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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「死者の復活については」(マタイ22:31)

2010-08-19 | マタイによる福音書
 イエスの解答は明瞭でした。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイ22:29)というのです。復活というのは、人間が地上でちまちまと考えているような枠の中で行われることではない、というのです。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:30)というわけです。
 しかし、天使のように、とはどういうことでしょうか。それは、罪の内に律法の規定を与えられたままの人間とは違う、ということです。神の直属である限りは、地上の規定に束縛されることはありません。もっと自由でしょう。この天使という表現は、さらに追究すれば様々な角度から論じることが可能です。聖書を読み解く上でも、ユダヤ的な捉え方や発想ということと共に、大いに論議されて然るべき概念ではないかと思います。単純に私たち現代人のイメージで捉えてそれでよしとするのは危険なことだと言えるでしょう。
 イエスは「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか」(マタイ22:31)と言い、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マタイ22:32)と、マルコと同じく出エジプト記の3章から4章にかけて現れる語句を示しますが、もはや、マルコのように、モーセの柴の箇所であるなどと説明をすることさえ疎ましく思うのか、マタイは対話を早々に終わらせます。もうサドカイ派の時代ではないからでしょうか。
 すでに死んだとされているアブラハム、イサク、ヤコブの名を持ち出すからには、彼らは生きているのだ、という論理ですが、私たちにはピンとこないというのが正直なところであるような気がします。神のもとで彼らは生きている、というのです。これは、すでにユダヤ教における一つの見解として成立していたようで、イエスがわざわざ発見したのではないというのが一般的な理解です。
 ともかく、群衆はこれを驚きと共に聞いたというのですから、ユダヤ人たちに与えた影響は小さくはなかったのでしょう。
 復活は、キリスト教において重大な要です。しかし確かに、旧約聖書で復活というのがどれほどの教義になって定着しているのかというと、分からないところがあります。だからかそ、神殿祭儀を司るサドカイ派にとっては、復活が否定されていたことになるのでしょう。神は地上でイスラエルを救い、永遠の地を与えると考えていたのです。イスラエルはまさにその地を継ぐことになり、継げない異邦人は永遠の火に送られることになるのです。キリスト教の復活は一定の教義として安定していると思われますが、はたして旧約との関係の中でどうなるのかは、まだ調べてよい事柄であるのではないでしょうか。サドカイ派が福音書で地味な扱いしか受けていないのは、福音書執筆時代の要請でもあるわけでしょうが、ファリサイ派が認めていた復活観は、もっと明らかにされてよいのではないでしょうか。
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サドカイ派

2010-08-18 | マタイによる福音書
 その神殿宗教を司るのが、サドカイ派でした。ファリサイ派が神殿を必ずしも要しないで成り立つ律法主義であったのに対して、サドカイ派は、祭司による儀礼宗教を中心に据えていましたから、事実上神殿崩壊の後には瓦解してしまうことになりました。ローマともなんとか折り合いを付けようと努めてきましたので、現実政策を実践していたことになります。
 そして、彼らは「復活はない」(マタイ22:23)と考えていました。ファリサイ派ばかりがイエスに敵対するのではありません。ただ、マタイの当時、事実上サドカイ派は機能しなくなっていましたので、マタイの教会にとって、大問題とはなっていませんでした。
 サドカイ派の人々が近づいてきてイエスに尋ねます。「先生、モーセは言っています」(マタイ22:24)と、やはりこうした質問は「先生」で始まります。また、わざわざマルコの「モーセが書いています」の表現を「言っています」に換えた真意は不明です。
 まず律法が提示されます。「ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」(マタイ22:24)というのは、律法的にはデリケートな問題が潜んでいるようです。「姻戚」という語を動詞化したもので、たんなる「結婚」とは様相を異にするようです。マルコの「結婚する」をマタイはわざわざこの語に換えました。正規の結婚とは一線を画するようです。マタイはこのように、ユダヤの律法の規定については曖昧な点を残さないように配慮しています。
 七人の兄弟を登場させ、長男が結婚したその女性が、夫の死によりその弟と一緒になることにになりました。極端な話はその後も続き、七人の兄弟が次々と死んで行くことになります。いったい復活の時に、この女は誰の女であったことになるのか、というのが、サドカイ派の問いかけでした。「復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょう」(マタイ22:28)というのです。
 観念的なひどい問いで、中世のトリビア的な議論を思い起こさせるような気がしますが、律法に生きるとはまさにそのような規定さえ重要視することであって、サドカイ派は、要するに復活というものは矛盾することになる、と指摘したいわけでした。
 ちなみに、この男たちは、死んだことを表す動詞を丁寧な響きのものに換え、女については換えずに、死んだとぞんざいな表現を残しているところは、マタイのマタイらしい言い方だとされています。マタイはよくこういうやり方をします。
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「神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)

