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団塊世代 のアマチュア無線家

開局からの想い出と最近の出来事

ゴルフ ・ IN PHL.

2007年05月22日 | 昭和回顧録
台湾の次はフィリッピンのマニラ

ホームはマカティにほど近いダスマリナス村のパライソ通りだった。


玄関脇の番地表示


プールのそばで??

とにかくフィリッピンは暑い国だ

早朝ゴルフが当たり前 (6時ごろのスタートでお昼前にはあがり)

昼食後の昼寝(良く眠れる)・・・夜はシネマスクウェアでパラダイス

休日の朝は、ほぼ毎週のように近くの格安GC(名前忘れた)へ

社内コンペはカンルバンGCが多かった(マカティから車で一時間強?)

あの若王子さんの誘拐事件があった所だ


まだ打ってないョ

何番ホールか覚えてないが・・・谷越えのミドルホール

ティーショットで200ヤード以上は飛ばないと谷底へ

落ちたボールに群がる現地の子供達がたくさん居た・・・



ゴルフⅤ

2007年05月19日 | 昭和回顧録
その時は以外に早くやって来た

ゴルフを始めて1年も経っていない

台湾高雄の出張から帰って間もなくの事だった

場所は市原市の「千葉セントラルGC」「市原GC」だった?

誰と行ったか?確かな記憶は無いが・・・

KT氏、JIT氏、WD氏、SMO氏、HD氏、OB氏・・・この辺の誰かと(笑)

誰と行ったか覚えてない位だから幾つで廻ったか?なんて全く???

ただ言える事は「H/C:36」の実力

グロス:108さえ切れなかった筈だ

台湾のゴルフ場しか知らなかった小生にとって

日本のそれは全てがすばらしいモノだった

きれいなクラブハウス、整備されたフェアウェー

手入れの行き届いたグリーン 何からナニまで・・・

バブル前年(1985)の当時、ビジターのプレイ料金は

食事込みで¥20000位は必要だった

今では¥10000弱でプレイ出来る所もあるそうだ









ゴルフⅣ

2007年05月18日 | 昭和回顧録
手にしたマイクラブはDAIWAの「アーノルドパーマー」だったか?

今ではプロでも使ってない様な難しいクラブだった

それでも嬉しくて 仕事帰りには打ちっぱなしの練習場へ通う日々

まだまだ日本でのコースデビューは10年早い

次の台湾出張は高雄 台中加工区から南梓新工場に移転

仕事はさておきゴルフバッグは海外出張時の必需品になっていた

高雄でよく行ったのは桃園GC(?)や観音山GCだったか・・・?

当時TWNの親分(?)だったHG氏にはお世話になりました

社内コンペでは上位人気の常連でシングルH/C

ゴルフの先輩達はみんなうまかった

飛ばし屋のKT氏、ゴルフ歴も長いOKA氏、高校の先輩でもあるJIT氏等々

今ではみんなOBになってしまったがお世話になりました

次回で日本デビュー








ゴルフⅢ

2007年05月18日 | 昭和回顧録
寮に置きっぱなし(?)だった誰かのクラブを拝借しいきなりのコースイン

確か台中の「CCK」だったと記憶しているが・・・

「CCK打ち下ろしのミドルホール」(グリーンの向うに滑走路)

野球のバットは散々握っては振り回してきたが・・・

ゴルフクラブを握るのは生まれて38年目にして初体験だった

クラブの握り方・アドレス・スウィング・・・全てに初心者マーク付き

泥縄式でゴルフ雑誌を拾い読み先輩達のナイスショットを

見よう見まねでその結果叩きに叩いてはっきり覚えてないが・・・

3ラウンド分ぐらい(72×3)を1ラウンドでの大叩き(爆笑)

日本では考えられないが 台湾ではそれが出来た事

結果的に「GOLF=ONE OF HOBBY」になってしまった

出張から帰国後直ぐの事だった

マイクラブを買いにOKA氏と御徒町に行ったのが記憶に新しい


ゴルフⅡ

2007年05月17日 | 昭和回顧録
ゴルフを始めたのは決して早くは無かった

今から23年前の昭和59年(1984)当年38歳の時

仕事で出張中の台湾で・・・始めての海外出張だった

同僚達は休みになると皆ゴルフに出かけてしまい


模範街の寮玄関


寮の庭にそびえる椰子の木1本

一人寮に取り残される日々が続いていた

それまでゴルフには全くと言って良いぐらい興味は無かった

スポーツと言えば野球しかなかった(釣りやボーリングもスポーツか?)

しかし当時の会社(U社)では会長(?)が大のゴルフ好き

役員は言うに及ばず幹部社員から平社員までゴルフ人口は2~3割

海外組にいたっては9割強のたしなみ率(?)

