るのは、もちろんイエスです。イエスは来ます。戻って来るのではなく、端的に、来るのです。
神はユダヤ人たちをも「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(マタイ23:37)集めようとしました。命を懸けて子を守る親鳥の姿は、まさに神の愛の姿です。
エルサレムに向けてイエスが告げます。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23:37)
もはやイエスがというよりも、ひたすら神の視点でもあるし、捉えようによってはマタイの教会からの視点であるとも言えるでしょう。
たしかにルカと同様の語句には違いないのですが、ルカは、エルサレムに向かう途上でこれを語っています。マタイはしかし、ユダヤ人の糾弾の結末にこれを置いています。そうして、次にエルサレムの崩壊と終末の姿を描くことへとつなげるのです。これはこれで一つの明確なストーリー展開になりうるものですが、エルサレムを愛しているというよりは、エルサレムに完全に見切りをつけるかのような扱いが、マタイの中に見られます。律法の完成についてエルサレムにこだわることが、もはやできなくなった絶望感さえ覚えますが、今後はイエスの名を掲げる教団が、聖書を受け継いでいくことになると考えているのでしょう。
ユダヤ人たちに「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタイ23:38)と呼びかけたイエスは、「なぜなら」と原語の中では付け加えた上で、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」(マタイ23:39)と断言します。「主」なる語は教会で用いられていたものでしょうが、その名を掲げて来るのは、もちろんイエスです。イエスは来ます。戻って来るのではなく、端的に、来るのです。
神はユダヤ人たちをも「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」(マタイ23:37)集めようとしました。命を懸けて子を守る親鳥の姿は、まさに神の愛の姿です。