2010-08-17 | マタイによる福音書
 イエスは「なぜ、わたしを試そうとするのか」(マタイ22:18)と問います。税金として納める貨幣を見せるようにイエスが求めます。マルコもルカも、「デナリオン銀貨」を持ってくるように限定しているのに対して、マタイのイエスはそのあたりもわざわざ指定せず当然決まっているのか、「税金に納めるお金を見せなさい」(マタイ22:19)だけで、デナリオン銀貨が渡されます。
 イエスは自ら説明を多くはしません。それが誰のことが刻んであるのかと相手に言わせます。それは皇帝である、と彼らは答えます。当然の回答です。イエスはその反応に対して「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と答えます。
 マルコの語順では、「皇帝のものを」が先頭に立ち、強調されていますが、マタイとルカはギリシア語として美しい対比をなすように、皇帝と神が並べられることになりました。もしかすると、マルコは、「そいつは皇帝のものなんだろ、そんなものは皇帝に返しちまいな」と、ローマの法にはきっちり従っておきながら、ローマを批判するような響きを受け取ることができるように感じます。しかも、「そして、神のものは神に返すことになるんだから」と口にしたとき、イエスの眼差しは、権力者の顔に向けられていたはずです。ヘロデ派は、何をしていたのでしょう。神のためと称して、しこたま神殿のための税金をユダヤ人全体にかけて、それを懐に入れていたのではないでしょうか。神に納めるということで、庶民がこれを聞いて連想するのは、それしかなかったはずです。私たちは今の時代、これを聞いて、自分の命は神によって与えられたのだから神に返すのだ、というふうに、どこか精神的に、道徳的にすらこの言葉を受け取ります。それはそれでよいのです。私たちが聖書から何をどう受け取ろうと、そしてそれを自分の生き方を真っ直ぐにしていくために用いるとなれば、神はすべてを許してくださることでしょう。ただ、聖書がそう言っているのだ、と振りかざすと、もしかすると聖書本来の叙述から離れていくかもしれません。私たちの受け取り方が、偶像的になっていくかもしれません。そうなると、まさにそれこそ、このイエスが批判したことですし、イエスの眼差しが、私たちに向けて注がれることになることなのです。現代のファリサイ派に向けても、イエスは言います。「教会のために献げよ、なんてあんたがたは言っているよな」と。マルコは、そんなふうに読めます。
 しかし、マタイは違います。この毒を消してしまいました。意図的かもしれません。マタイは、教会のために献げることを、読者に求めているからです。
 こうして、ファリサイ派に差し向けられた者たちからも反論されないように、質問をかいくぐったことになるのでしょう。わざわざユダヤの律法を破るような行為ではないことが告げられたのです。これはもともと皇帝のものなのだから、返すだけになるのである、と。皇帝なる偶像を頼りにしていたのは、実はイエスを陥れようとしていた権力者の側であったことが、痛烈に指摘されるような印象すら与えます。いや、敏感な彼らのことですから、それは感じたことでしょう。
 驚いた面々は、立ち去りました。「イエスをその場に残して立ち去った」(マタイ22:22)とは含蓄深い表現です。私たちは、神の前を立ち去ってしまうときには、イエスを残して行ってしまうのです。イエスが共にいて歩むのではなく、イエスを残して。イエスを置いて私たちだけで勝手に行ってしまうのです。
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「偽善者たち」(マタイ22:18)

