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エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「忠実で賢い僕」(マタイ24:45)

2010-09-18 | マタイによる福音書
 この主人が帰宅するイメージをそのまま受け継いで、さらにイメージを膨らませます。とくに言っている内容について新しいというほどのことはないのですが、より現実の有様を思い描くことによって、再臨ということについて、重要であることを深く心に刻む必要があるのだと伝えています。
 つまりこれは、学校でもよく話をもっていくテクニックであって、まず一般的な話を長々とします。それからおもむろに視点を換えて、子どもたちに直接問いかけるのです。さあ、いったい、このお話のようにごほうびをもらえる良い子は誰でしょうね、と。子どもたちは、自分こそ、と思い、手を挙げます。このやり方です。
 イエスが「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか」(マタイ24:45)と問いかけます。これはまさに、弟子に対して、そして読者に対して直に問うていることになります。
 例の如く、たとえに対して、その細かな部分にまで意味をあてはめようとするのは、正しい態度ではありません。この「時間どおり」とは何か、「食事」とは何か、という具合です。しかし、何のイメージもなしにこうした具体的な例が挙げられているというのも考えにくいものです。つまり、これは当時の教会の様子を思い描かせるに十分な情報だった、という推測です。「家」は教会を表します。教会で賢く管理をしている人を褒める言い方だったというわけです。マルコが「門番」(マルコ13:34)とあるのを、マタイやルカは、このような形に変えたように見えるのは、教会組織の成立と関係があるのではないか、ということです。
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「人の子は思いがけない時に来る」(マタイ24:44)

2010-09-17 | マタイによる福音書
「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(マタイ24:42)というのが結論です。マルコだと、たとえの中にいるように、家の主人の帰宅を伝えているのに対して、マタイでは、はっきりと「自分の主」(原文では「あなたがたの主」)だとしています。これはキリストを明確に伝えているということです。マルコで同じ語を「主人」としていても、マタイは明らかに「主」で然るべきだと思われます。
 しかし、主人の帰宅の話にさらに「家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう」(マタイ24:43)と泥棒のことを持ち出してきます。マルコが、ただ眠っているところに主人が突然帰るだけでは説得力がないとでも考えたのか、マタイは、目を覚ましていることが、泥棒のためにも必要であることを細くしています。面白いのが、この泥棒、原文では「家に穴を開けて押し込んでくる」という意味の語で書かれてあることです。当時よくあったことなのでしょうが、こういう表現はぜひ訳出してほしかったと思います。
 とにかく「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(マタイ24:44)ということで、教会員にマタイは気を引き締めるように伝えているとも理解できます。
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「ノアの時と同じ」(マタイ24:36)

2010-09-16 | マタイによる福音書
 父のほかには知る者がないのは何故でしょうか。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである」(マタイ24:36)という理由からです。ここでノアを事例に持ち出したのは、マタイのみです。ルカは、17章という別の脈絡で、ノアの例を紹介しています。類似の資料があるのかもしれませんが、ルカのほうがより膨らんだ内容を示しています。
 ノアにはある程度分かっていたことも、他の人々には全く知り得ないことでした。ノアでさえ、明確に日時を知っていたとは言えないのですから、おぼろげながらもその時を覚え準備だけをしていたノアの姿は、今日のクリスチャンの姿に重なる、というわけでしょう。「食べたり」(マタイ24:38)とあるのは、動物がもごもごと食べている様子をイメージさせる語だとも言われ、ここでは人々がまともな人間ではないかのように描かれています。「めとったり嫁いだり」(マタイ24:38)の後半は、実はよく意味の分からない語だそうですが、大きく意味を外れることはないとのことです。
 こうして一般人たちは「洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(マタイ24:39)と、この再臨の場合との比較を意識しながら注意深く語られます。
 その明確な審きについて印象づけるために、「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(マタイ24:40-41)と、私たちの言葉で言う「天国と地獄」の差が際立たされています。共にいる二人だから同じところに行くというわけではない、という意味です。
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「その日、その時は、だれも知らない」(マタイ24:36)

