団塊世代 のアマチュア無線家

開局からの想い出と最近の出来事

QRT

2007年04月30日 | アマチュア無線
前稿(4/27)カーライフⅣでふれたマークⅡ時代(1985)から
車に無線機を積む事はなかった

同時に固定でのアクティビティーも下がりアマチュア無線は遠ざかる一方だった!

あれだけ好きで夢中になったアマチュア無線がドンドン離れて行った・・・

今振り返っても何が原因で何故そうなったのか?具体的に思い当たる節は無い

強いてこじつければ「環境の変化」と言う事になるか?

「仕事」「家庭」「世の中」全ての変化が自然とそうさせたのだ!

2007年4月30日現在、局免は死んでいない!近い将来(?)のQRV


ナンパ 163人!!

2007年04月29日 | アマチュア無線
開局以来QSOしたYL局数である

JA1:52 JA2:37 JA3:17 JA4:5 JA5:3
JA6:12 JA7:10 JA8:9 JA9:13 JA0:5 
TTL=163

そのQSLカードの一部を紹介します。(選別に他意は無い)

JH1AZI JH1CVY JA2FOS JA2FVQ JA2HSL 
JA2HQE JA2KKQ 

JA5BCS JA6CMA JA6FCK JA6KZI JA7DJK
JA8FAI JA0BRE JA0HMI
 まだまだ沢山あるが163枚はむり!
QSOした当時は皆若かった 今となってはみんなお婆さんか

コンテスト!?

2007年04月28日 | アマチュア無線
コンテストと言ってもミスコンではない

今から41年前(1966)の今日4月28日から開催された「第10回ALL・JA
7メガシングル部門で参加。電波型式はA1とA3のみだった。
24時間一睡もせず「CQコンテスト」結果は報われた

これを機に翌年翌々年(S41~S43)と3年連続優勝

(今更の事だが賞状上のS41が第10回でS42も第10回S43は第11回???)
この記録(?)はその後現在まで破られていないはずだ

この年(S41)は10月の第8回「ALL・CITY」(全市全郡)コンテストにも参加。
マルチチャンネルが当たり前のコンテストだが、無謀にも7メガだけで参戦
結果は「2位」優勝は元JA1OHV局だった。因みに3位はJA1MLY。

当時、オールシティ・コンテストは「JARL」と「NSB」(日本短波放送
が主催で協賛各社からの賞品もFBだった

時期ははっきり覚えてないが、「NSB」の番組「入賞者に聞く」(?)
とかでスタジオ収録に行ったことがあった。放送された番組を
オープンリールのテレコで録音し保管してあるがはたして???

また、翌年(S42)の第20回QSOパーティに参加。
正月早々、またまた寝ずに「CQコンテスト」7メガシングルで優勝

今ではとても考えられない遠い昔のことでした。

無線とカーライフⅣ

2007年04月27日 | アマチュア無線
1984年8月に発売された「X70系」の5代目マークⅡ
おりからのハイソカーブームの先駆車でもある白(スーパーホワイトⅡ)の
4ドアハードトップが売れに売れていた。

カリーナ1600GT-Rのトルクに物足りなさを感じ始めた頃だった。
出ました追加モデルのGT・TWINTURBO買っちゃいました
追い越し加速を堪能するあまり燃費はカタログ値の半分以下

最初の車検を迎える1988年、世の中バブルの絶頂期
マークⅡ3兄弟(チェイサー・クレスタ)も「X80系」にモデルチェンジ!

加速力の魅力は捨てがたく又してもGT・TWINTURBOを購入した
が、仕事上海外(DU)への駐在となり泣く泣く車は手放すことに・・・
DUではハンドルを握ることは無かったが、次の赴任地(VS)では
同僚T氏所有のMGで街中を走り回ったのが記憶に新しい!

帰国後、「X80系」3兄弟の末っ子(?)3代目クレスタ2L(H3年式のSLT)
2年半後に「X90系」の4代目クレスタ2.5L(H6年式のSLT)
このクレスタはマイナーチェンジ前の在庫セールで大幅値引きでGET
それがいけなかったのかH10年の正月早々の夜だった。
家まで数百m。前を走っていたセルシオが何故か急ブレーキ
クレスタも急ブレーキセルシオとの距離わずか10Cm位だったか(??)
「助かった!」と思った瞬間、後ろから来たシビックが止まりきれずに追突
玉突きでセルシオに追突サンドイッチ状態の我がクレスタ

事故原因はともかく前後バンパーを含め大修理となったクレスタに73.
3兄弟「X100系」の次男6代目チェイサー(2.5LツアラーS)に買い替え。
最終型となった6代目は歴代チェイサーの中でもっとも売れたモデルだった。

マイカー史上最長9年の歳月を経てチェイサーに
今年2月現有車アクセラスポーツにバトンタッチ。

蛇足だがマークⅡからアクセラまで全てAT車であった。
が全車とも無線機を積むことは無かった!