2010-08-16 | マタイによる福音書
 とはいえ、その前提として、すでにユダヤ人を排除したこのイエスのものの言い方は、ファリサイ派にとって好ましいものではありません。むしろ、憎むべき宣言です。イエスの前から去りました。そして、「どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(マタイ22:15)のでした。記されていないにしろ、明確に殺意が感じられます。「罠にかける」ためには、イエスの言質を取ることが有効と考えました。
 マルコにも、そしてルカにも記事がある内容です。ファリサイ派はやはりヘロデ派と組んでいます。いわば刺客を送るのです。「先生」(マタイ22:16)と呼びかけるのは、イエスをメシアとして認めていない悪役の設定をも表していると言えるでしょう。おべっかのような舌滑らかな言葉を予め十分いやらしく並べ立てた上で、「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(マタイ22:17)と本音に関わる部分をぶつけてきます。
 ローマに税金を納めることは、イスラエルをローマが支配することを認めることであり、また神を自称するあるいはそれに等しいようなことをする皇帝をやはり神として認めるような行為だという律法解釈が成り立つものでした。しかしまた、税金を納めないとなると、ローマ帝国の属国としての立場上、帝国に反逆する行為であるとして、民衆をかどわかして決起する指導者であることになるわけで、たびたびローマを手こずらせている反乱の首謀者として訴え出ることができることになります。まさにユダヤの指導者たち自身がこういう問いを投げかけられて然るべきであるのに、彼らはこれをイエスにまともにぶつけるのです。どちらを答えても、訴える口実ができると睨んだファリサイ派の魂胆でした。
 マタイのイエスはしばしば「偽善者たち」(マタイ22:18)という語を使います。マルコには、呼びかけではないケースで一度だけ登場するこの語を、マタイは好んで何度も呼びかけのときに使います。ルカだと、二度呼びかけに使っていますが、ファリサイ派を相手に言っているのではありません。マタイ特有と見てよい表現です。仮面をつけて演技する俳優のことですが、日常的にそれは自らを隠して善人のふりをする、まさに偽善者を意味する使われ方をしました。
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「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)

2010-08-15 | マタイによる福音書
 さて、王は、婚宴の広間に入場しました。そして、集められた客をまじまじと見ます。新共同訳の語順は直して読んでみましょう。そのときの様子が生き生きと思い描かれるのではないでしょうか。そこに、「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」(マタイ22:11)です。王はそれを見て、「友よ」(マタイ22:12)とまず呼びかけます。マタイにとり「友」と呼べるのは、たしかに教会員であり、クリスチャンです。王は、礼服を着ていないことをその者に尋ねます。しかし、その人は黙ったままです。「沈黙した」という意味の語が使われています。神が沈黙するというのは私たちが感じることがありますが、神の前に人間が沈黙するとはどういうことでしょうか。一考の余地があるでしょう。
 審きは直ちに下されます。「この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ22:13)というのですが、これはかつてユダヤ人相手にぶつけられたイエスの言葉だったはずです。マタイが好んで幾度か取り上げた表現形式です。おそらく「側近」(マタイ22:13)というよりも仕える者たちのはずです。たんなる召使いのような者にこそ命じたのでしょう。ただ、奴隷ではなかったということで。
 マタイは、ここで重要なファリサイ派との対決を閉じることになるのですが、それでもなお、ファリサイ派だけを蹴散らしているのではないことがだんだん分かってきます。締めくくりに「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(マタイ22:14)とあるのは、当然ユダヤ人たちを招いたという点が含まれていると同時に、やはりクリスチャンも招かれた上になお、相応しくない者がいることが書かれている点を否む理由はないだろうと思われます。
 貧しい者や虐げられた人々を片端から招いたルカ的なたとえではもはやありません。マタイは、はっきりと教会に警戒を与えています。マタイにとり、律法が救いの条件です。そのためには、教会に属さなければなりません。教会組織の秩序に従って生活をしなければならないのです。そこには、毒麦のような者も混じっています。しかしとにかく、教会にいなければ天の国には入れないのです。教会には、十分に教会に従い得ない者がいます。それが、礼服のない者です。教会に属していながら、教会にとことん忠実を果たせないでいる者は、最終的には、神に拒絶されてしまうことになる、というのです。
 教会にせっかく招かれた人もまた、かつてのユダヤ人のように、それからの態度次第によっては、選ばれないことになってしまう、という警告を与えていることになるのでしょう。狭い門にしろ、地の塩にしろ、マタイの狙いは、ここにあったと見るほかはありません。ですからこのイエスの説教のまとまりに、教会内部への警告を発しているとすべきなのです。
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「ふさわしくなかった」(マタイ22:8)