2010-09-15 | マタイによる福音書
 終末のある側面を強調します。いよいよその日が来たらどういうことが起こるのでしょうか。キリストの再臨を待つ信徒たちは気になるところです。これがあまりにリアルに描かれるというのも問題があります。現代の新興宗教が尤もらしくこうした幻を騙り、そのリアルさによって、却って人々が信用していくという妙な現象があるからです。常識的に考えて、その権威者が思いつくままに出まかせを騙っているに違いないことが明らかであるのに、ある種の暗示にはまってしまった人々には、その教祖様が言うことはすべて真実であるに違いない、と信じられてしまうのです。いえ、それはキリスト教の範疇にも起こります。終末の幻を、この福音書の描写や黙示録に従って、権威ある者が毎週毎回言い続けることによって、信徒たちはマインドコントロールされてしまうのです。それは私も経験しています。恐ろしさのあまり、すべてにおいて教団に身を委ねてしまうことになるのです。外国でも、いつ終末が来るという説教を聴き続け、全財産を献げた末にその日になっても何も起こらないということで目が覚めた信徒が訴訟を起こしている例があります。さらに悲惨なのは、そのために集団自殺へ突き進むようなことです。これも現に多々起こっています。
 はたして福音書の時代にそれがなかったのかどうか、それは分かりません。いまほど情報が多岐に渡って行き届かない時代だったことが、はたしてどういう影響を与えたのか、分からないのです。パウロにしても、そうした性急な信徒が一部いることに触れていますから、私は現実にかなり問題行動があったのではないか、と推測しています。
 いくら聖書が「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(マタイ24:36)と記していても、その日のことを言い始める者によって、あわてふためいてしまうということがあるのです。原文は、「ただ父のほかには(誰も知らない)」となっています。ここでマルコの原文を見ると「父のほかには」なのです。しかし、新共同訳では、マルコも「父だけがご存じである」としており、マタイと同じに訳してしまっています。マルコには「だけ」はないのです。意味合いとして大きく変わったことにはなりませんが、これでは、訳そのものへの信頼が薄らぎます。このように勝手に語を替えてほかでも訳しているのか、と。
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「決して滅びない」(マタイ24:34,35)

2010-09-14 | マタイによる福音書
 マルコのように、いちじくの木のことが記されます。いちじくの木の生長により、季節が分かるというのです。夏が近づくことが分かるだろうということです。カレンダーに生きる現代人には、むしろ逆かとすら思われますが、ある兆候から時期を知るというたとえですから、それは素直に読んでおきたいものです。
 問題は、「それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マタイ24:33)という教えのほうです。マタイは、マルコに一言付け加えています。「すべて」です。これはルカにもありません。マタイはどうしてもこの言葉を必要としたわけです。それは、マタイにとって、終末が一種のプログラムとして明確に規定されていなければならない、という信念ではないでしょうか。そもそもマルコにおいては、何時であるのか、を明確に定めることを禁じ、むしろそれこそが異端の証拠とすらなるような響きで語られていたのですが、マタイはさすがに律法の徒です。一定の法則の中で定められたことが起こるに違いないという思いがどうしてもつきまといます。律法というのは、法則と同じもので、明確な規定を伴うものだからです。
 イエスは、アーメンの句を挟んで、「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」(マタイ24:34)と告げます。これは三つの福音書において共通する語句です。「みな」は、ルカのほかには入っています。マルコはさほど重要な言葉としてこれを意識はしていなかったはずですが、マタイは違うでしょう。この「みな」があるゆえに、これ幸いと先に33章にも「すべて」を入れたのではないか、とも推測されます。
 そして「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)との言葉で結ぶのですが、この句を欠いている写本があるといいます。重要な写本ですから、たんなるミスであるのかどうかも判断しにくいというのです。たしかに、マタイにとり、もしかするとなくもがなの一言であったのかもしれません。マタイにとり「わたしの言葉」というのが、律法だったとするならば。
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「天使たちを遣わす」(マタイ24:31)

2010-09-13 | マタイによる福音書
 そして、マタイはこれまでもそうですが、ここからしばらく、「人の子」という表現多く使います。これは黙示的な語と理解されています。終末を描くときに好んで用いられますが、マタイは必ずしもそうとは言えません。四福音書それぞれに用いられている語ですから、これは当然すぎるほど当然使われて然るべき語であるということにもなるのでしょう。案外、福音書のイエスを理解する鍵の一つが、この「人の子」にあるのかもしれません。
 その終末の姿は「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」(マタイ24:31)というものでした。ヨハネの黙示録はまだ書かれていないとは思いますが、それを思わせるような派手な演出です。あるいは、黙示録の著者は、このマタイの描写を膨らませていったのかもしれません。ただ、マタイの専門というわけではなく、パウロにしてもラッパのことなど描いており、そもそもユダヤ文化ではそういう表現がとられていたのではないかとも思われます。
 このあたり「選ばれた人」という表現も目につきます。真の選民は、もはんユダヤ人ではありません。しかし、すべてのクリスチャンというわけでもありません。まさに、「選ばれた人」でしかないのです。
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「そのとき」(マタイ24:30)