無線とカーライフⅢ

2007年04月26日 | アマチュア無線
2mもCH争いが激しくなり「攻撃的撤退」(何処かで聞いたフレーズ?)
とばかりローカルこぞって430にQSY
当時435MHz~440MHzはガラガラ状態だった
ローカルCHを438.38MHzに設定し固定モービル共VY QRL!
SINAD改善の為「ガリ砒素FET」のRF AMPにこだわり
「リピーターごっこ」をして遊んだのもこの頃か?
7メガを含めたHFはさっぱりQRTだった!何故か

1983年のある日の夜、通勤帰り京葉道路武石IC(何年か前の悪夢?)
出口で一時停止したところに追突されバンパー・トランクルームもペッシャンコ
ファミリアはこれでThe End

4ドアの使い勝手の良さが忘れられず次なる愛車は3代目カリーナセダンの
1800GT-Tツインカムターボ
1年もしない内にドアミラー車が解禁になりカッコ良さ(?)から同じカリーナの
1600GT-R(ツインカム16)に乗り換え(この4AGEUエンジンは良く回った
カリーナから又マニュアルミッションに逆戻り(○族復活か?)

無線機のスタンバイSWをハンドルに、マイクをサンバイザーにセットし
ハンドフリーで安全運転(?)を・・・

カーライフも現有車まであと6台!次回で完結予定

無線とカーライフⅡ

2007年04月25日 | アマチュア無線
1974年。千葉市にQSY後環境にも恵まれ,一時は家の周りに
3台のオモチャが転がっていた!

普段の足カリーナH/T、いじくり廻したB110(サニー2ドアセダン)
そしてTS仕様を目指したKB110(サニークーぺ)の3台である。

1978年、それまでの○走(?)がたたり免消しとなった直後に
カリーナH/Tは買取店へ売却

サニーの2台には愛着があり暫らくKeepしていたがある日、B110は
ローカルの元JA1HPH(K氏)にみそめられてお嫁入り

再免許から1年位はKB110と共に2m(144MHz)モービルにアクティブだった

1980年秋現在のQTHにQSY後、市川の会社まで片道20Km!
曲がりくねった裏道で無線と運転を両立させるには「オートマ」の方が良い
かもと言うことで次なる車はファミリアセダンのAT車だった。
初めてのAT車しかもFF(中年暴走族もここまでか?)
KB110は会社の同僚にQSY 73.

この頃2mも145.08MHzをローカルのラグチューCHにしていたが、
局数増加やFBなアンテナ設置局の増加の為、混信は増える一方で
グループ間でのCH争い(?)も勃発した(笑)

又、識別信号もどきの(スタンバイ・ピー)が流行ったのもこの頃か?
事実、「ピー音」を聞いただけで誰だか解ったものだ

常置場所遍歴Ⅱ

2007年04月24日 | アマチュア無線
U社入社後しばらくの間は川崎から東京をマタイで市川までカリーナで!
行き(朝)のルートは一定していたが帰りは気の向くままハンドルの向くまま・・・
最後は中原街道に入り丸子橋を渡ってとなるのだが・・・

2m(144MHz)でQSO中、首都高速芝公園近くでの受信混変調には
お手上げだった!(昔の敵討ちをされたか?)

そうこうしてる内に千葉市長作町(花見川区)の方へQSY!
京葉道路武石ICから北へ2Km弱(車で5分位)2DKの一軒借家!
家の周りに車4台の駐車スペースがあり、後の車イジリにはVY FBだった

7メガのアンテナは隣接する小学校の校庭の立ち木と電柱を拝借し10m高の
逆Vを建て川崎から持って来た物干し竿に144の7エレを縛りつけQRV!

リグも川崎時代そのままだった(2020が出来るまでは)

そして1980年の秋、待望のマイホームをGET現在に至る
千葉県八千代市京成バラ園のスーパーローカル)

引っ越した当時は周囲に酪農農家が数件ありのどかな場所だった
家の周りも空き地が多くHam Lifeには好都合だった
が、それも数年の命(?)だった

隣の空き地に15m高の逆Vを、ベランダに7エレをローテーター付きで建てた。

最初のシャック   落ち着いた頃のシャック
しばらくしてタワーを建て430メガがアクティブになり
元JA1HPHのモービルをローカル各局で追いカケッコしたのが懐かしく想い出される。

JA1CWD,JA1HPY,JA1NRA,JA1XQC,JR1SWD,JF1UBU,JG1DUQ,JI1ELM・・
何れも当時の免許人でアクティブだった!