2010-08-14 | マタイによる福音書
 ところでマタイはこのたとえの主人を「王」としていました。ルカは、「ある人」(ルカ14:16)でした。もともとルカは、ユダヤの事情に疎い側面がありますから、しばしばこのように具体的な印象を避けるために「ある人」を登場させてきていますが、マタイは逆にユダヤの事情に詳しすぎますので、ユダヤ人にズバッと斬り込むのに相応しい描き方をしてくることになります。つまりここでは、「王」というイメージが、事態を誤解無く伝えるために相応しかった、と判断しているのです。
 そこで、話の内容は似ているようで、伝えている意図は全然違ったものになってしまっていると言えます。
 王は奴隷たちに「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった」(マタイ22:8)と言い、新たに「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタイ22:9)と命じました。しかし、ルカの「ある人」は違います。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(ルカ14:21)でした。ルカにより福音は、こうした人々に率先して伝えられ、また受け容れられていくという描かれ方をしていました。しかしマタイは、ここで福音を伝えようなどという悠長なことを言っているのではありません。当然、そのような虐げられた人々をわざわざ挙げるようなこともしません。ただ「家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」(マタイ22:10)というのです。マタイは、「悪人」をも集める、というのです。
 ということは、ここまでの構図が、ユダヤ人たちを招いていたのに受け容れなかったのでユダヤ人たちは町ごと焼き払われたのだが、新たにクリスチャンが招かれた、という形になっているのに、そのクリスチャンは皆が善人ではなく、悪人も混じっている、ということになるのでしょうか。ルカなら、それでもまだ足りないからもっと集めろと畳みかけられるのに対して、マタイはクリスチャンが招かれた時点でめでたしとは決してせずに、ここから続きが設けられています。マタイ独自であるだけに、ここにこそ、マタイが言いたいことが詰まっていると見ることができそうです。
 なぜ、マタイは「悪人」をも集めたのでしょう。「悪人」とは誰なのでしょう。ここの解釈は、古くから議論が多かったのだといいます。一度洗礼を受けたクリスチャンはもはや審かれることがないのだ、とするならば、ここにクリスチャン像を読み込むことはしたくないわけです。
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「招いておいた人々」(マタイ22:3)

2010-08-13 | マタイによる福音書
 もう一つたとえが続きます。
 例によって、神の国は「天の国」(マタイ22:2)とされていますが、今回はもはや、最初の頃のように、是が非でも求めていくものという形で紹介するのではありません。ここには厳しい審きが記されています。それは「ある王が王子のために婚宴を催したのに似てい」(マタイ22:2)と言いました。
 王は、婚宴のために人々を呼び集めました。例によって、これは「奴隷たち」を用いているのであって、「家来たち」(マタイ22:3)というイメージとは違います。数多く派遣した様子が分かります。しかし、招いておいたはずの人々が、来ようとはしませんでした。
 王は、別の奴隷を遣わします。おそらく、次々と預言者を遣わした神の姿を反映されています。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」』(マタイ22:4)という言葉は、もちろん神の招きです。と同時に、それは最終局面ですから、神の審きとなっています。細かすぎる比較は禁物ですが、ここに祝宴の時が来たのです。しかも、それは「招いておいた人々」(マタイ22:3)でした。これは、ユダヤ人を表すのだ、というのも一つの解釈だしその通りだと思いますが、マタイは、ユダヤ人に限定しているのではないという理解が必要だと思われます。
 ルカの場合、同じ主旨のたとえが14章に展開していますが、そこでの生き生きとしたやりとりとは異なり、マタイは結論を端折るように、畑や商売に行く人の姿を描いています。しかも、「他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」(マタイ22:6)という残虐な場面を描いています。預言者たちを迫害した姿は当然ここに読み込まれて然るべきでしょう。イエスを殺したユダヤ人の姿を彷彿とさせるのみならず、複数形でもあることから、いまイエスの救いを伝えるキリスト教徒が迫害されている姿が描かれていると見ることができるでしょう。いまなお、クリスチャンたちは、ユダヤ人たちに迫害されているのです。ユダヤ教の一派のように見られていた時代が過ぎ、第一次ユダヤ戦争の後に、明確にユダヤ教徒は違うものとして追われる立場になっていました。
 この過激な仕打ちに対して、マタイは王の側も強攻策に出ることを告げます。「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」(マタイ22:7)というのです。尋常ではありません。もはやこの「たとえ」の中のエピソードに留まることがなく、完全に、マタイの思い描いている壮大な終末の姿がこの話を支配しています。ローマ軍がエルサレムを焼き払う姿を描いていると理解して、問題はないでしょう。つまり、マタイはこの事件以降にまとめられている福音書なのです。
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「隅の親石」(マタイ21:42)