2010-09-12 | マタイによる福音書
 マルコにもルカにもある、終末の幻です。先にフライングしてマタイが稲妻のように人の子が来ると言いましたが、ここからが本論です。
 イエスが「その苦難の日々の後、たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(マタイ24:29)と言います。恰も旧約聖書からの引用であるかのように見えますが、直接の引用ではありません。ただ、ユダヤの黙示文学の中ではしばしば見られる表現や内容を扱っており、ユダヤ思想の全般から当然言えるようなことでもあるわけで、これがたんなるイエスあるいは福音書記者の創作だとする理由は何もありません。
 それ故、「たちまち」という言葉をマタイがわざわざ挟んでいるところに、マタイらしさも現れてくることになります。マタイは、偽キリストなどの出現からすぐに終末が来るという直結した見解を示していることになります。
 マタイは「そのとき、人の子の徴が天に現れる」(マタイ24:30)と書きました。マルコは、直ちに人の子が雲に乗って来ると記していました。マタイは兆候を示した後、「そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(マタイ24:30)と描きます。ルカにも似た雰囲気はありますが、マタイのように悲しむとまでは書かれていません。マタイは審きを念頭に置いているように見えます。
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「死体のある所には」(マタイ24:28)

2010-09-11 | マタイによる福音書
 では、真のキリストの再臨はどうなるのでしょうか。「稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである」(マタイ24:27)と言われています。神のイメージが豊かに語られます。これもまた、その文字通りに受け取りすぎると、そのことが偽キリストを生むことになりかねないでしょう。
 語録にあったのか「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」(マタイ24:28)は、マタイとルカに共通しているものの、ルカの取り上げ方はマタイと別の箇所で、となっています。このようにマルコを介していないものの、なおさらそれ故に、この言葉は確かなイエスの言葉として伝えられていたという可能性もあります。つまり、イエス自身にとり、神の国がどのように実現していくか、の一つのイメージがこのように語られていたかもしれない、ということです。それは、いつどのようにして起こるか全く分からないという性質を有しています。
 イエスの言葉は、ただ地上で「結構なお話」で終わるようなものではないことを表しています。このはげ鷹にしても、言おうとしていることがはっきり納得できにくいものとなっていますが、もしかすると、ここの流れとは別に考えて然るべき言葉であるのかもしれません。ただマタイとしては、そもそも偽キリストなるものも、それに引っかかる者がいるからこそ現れるのであって、そんなはげ鷹に食われるような死体であるな、と戒めていると考えたのではないでしょうか。そして、偽キリストの出現は、そうした裁きがいよいよ行われることの明確な証拠であると理解せよ、と言っているのではないでしょうか。
 なお、「はげ鷹」は意味としては合っていると思われますが、原語は「鷲」です。マタイが何故「鷲」と記したのか、そこを検討する余地があるのでしょうが、それをこの訳語では排除してしまうことになりました。
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「信じてはならない」(マタイ24:23)

2010-09-10 | マタイによる福音書
 こうした時代に、偽キリストや偽預言者が現れることが、今度はマルコよりもやや詳しく表現を付け加える形で、展開されることになります。「そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない」(マタイ24:23)というのですが、続く「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」(マタイ24:24)も、ほぼマルコ通りです。しかし、「あなたがたには前もって言っておく」(マタイ24:25)というところで、マルコにあった「一切の事を」(マルコ13:23)を削除しました。マタイはここですべてを言ってしまったという実感をもてないでいます。もしかすると、教会の中でこれから続きがまた教えられていくのだ、ということを続ける心理がはたらいているのかもしれません。
 マタイは「だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない」(マタイ24:26)と記しました。独自の見解です。細かな表現を具体的に検討するというよりも、要するに外に内にと偽キリストについて行くなということであり、日本語でいう「右往左往するな」にも通ずる戒めではあろうかと思われます。それでいて、それを信じてはいけないというのですから、人がただ「キリストだ」と自称したり噂を広めたりすることに惑わされるなということなのでしょう。
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「神は選ばれた人たちのために」(マタイ24:22)

