イエスの解答は明瞭でした。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」(マタイ22:29)というのです。復活というのは、人間が地上でちまちまと考えているような枠の中で行われることではない、というのです。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マタイ22:30)というわけです。
しかし、天使のように、とはどういうことでしょうか。それは、罪の内に律法の規定を与えられたままの人間とは違う、ということです。神の直属である限りは、地上の規定に束縛されることはありません。もっと自由でしょう。この天使という表現は、さらに追究すれば様々な角度から論じることが可能です。聖書を読み解く上でも、ユダヤ的な捉え方や発想ということと共に、大いに論議されて然るべき概念ではないかと思います。単純に私たち現代人のイメージで捉えてそれでよしとするのは危険なことだと言えるでしょう。
イエスは「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか」(マタイ22:31)と言い、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マタイ22:32)と、マルコと同じく出エジプト記の3章から4章にかけて現れる語句を示しますが、もはや、マルコのように、モーセの柴の箇所であるなどと説明をすることさえ疎ましく思うのか、マタイは対話を早々に終わらせます。もうサドカイ派の時代ではないからでしょうか。
すでに死んだとされているアブラハム、イサク、ヤコブの名を持ち出すからには、彼らは生きているのだ、という論理ですが、私たちにはピンとこないというのが正直なところであるような気がします。神のもとで彼らは生きている、というのです。これは、すでにユダヤ教における一つの見解として成立していたようで、イエスがわざわざ発見したのではないというのが一般的な理解です。
ともかく、群衆はこれを驚きと共に聞いたというのですから、ユダヤ人たちに与えた影響は小さくはなかったのでしょう。
復活は、キリスト教において重大な要です。しかし確かに、旧約聖書で復活というのがどれほどの教義になって定着しているのかというと、分からないところがあります。だからかそ、神殿祭儀を司るサドカイ派にとっては、復活が否定されていたことになるのでしょう。神は地上でイスラエルを救い、永遠の地を与えると考えていたのです。イスラエルはまさにその地を継ぐことになり、継げない異邦人は永遠の火に送られることになるのです。キリスト教の復活は一定の教義として安定していると思われますが、はたして旧約との関係の中でどうなるのかは、まだ調べてよい事柄であるのではないでしょうか。サドカイ派が福音書で地味な扱いしか受けていないのは、福音書執筆時代の要請でもあるわけでしょうが、ファリサイ派が認めていた復活観は、もっと明らかにされてよいのではないでしょうか。
しかし、天使のように、とはどういうことでしょうか。それは、罪の内に律法の規定を与えられたままの人間とは違う、ということです。神の直属である限りは、地上の規定に束縛されることはありません。もっと自由でしょう。この天使という表現は、さらに追究すれば様々な角度から論じることが可能です。聖書を読み解く上でも、ユダヤ的な捉え方や発想ということと共に、大いに論議されて然るべき概念ではないかと思います。単純に私たち現代人のイメージで捉えてそれでよしとするのは危険なことだと言えるでしょう。
イエスは「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか」(マタイ22:31)と言い、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(マタイ22:32)と、マルコと同じく出エジプト記の3章から4章にかけて現れる語句を示しますが、もはや、マルコのように、モーセの柴の箇所であるなどと説明をすることさえ疎ましく思うのか、マタイは対話を早々に終わらせます。もうサドカイ派の時代ではないからでしょうか。
すでに死んだとされているアブラハム、イサク、ヤコブの名を持ち出すからには、彼らは生きているのだ、という論理ですが、私たちにはピンとこないというのが正直なところであるような気がします。神のもとで彼らは生きている、というのです。これは、すでにユダヤ教における一つの見解として成立していたようで、イエスがわざわざ発見したのではないというのが一般的な理解です。
ともかく、群衆はこれを驚きと共に聞いたというのですから、ユダヤ人たちに与えた影響は小さくはなかったのでしょう。
復活は、キリスト教において重大な要です。しかし確かに、旧約聖書で復活というのがどれほどの教義になって定着しているのかというと、分からないところがあります。だからかそ、神殿祭儀を司るサドカイ派にとっては、復活が否定されていたことになるのでしょう。神は地上でイスラエルを救い、永遠の地を与えると考えていたのです。イスラエルはまさにその地を継ぐことになり、継げない異邦人は永遠の火に送られることになるのです。キリスト教の復活は一定の教義として安定していると思われますが、はたして旧約との関係の中でどうなるのかは、まだ調べてよい事柄であるのではないでしょうか。サドカイ派が福音書で地味な扱いしか受けていないのは、福音書執筆時代の要請でもあるわけでしょうが、ファリサイ派が認めていた復活観は、もっと明らかにされてよいのではないでしょうか。