2010-08-12 | マタイによる福音書
 ところで、イエスは、それは「書かれたもの」すなわち私たちが呼ぶところの「聖書」にこのように書いてあったのだ、いえ、書いてあるのを読んでいないのか、と挑発的な言い方で示します。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」(マタイ21:42)と、詩編118:22-23を引用しています。「親石」というのは、建築上何のことであるのか、ちょっとイメージが湧きませんが、これがまたユダヤ人にとっては躓きの石になったのは確実で、イエスがそれであることも間違いないでしょう。「不思議」というのは、驚く思い、どこか怪しむ思いも含む言葉ですが、ここでは奇妙に感じているというような感覚ではなく、実に驚くべきことであるという気持ちが伝わってくるところです。神の業は、私たちにとり、たしかに不思議なことでしょう。
 ユダヤ人たちが退けられることをはっきり伝えた上でイエスは続いて「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」(マタイ21:44)と告げます。このフレーズは、共観福音書にこぞって掲載されていますから、当時の教会でよく口にされた有名な箇所だったのでしょう。これぞまさに自分たちの立場を護る預言である、と見なされたのではないでしょうか。しかし、重要な写本の中には、この節が抜け落ちているものがあります。ルカにはありますから、マタイとルカとの関係を探るのに持ち出されることがある箇所だそうです。
 細かく言えば、「打ち砕かれ」というのは、ぺしゃんこに潰される様子を表す語であり、「その人が押しつぶされる」のは、石がその人を砕いてしまう、という書き方がしてあります。悪人がもみがらに過ぎず、風により吹き散らされてしまう、という詩編の表現がありますが、そのような姿をここで用いているのです。
 ここまで露骨に言われて「祭司長たちやファリサイ派の人々」(マタイ21:45)が、自分たちのことであると気づいたというので、どこか鈍感に聞こえますけれど、これは段取りの問題でもあるでしょう。途中からわなわなと肩を震わせている様子が想像されます。ただ、長老がファリサイ派に入れ替わったところは、注目して然るべきでしょう。律法学者になることにあります。これらはもちろん区別のある言葉ですが、実質的にファリサイ派が律法学者のすべてであるような状況もありましたでしょう。もちろん、ファリサイ派の中の学者が律法学者であるので、全く同一とするのも問題があります。長老となると、議会議員のことですから、これは若干差異があります。
 この「祭司長たちやファリサイ派の人々」という表現は、ヨハネの福音書の得意とする書き方です。ヨハネ福音書には、「律法学者」という語が登場しません。その意味で、マタイはこの敵に対して多彩な表現をとりますが、ヨハネは一貫していると言うことができます。
 彼らは「イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」(マタイ21:46)というところで、マタイはこの二つ目のイエスによる逆襲を閉じます。彼らはイエスにはっきりとした敵意を抱きます。しかし、群衆の手前、手を出すことができなかったのだという説明がなされます。イエスが「預言者」と見なされていた故でもありました。
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「神の国は……それにふさわしい実を結ぶ民族に」(マタイ21:43)

2010-08-11 | マタイによる福音書
 ところが農夫たちは、「その息子を見て話し合った」(マタイ21:38)のでした。この具合が、こそこそとイエス殺害計画を練るユダヤ人権力者たちの姿をぴったり現しています。その相談内容は「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」(マタイ21:38)というものでした。原文でも、「さあ、殺そう」といきなり殺意を明言しています。この不気味さは、相続人であるがゆえに、殺そう、という言葉から伝わってくるとも言えるでしょう。
 ひたすら「そして」とつないだ上でマタイは「息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった」(マタイ21:39)と描きます。マルコは、先に殺してから、ぶどう園の外に出しましたが、マタイは、ぶどう園の外で殺します。ぶどう園を汚さないための配慮ではないかと思われます。律法の規定に関しては実に細かいマタイです。
 そうしてこの後、マタイは珍しく、マルコよりも記述を引き延ばします。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」(マタイ21:40)というイエスの自問自答形式を、祭司長たちの返答という形にして描くのです。そのことにより、彼らの考えがはっきりと浮かび上がります。彼らは自分たちの姿を、「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない」(マタイ21:41)と、自ら告白するような形になってしまうのです。
 悪人どもは退治され、ほかの農夫に賃貸しするようになってしまう、というのですから、まさにイエスが言うように、「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ21:43)ことになるのです。
 ここでついマタイが「神の国」と、自ら禁じているような書き方をしている点が気になります。どうしてだか、いろいろ議論もあるようですが、判然としないのが現状です。また、ここで「民族」という言葉も目を惹きます。「国民」というよりもやはり「民族」です。異邦人を指すときに複数形で使われる言葉ですが、ここは単数形です。マタイは、ユダヤ教徒からキリスト教徒に神の国が移ることを明言しているのです。そのときに、異邦人を含む形でキリスト教徒が描かれていることも間違いありませんが、従来のユダヤ人がキリスト教徒になってはならないというふうなことはありません。新たなクリスチャンの共同体、新たな教会がこのようにして神の名を受け継いで成り立ったことがイエスの口を通して宣言されることになりました。
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預言者はたくさんいた