2010-09-09 | マタイによる福音書
 ここから後は、マルコのたどたどしくも長く見える表現を、マタイは短くすっきりさせる努力をしているように見えます。「そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである」(マタイ24:21)というのは、先の冬と安息日でありませんようにとの祈りの理由です。いわゆる未曾有の苦難が来るというお触れです。
 続いて「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう」(マタイ24:22)とマルコに準じて記されますが、ここに新共同訳の問題があります。マルコはたしかに「主が」という主語を繰り返していて、これを新共同訳はマタイにおいて「神」としています。しかし、原文には「神」はないのです。マタイはマルコの文をうまく作りかえて、完全に受身の形にしています。もちろん、神が主体であることを表す受身ですから、意味は神がそうしたという受け取り方で完全によいのですが、マタイは、みだりに唱えてはならないという十戒を守ろうと努力していますから、滅多に「神」という語を使わないでここまできました。マタイが「神の国」などと特別に言うのは、よほど意図があるのか、あるいはらしからぬマタイのミスであるのか、どちらかの場合が多いのであって、ここでもマタイは極めて細かい配慮をして、なんとか「神」という語を使わないで済むように努めていたのです。それなのに、翻訳でいとも簡単に「神」を二度も使い、マタイの努力を水泡に帰すようなことをしてしまいました。この強引な翻訳は、いけません。「そしてそれらの日々が縮められないならばすべての肉は救われない。しかし選ばれた者たちのためにそれらの日々は縮められる」というのが原文の形態なのです。
 人間のことを「肉」と言います。これは意味としては「人間」で構いません。「選ばれた人たち」とは、本来ユダヤ人を選民と認識していた背景によるものでしょうが、すでにマタイにおいては、その地位はクリスチャンに移行しています。しかもマタイにおいては、クリスチャンの中でも、さらに救われる者が限定されていく構図がありますから、イエスを主と告白するのみならず、教会に従い律法に従って正しく生きるのでなければならないという教育をも、この福音書でしようとしています。
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「憎むべき破壊者」(マタイ24:15)

2010-09-08 | マタイによる福音書
 さらに大きな苦難が示されますが、エルサレムに対するローマ皇帝の暴挙を描くものと理解されています。現実を反映しないことは福音書としてもないわけです。マルコもまた、このことは理解しています。ひどい苦難を現実に経験したマタイは、マルコをどのように進展させているのでしょうか。
 マタイらしく、それはダニエルの預言にあることが触れられつつ、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(マタイ24:15-16)と告げられます。
 ここで「憎むべき破壊者」という言葉がありますが、これはダニエル書で幾度も現れる表現です。「荒らす、吐き気をもよおすようなもの」という言葉です。破壊者というわけではありません。これはアンティオコス4世のことを指していると言われ、神殿にゼウスの像を立てさせた事件のことを指しています。やがてユダヤ人はこれに抵抗し、マカバイ戦争での勝利でそれを撤去することができました。この事件をはっきり示しているだけに、マルコにしてもマタイにしても、これから先のことを告げたわけではない、とする見解もあります。確かに、福音書を歴史書としてしまうならば、そうでしかないでしょう。しかし、福音書は信仰の書でもあります。再びそのようなことが起こるのだということは、逆に、繰り返す歴史への見解としても、適切なものとなることでしょう。なにも、二百数十年前の出来事を改めてここに記しているわけではないのです。
 逃げよと示された「山」というのは、聖書の世界では、人が神と出会う場所を象徴しています。モーセの十戒が元来のイメージを形成しています。イエスも説教を山から下しました。マタイは当然この前提のために、山に座ったことにしているのです。あの説教集は、様々な時になされたものを編集しているに過ぎないはずなのに。
 神との契約を、あるいは救いを、「山」の中に見ることができますから、そこへ逃げよというのは、この迫害の時こそ、神のもとに行くべきだというわけです。
 続いてマタイは、マルコの叙述を辿り、当時の日常生活の様々な事例を挙げ、緊急の事態にはもはや何かをゆっくり準備するようなことはできないのだということを示します。
 興味深いのは、「逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」(マタイ24:20)というところです。マルコの文に明確に付加しているのはここだけで、「安息日」を入れているのが、極めてマタイらしいと感じられるのです。どんなに逃げまどうパニックの中でも、安息日だけは忘れないでいるわけです。安息日には、一定距離以上遠くに歩き出てはいけない規定になっています。マタイはそんなことを、こんな場合にも気にする考え方をしているのです。
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「偽預言者」(マタイ24:11)