JA1HPHやJA1NRAとは42~3年前7メガでQSOしたのが始まりで
アイボールは勿論のこと今だに(b+Ing)である。

20年ぐらい昔には毎週末と言って良いほど九十九里浜に釣りに出かけた。
ある日の釣果(石持ち62匹因みに今年は未だ未挑戦

常置場所遍歴

2007年04月23日 | アマチュア無線
開局時は言わずと知れた千葉県八日市場市(今年1月から匝瑳市になった)
今までの、人生の3分の1弱を過ごした生地でもある。

東京タワーから直線距離でおよそ80Kmの電界強度は弱くて7メガの
A3電波の方が強かった(何しろTVで7メガが受信出来たとか)(爆笑)

次は東京中野区江古田前出の3畳一間
西武新宿線「沼袋駅」から歩いて10分位だったか?

50メガのスリーブアンテナを物干しに建て細々と・・・

近くにはあの電蓄で聴いた「雪の渡り鳥」の歌い手「故MH」の豪邸があった。
「哲学堂」とか言う大きな公園がありTR-1000を担いで良く散歩に行った場所だった。

Y社へQSYと同時に川崎市中原区に引越し。
東急東横線とJR南武線の交わる「武蔵小杉駅」から徒歩5分!
6畳二間の安アパートの2階でがパーマ屋だったか?

アパートの屋根にTVアンテナ用の屋根馬と4mの物干し竿を使って建てた
7メガのインバーテッドVはショボかった
ALC論争の真っ只中FT-200で参戦!?

スーパーローカルには元の局免者で現在?だがJA1DCY,JA1NKV,JA1ROE,JH1FUX,JH1GJK,JR1SUJ,&JR1USM(那須塩原にQSYし現役)等々15~6局がいてローカルクラブを作った想い出がある。

次は川崎から千葉へ、そして現在の八千代まで・・・つづく

最初で最後

2007年04月22日 | アマチュア無線
プロジェクトスタートから1年半後の1975年6月、遂にその日はやって来た!
東京は九段の科学技術館で開催された第3回「JAIAフェア」会場の一画に
そのブースはあった

プロジェクトHFの「2020」と別プロジェクトの「2010」
初めてその全貌が明らかになった瞬間であった
が、これが最初で最後のお披露目会になろうとは・・・

物珍しさ見知らぬメーカーへの好奇心か?
それなりの反響があったのは事実である

その頃Y社は名機FT-101をマイナーチェンジしながらVer.Up FT-101Eへ、
翌年1976年にはFT-301を発売。

T社はALC論争勃発(?)機のTS-510の後継機TS-520それに高級機TS-900
1973年より発売しており1976年にはTS-820と次々に発表・発売

I社も同時期にIC-710と言うオールTRモデルを発売していた。

発表・発売から2年後ぐらいだったか?「天の声」が聞こえ

プロジェクトHFは完全に解散

U社に於けるアマチュア無線機器の製造・販売は社歴に小さな足跡を残し
その幕を閉じたのである。

中年暴走族Ⅱ

2007年04月21日 | アマチュア無線
ありました!?あのサニーの写真が(バックで見えにくいが)
これはU社入社後のS55年(1980)のある日伊豆にあった研修所(?)
へ行っての帰り道どこかのPAだったか・・・?

写真が出て来たところでA12エンジンのライトチューニングを
振り返ってみたい(順不動で全て同時にやった訳ではない)

***興味ない方は飛ばしてください***

1.点火装置をフルトランジスタイグナイターに交換
2.点火プラグ&コードをHi Spec品に交換
3.燃料ポンプを電磁ポンプ(510ブルのもの)に交換
4.IN・EXマニホールドのポート研磨
5.ヘッドガスケットを高圧縮タイプに交換(効果絶大)
6.ラジエーターのサーモスタット交換(オーバーヒート対策)
7.バッテリー・ダイナモの大容量化(モービルハムの必須アイテム)

ざっと思い出せるのはこのぐらいだがTS仕様(?)をめざして
富士スピードウェイに良く足を運んだのもこの頃か・・・

1978年5月から1年後の1979年6月に再免許試験1発勝負
1発では無理だったが3度目の正直で合格
TS仕様もどきのサニーにマークは微妙だった(笑)

最初の免許にオマケ(?)で付いてた自動二輪は無くなったが
再免許取得後は現在までの28年間○Pのお世話になることも無く
ズーット免許の色はゴールド