2010-08-10 | マタイによる福音書
 第二のたとえもまた、ぶどう園が舞台です。これは、マルコにもほぼこのままある記事です。そしてイエスは、相変わらずこの祭司長たちに向けて語っている設定になっています。今回は、さらに彼らが何をしたのか、あるいは何をしようとしているのか、という点を暴露しようというものです。
 主人がいました。ぶどう園を丁寧に築いた様子までが語られます。これもまた、細かい比較をすべきではないと分かってはいるものの、神が世界を愛情をこめて創られた様子を感じとることができるのではないでしょうか。主人は「これを農夫たちに貸して旅に出た」(マタイ21:33)のでした。「旅」とは悠長ですが、何か遠い国に行ったという程度の言葉だと思います。不在にしたこと、そしてそこを農夫たちに任せていたことがポイントです。
 収穫の時期が近づきました。「僕」は例によって「奴隷」の語です。ここでは複数になっています。これは、表すものが決まってくるので、解釈を施すべきです。つまり、マルコが一人一人遣わした奴隷という形で、一人一人現れた預言者たちを示したのを、マタイはとにかく預言者はたくさんいたのだということを示そうと、ぽつぽつとではなく大勢登場させたのだと思われます。
 すると「農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した」(マタイ21:35)のでした。訳では「だが」が冒頭にありますが、むしろ「そして」があるとすべきでしょう。「すると」でもよいのですが、これを「だが」にすると、主人の側に立ちすぎた視点になってしまいます。ユダヤ人たちの視点を見せつけるためには、「そして」のまま素直に訳してよいのではないでしょうか。
 なお、「石を投げつけた」だけの語が元々あるのですが、それは殺害の行為ですから、訳のように「石で打ち殺した」で差し支えはありません。
 主人は、続いてさらに多くの僕たちを送ります。ここもまた「そして」の語が使われた上で、結果は同じでした。
 主人は「最後に」(マタイ21:37)とっておきの手段を講じます。「『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った」(マタイ21:37)のでした。「私の子」を送った主人すなわち神の思いは、イエスを遣わした父なる神に重なってくるものです。しかもそれは最後の手段なのでした。
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「義の道を示したのに」(マタイ21:32)

2010-08-09 | マタイによる福音書
 イエスはこの状況を示した上で、問いかけます。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」(マタイ21:31)と。答えは明瞭です。イエスが、バプテスマのヨハネについての質問にまともに答えなかったように、彼らもこの問いに答えず別の反論をもってくるというふうななりゆきにはなりませんでした。あまりにも明瞭だからでしょう。彼らは、第一の者だと答えました。
 これに対してイエスは、「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ21:31)と、アーメンを持ち出して答えました。これにより、最初に声をかけられたときに拒否したのが、虐げられている徴税人や娼婦たちのことを表し、口でだけよい返事をしておきながら結局のところ行かなかった者が、ユダヤの権力者たちであることが浮き彫りにされました。そのことを念を押すように、「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:32)と根拠づけます。ここでもまた、バプテスマのヨハネの重要性が明らかに示されます。「義の道」は、ルカにも見られない、いかにもマタイ的な付加です。バプテスマのヨハネは、神の義に至る道標となっていたのです。その道はイエスであり、イエスが完成する律法が、人が辿りうる救いへの道となっているのでした。
 ところで写本によっては、この二人の様子が前後逆に置かれているものがあるそうです。最初にユダヤ人が誘われて拒絶した、というのが事の順序としては妥当だろうと判断されたのでしょう。また、兄と弟という新共同訳の決定は、通常兄よりも弟を優先する表現をとる聖書の一般的傾向に反している点も気になります。
 重要なのは「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る」(マタイ21:31)という点だと考えられます。これは、この人たちが先に入るから、権力者たちは後から入る、という意味ではなくて、先に入る者だけしか入れないことを含んでいる表現です。律法の目先に従っているように見せかけておいて、実は神の本当の誘いに乗り従っていないエリートたちは、神の国には入れない、と言っていることになります。
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「あなたたちはどう思うか」(マタイ21:28)