2010-09-07 | マタイによる福音書
 キリストに従う者については、「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」(マタイ24:9)と注意が促されますが、マルコがまだ人々がユダヤ内にいるような記述をとっているのに対して、マタイでは天涯孤独な民族としてさまようかもしれない状態を暗示しているかのようにも見えます。引き渡されるときに、弁明をする場が与えられるかのような記述をマルコやルカはしていますが、マタイはそうした場のことを一切考慮していません。マタイの教会に属する者は、もはや弁解の余地も与えられないような事態に引き渡されていくのです。
 イエスの「名」のゆえに、ただそれだけのために、すべてほかの民族に憎まれることになるだろう、とさえマタイは言います。「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる」(マタイ24:10)と言いますから、この点は、教会の内部でこぼれていく存在があることを示唆していると言えるでしょう。マタイは時折、教会の中にいてもなおキリストに従う者としては偽物でしかない者がいるという意味のことを書きます。真に教会に従う気持ちがあるのかどうか、読者に問うているかのようにさえ見えます。
 先でも触れるにも拘わらず、「偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす」(マタイ24:11)ことをわざわざ先行的に述べますから、マタイにとり、これは大きな問題であったのかもしれません。これは、先の、自らをキリストと名乗る者とは少し違うのでしょう。自分はキリストではないにしろ、自分の語ることこそ神の言葉であり、聖書の唯一の解釈である、などと言い始める者が、たしかに歴史上頻繁に現れます。いえ、聖書が語られるところには必ず、そのように言う者がいるとさえ言えます。
 マタイ独自の言葉が流れる中で「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)というのは、心に残る一言ではないでしょうか。「不法」は、パウロは使いますが、福音書記者は使わない言葉です。律法に反するという意味なので、いかにもマタイ的です。律法に反することが、すなわち愛が冷えるということだというのです。もちろんこの愛は「アガペー」です。神の与えるような愛がすっかり冷たくなるのだそうです。
 こうしてようやくマルコの一つの結論部分である、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ24:13)に至ります。そして「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14)というのですが、ここはマタイによる見通しです。「福音」という語をマタイは単独では使いたがりません。しばしば「御国の福音」としています。この世界宣教については、マルコとは違う場所にマタイが移しました。マルコよりもなお、この福音宣教が、終末に強く結びついているように見えます。終わりが来るのは、まさにこの宣教がとどめをさすようなところにくるというのです。律法による秩序を重んじるマタイは、終末についても、整然とした順序や前提が存在するものとしておきたいのでしょうか。
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「戦争」(マタイ24:6)

2010-09-06 | マタイによる福音書
 イエスの返答はまず「人に惑わされないように気をつけなさい」(マタイ24:4)というものでした。それは、イエスの名を名乗る者が大勢現れるということです。「わたしがメシアだ」(マタイ24:5)と言うから、というのですが、ここで「メシア」つまりギリシア語で「キリスト」という語を出すのはマタイのみです。マルコも、そしてルカも「わたしがそれだ」としか言いません。まさにそういうことが現代に至るまで続いているわけで、この言葉の真実性については疑う余地がありません。
 マタイはマルコを比較的踏襲していくことになります。「戦争」(マタイ24:6)もその後世界に絶えることがありません。マタイが想像だにしないレベルで世界に戦争が続き、本当に世界を滅ぼしかねないだけの兵器がすでに地上に配備されています。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マタイ24:6)の文には、「なぜなら」の語が入れられています。原文の強い調子を伝えるためにも、ぜひ訳出してほしいものです。
 聖書の記者は揃って、「民」と「国」とを区別しています。民族的なものと、国家的なこととは、やはり当時からも区別されていたのです。必ずしも人々の憎しみや対立によるものではない、指導者たちのメンツや政策に左右される国の争いというものは、今なお続いています。私たちは歴史から何を学んでいるのでしょうか。
 マタイの微妙な修正によると、飢饉と地震とは別々のもののように聞こえますが、マルコやルカは、地震があって、飢饉が起こっているようにも見えます。あるいは、マタイだと、戦争との関係を感じさせるように見える、ということでしょうか。しかしこんなことはさして重要ではありません。地震という点では日本ほどの深刻なものがあるのか、と思われるかもしれませんが、イスラエルからトルコそしてヨーロッパにかけては、現代でも地震の多発地帯であることは間違いありません。たしかに、アラビアやエジプトではその危険性が少ないのですが、交通の十字路であるイスラエルでは、地震が多く発生しています。
 マタイは「しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」(マタイ24:8)と告げます。パウロもまた用いていますが、何かが新しく世に出るときの苦痛をこのようにたとえるものなのでしょう。マタイの時代、迫害されてすでにイスラエルの土地を追われた人々が、絶望感をもっていたことが推測されます。その苦しみが今すぐに終わるというふうな楽観を示すことはありませんでした。あるいは、マタイの目の前には、もっと苦しいことが現に起こっているのだから、と続きの描写を急ぐためかもしれません。
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「あなたが来られて世の終わるとき」(マタイ24:3)