2010-08-08 | マタイによる福音書
 マルコにはないイエスの話をマタイが紹介します。ルカには、このたとえのまとめの部分に類する記事が7:29-30にありますが、息子二人の有様は、マタイ独自です。
 ここから次章にわたって三つのたとえが展開されますが、いずれも、イエスをダビデの子と認めない祭司長たち権力者たちに対する批判となっています。
 イエスは「あなたたちはどう思うか」(マタイ21:28)と、祭司長や民の長老たちに向かって問いかけます。今度はイエスの側からの宣戦布告です。たとえの設定は「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った」(マタイ21:28)から始まります。ただ、「兄」とは明言されておらず、原語では「第一の者」という意味です。ぶどう園に働きに行くように父が命じます。たとえ話はあまり細かい設定を詮索してはならない暗黙のルールがありますが、何かしら収穫を期待する場として、この世に遣わされていく有様をイメージすることは可能でしょう。
 その第一の者は、この命令を拒否しました。「いやです」(マタイ21:29)と訳されていますが、「私はそうしたくない」というふうに返事をしています。あなたの願いを私は受け容れない、という拒絶です。逆にそれが「したい」であるならば、喜んでしましょう、という意味になります。この第一の者は、はっきりと自分の意志として、それを拒んだという点を確認しておきましょう。しかし、「後で考え直して出かけた」(マタイ21:29)のでした。
 父は、第一の者の拒絶を受けて、ということでしょう、「弟」(マタイ21:30)にも同じように言いました。原語では「もうひとり」です。こちらは、「お父さん、承知しました」(マタイ21:30)と答えています。原文では「私が、主よ」となっています。「私がします」という意味で、特別な用法ではなく、肯定の返事としてよくなされるものだと言われています。また、「主よ」とあるのは、もちろんこの父親が神を表しているからであって、通常父親にこのように呼びかけることはないだろうと思われます。訳しにくいのですが、「主よ」には味があります。しかし、この口でよい返事をした者は、結局「出かけなかった」(マタイ21:30)のでした。
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「分からない」(マタイ21:27)

2010-08-07 | マタイによる福音書
 マタイはこのエルサレムでの出来事を続けて記述することで、立て続けにイエスと権力者との対立を明確にしていきます。イエスは境内に入り、教えを語っていました。マタイにとり、イエスは癒しの業や説教や、とにかく何か立派なことをしていないといけないかのようです。
 今度は「祭司長や民の長老たち」(マタイ21:23)が近づいてきます。律法学者がマルコには加えられていましたが、マタイにはそこまでは必要なかったのでしょう。ここに必要なのは、権威者であって、一介の学者ではなかったのでしょうか。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」(マタイ21:23)とイエスに尋ねます。
 イエスはダビデの子として迎えられました。マタイにとっては、その権威で十分なのです。しかし、いちじくのように実のならないものとして退けられたユダヤの権力者たちには、それが理解できません。必要なものは「権威」でしょうが、その源については尋ねなければ分からないほどだったのです。
 イエスは、まともに回答しませんでした。たんにかわしたというのではなく、問題の本質を明らかにするために、質問の前提をはっきりさせる試みです。イエスからの問いかけにも答えてもらいたいというのです。それは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(マタイ21:25)というものでした。マタイにとりヨハネは、イスラエルの伝統を受け継ぐための大切な指標でした。その名がここで用いられます。すでにこの世を去ったヨハネですが、マタイはヨハネの登場を、場面の重要な展開の中で理解して福音書に登場させていましたから、ここもそれを少し意識してみたいところです。つまり、話の中でのみとはいえ、この神殿でヨハネの名が登場したことで、イエスの使命が明確になり、権力側との論争が激しくなること、そして受難への歩みが強まっていくことを示すというのです。
 イエスのこの、ヨハネの出自を尋ねる問いは、もちろん彼らには答えられない性質のものでした。天からであれば、彼らはヨハネを拒んだことを説明できません。人からであれば、民衆を敵に回すことになります。彼らは「分からない」(マタイ21:27)と答えざるをえません。それで、イエスもまた、自分の権威を明かすことを「分からない」ままに留めておこうということになるのです。多分に、聞いても理解しないはずの相手ですが、これは、聞く側の心の持ち方により、福音がどう響いていくかを暗示しているようにも聞こえて興味深く思います。
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「信仰を持ち、疑わないならば」(マタイ21:21)

2010-08-06 | マタイによる福音書
 イエスはベタニアで宿泊し、再びエルサレムに戻ったということで、いちじくの木のエピソードが紹介されます。「都に帰る」(マタイ21:18)とあるのは語としては難しいようですが、細かい文法的な詮索は別として、ここはエルサレムに戻るイメージが伝えられているということで片づけておきます。もはや舞台はエルサレムなのです。
 イエスは空腹でした。例によってマルコの詳しい描写はかなり省略して、問題のいちじくに葉がなかったということだけが語られます。実がなっていないかと探すのはもう当たり前なので叙述しません。それで、イエスが「今から後いつまでも、お前には実がならないように」(マタイ21:19)と言いました。すると木は「たちまち」(マタイ21:19)枯れてしまいました。
 マルコはこのエピソードを二日がかりに分け、間に神殿の立ち回りを挟んだのと違い、マタイはその煩わしさを避けて一度で片づけようとしたために、翌朝枯れていたという悠長なことはできなくなり、即座に枯れたとしなければなりませんでした。その代わり、この出来事の記述はたいそう簡潔になりました。
 どちらにしても、ここで「いちじく」が持ち出されたのは、まさにユダヤ人たちのことを意味しているに違いありません。いちじくは、イスラエルを象徴しています。それが、実を結ばないのです。もはやユダヤ人だからという理由で、神の栄光をたたえる輝きが現れるということがなくなってしまったことの宣言となっています。イスラエルの律法や伝統はすべての基本であり支えであり、それはいつまでも遺るのですが、いわゆるユダヤ人だからという意味での特権は消滅する、というのがマタイの見解です。出来事ですからマルコも描いたわけですが、マルコが、いちじくの季節ではなかったことなどを説明していたのは、マタイにとり不要でした。マタイは端的に、いちじくを呪ったのです。
 マタイの描く弟子たちは、先生にきっちり質問をしてきます。「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」(マタイ21:20)と。イエスはこれに対して、アーメンフレーズまで用いて、「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」(マタイ21:21)と答えました。
 マルコで不自然に聞こえる「神の信を持て」という言葉が、「信を持ち」のように修正されています。修正したことで、却ってその句の力が減じたのでなければよいのですが。いったい、そのような「信」とは何のことなのでしょう。イエスがここで持ち出した「信」の力とは何でしょう。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタイ21:22)とありますが、マルコはこのあたりもっと詳しく具体的に、そして長く様子を記しています。それらを、癒しの物語を省略していくように、いとも簡単に簡略化していきそれでよかったのかどうか、疑問に思います。さらに、マルコがこの後に「赦し」の問題を加えてイエスの言葉を終えているのに対して、マタイでは、ここで終わっています。
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ユダヤ人の祈りの家

2010-08-05 | マタイによる福音書
 マルコが次にもってきた、いちじくの木の呪いの話は、一旦後回しにして、マタイは順番としてここを編集しました。商人を追い出す騒ぎを翌日に持ち越さず、入場してすぐさま、もうとにかくこうした清めのようなことは即座に粛清しておかないといけないと考えたのではないでしょうか。
 イエスは神殿の本来の姿を指摘しました。しかし、この神殿は、やがて崩壊します。ローマとの戦いにおいて、廃墟と化します。マタイは、明らかにそのことを知っています。イエスがここで商人を追い出して、神殿を清めた、というふうにだけ理解するなら、いずれ崩壊するこの神殿のために何を為したのだろう、とも思われるでしょう。イエスという神殿が十字架で壊され、しかも三日目に蘇るという今後の経緯を、この神殿での立ち回りに読み込むのは、重ねすぎでしょうか。
 商売人たちを追い出し、両替人の台や鳩売りの腰掛けを倒します。かなりの暴挙です。そして「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」(マタイ21:13)と言いました。句はイザヤ56:7からの引用ですが、マタイらしく、マルコにあった「すべての国の人の」(マルコ11:17)を省き、祈りの家が専らユダヤ人のものであることにしてしまっています。異邦人を含む表現は我慢できなかったのでしょう。
 さらにマタイは、「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた」(マタイ21:14)と、名も無き人々の癒しの記事をここに急遽挟んでいます。手っ取り早く奇蹟を示すのですが、それは次の「祭司長たちや、律法学者たち」(マタイ21:15)が、どのようにしてイエスに憎しみを抱いたのかの背景をはっきり描きたかったからではないでしょうか。マルコのように、明確な殺意をここには記していませんが、「腹を立て」(マタイ21:15)と、怒りの感情を抱いたといいます。癒しの業は奇蹟というよりも「不思議な業」(マタイ21:15)であり、通常の奇蹟の語とは変えてあります。人には理解できない神の業という感じでしょうか。権力者やエリートたちが、「ダビデの子」だという理解ができていないことを感じさせるようにも思います。
 子どもたちまでが「ダビデの子にホサナ」(マタイ21:15)と叫んでいたことで、彼らは立腹しました。これが聞こえるかとイエスに彼らが言ったので、イエスは「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」(マタイ21:16)と答えます。詩編8:3です。七十人訳そのものを引用するのは、わりと珍しいことです。すべては聖書に基づいて、神の御心の中を進んでいきます。弱い立場の者たちもこぞってイエスを迎え入れる様子がここに感じられます。
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