2010-09-05 | マタイによる福音書
 マタイの福音書において、イエスはしばしば山に腰を下ろします。高いところから教えを下すイメージが大切だと考えられています。現れた弟子たちは、マルコが名を挙げているのに対して、マタイはそれを伏せました。もはや個人的な関心ではないのでしょう。ただ「ひそかに」というのは誤解を招きかねません。群衆を避けて尋ねたということです。これは、一般の人々に対してあからさまに言い広めるべきことではなく、信徒の間に知らされるということを意味します。教会のメンバーにだけまずきちんと伝えるべき内容だ、というわけです。
 それは「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(マタイ24:3)という問いでした。原文では「あなたの来臨と世の終わりのしるしは何か」というふうに名詞が並んでいます。この「来臨」を、クリスチャンは一般的に「再臨」と呼んでいます。再びキリストが来て世が週末を迎えるということです。原語そのものに「再」の意味は含まれていませんが、一度地上を歩まれたキリストが再び来るという内容からして、そのように訳すことにしているのです。この後マタイがイエスの口を通してその終末へ至る道筋を語ることになりますが、おそらくエルサレム神殿が崩壊しユダヤ人に迫害されるクリスチャンたちの姿を見て、マタイはこの審判がすぐにでもなされると考えていたのだと思われます。
 こうした終末観は、非常に切迫したものでありました。そこで、これを二千年を経た私たちがどのように読むかということが問題になります。それはマタイの錯視であったのか、それとも、マタイは自分の身に起こることとして預言したかもしれないものが、やはり後世その通りになるのか。もちろん、これはマルコの執筆を下敷きにしています。ただマタイは、マルコより後の時代であるだけに、より危機感を増していると言えるでしょう。
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「これらすべての物」(マタイ24:2)

2010-09-04 | マタイによる福音書
 律法学者とファリサイ派に対する火の出るような批判を、群衆と弟子たちに話して聞かせると、イエスは神殿を出ます。弟子たちがそれを追って来ます。何も特別に「近寄って来」(マタイ24:1)たわけではなく、イエスの前に進み出たというのが正解でしょう。いま、イエスはエルサレムについて嘆きました。マルコが、神殿は凄いですねと弟子たちに素朴なことを言わせていますが、マタイは弟子たちにそんなぶざまな有様を晒すことはよしとしません。あからさまに弟子たちの失態を述べたくないのです。
 弟子たちが奇妙なスタイルで指さしたエルサレム神殿に関して、イエスは「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタイ24:2)と答えました。
 マルコのように、神殿を見てそう言っているのか、というふうには言わずに、「これらすべての物」ときました。目に見える神殿ばかりでなく、その背後にある歴史や、今ユダヤ人がキリスト教徒を迫害している様子、それからユダヤ人に下された罰あるいは裁きとしての神殿崩壊の事実などを含みつつ、イメージさせているのではないでしょうか。つまりもはやこの福音書の読者は、すべて神殿が崩れ落ちたということを知っているのです。読者は、見ていますとも、知っていますとも、このエルサレム神殿は今や瓦礫となっているのです。
 しかし、それをただ見て知っているというだけでよいことにはしません。その意味を考えなさい。ユダヤ人は、イエスを「主の御名により来られる方」として歓迎しなかったのです。そのことのゆえに、エルサレムは崩壊しました。こうした事態すべての様子を、信仰により把握しなければならない、としているのです。
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