USAでJK・Nを日本でOK・Aを自社製品のCMキャラに使うほど・・・

そんな事はさておきゴルフのH/Cは始めた年齢値以下にはならないとか

言われて見れば納得せざるを得ない「100」を切れない理由が・・・(笑)

つづく。



ゴルフ

2007年05月16日 | 昭和回顧録
去年の春先10年振り位でコースに出た
総武CCの印旛コース(サントリーオープンの総武コースではない)

パーティーは仕事仲間の男2+女2(1人がメンバー)

昔取った杵柄「なんとかなるだろう」と練習もせずにぶっつけ本番

2~3回の素振り後 最初のティーショット

当たったスライス気味(?)ではあったがフェアーウェー右サイド

スタートホールをボギーで上がり「ほんとになんとかなる」

と思ったのは最初の3ホールまで・・・

だんだん体がほぐれるにつれスウィングに力が入り

老いた足腰はフーラフラ ティーショットはドスライス

セカンドでチョロって・・・寄せでシャンクルは・・・もうガータガタ

あがって見れば年齢×2(?)の大たたき

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次回からゴルフを始めた頃の記憶をたどってみたい





海釣り

2007年05月10日 | 昭和回顧録
===ブルブルッ=== 仕掛けから道糸そして竿先を通して伝わるこの感触

釣り人はこの一瞬を求めてジーッと待つのである・・・2分・3分そして5分!

キッ・キタアー間髪いれず竿をしゃくる竿先がしなりヒット確信

巻き上げるリールの重さが大物の予感  

以上は幸運にもヒットした時の話でいつもそうとは限らない(アタリすら無い時もある)

海釣りを始めて味わった「アノ瞬間・アノ感触」が忘れられずのめり込んでしまった

休日前夜から出かけての夜釣り・車中泊・潮周りと相談(?)しながら・・・

アタリを求めてポイント移動・・・ある時は波崎からスタートし銚子・飯岡から

九十九里浜を南下・・・横芝・片貝・一宮そして太東までなんて事もあった(笑)

始めた頃は春先から秋口まで毎週末のように出かけていたが

ここ数年は年に4~5回位に(年には勝てない)

お魚さんも世代を重ねるごとに危険予知能力(?)が発達し

餌だけ食って針掛かりしなくなった

趣味の・・・釣り

2007年05月09日 | 昭和回顧録
無線にオーディオ&パチンコに写真とインドアばかりであったが

アウトドアもそれなりに・・・その中から釣りをPick Upしてみたい。

初めての釣りは少年時代、田舎の小川での「ふな釣り」だった

ミミズを餌に投げ入れたウキの動きに全神経を集中させて・・・

回数を重ねているうちに釣れる場所(ポイント)が自然と解って来る。

川上から川下まで2km位の範囲でポイントを求めて行ったり来たり

その手法は釣り人万人に共通しているようだ

小学3年頃だったか近くの小川では物足りなくなって利根川の支流(場所は?)まで

近所のオヤジさんに連れられ自転車で一時間もかけて行った記憶がある。

少年時代の釣りはこれ位しか記憶に無い!(野球やラジオに夢中だった)

本格的(?)な釣りを始めたのは1975年頃か?(30年位前)

ローカルの無線仲間(元JA1HPH&Groop)と海釣りに行った

九十九里浜の北端・飯岡漁港が最初のポイントだった。

狙いは石持ち餌はイソメやサンマの切り身!

テトラポット(消波ブロック)の足場に四苦八苦しながら
投げ込んだ仕掛けを通してつたわる「アタリ」をジット待つ・・・つづく。

写真Ⅱ

2007年05月08日 | 昭和回顧録
エボ二ーカメラから始まったカメラハードも改ためて振り返って見た。

最初のカメラはマミヤ35(1963)高校時代まで使っていたが・・・

1967年にオリンパスペンEE(36×2=72枚OK)
このカメラはかなり長い間、実用した記憶あり(落として壊れたが)

現に20年後の1988年にミノルタのコンパクトカメラを買うまでは・・・

このカメラマックテレ・クォーツデートにはBF(悪い)な想い出がある

1989年DU(フィリッピン)駐在中の事だった

Magandang Babae(FBなYL)を写したままタクシーに置き忘れ

「間違っても拾得物として出てくる事は無かった」(今はどうか知らないが?)
同じカメラを買って1ヶ月もしない内に又もや・・・状況は全く同じ
懲りずに3台目(同じカメラ)を次の赴任地「香港」で買ったが殆んど使わず

一眼レフが欲しくなりニコンのF401QDを購入したがこれにもオチがある
日本での市場価格も調べずに「香港なら安い」と言う先入観で買ってしまった
後で解ったことだが、日本で買った方が4~5K円安かった(笑)

デジカメはSONYのDSC-P30が最初で130万画素だが不自由は無かった。

図体がでかいのと電池の持ちの悪さで数年前からカシオのEX-Z50現用中。

最近の写真・・・・①  ・・・・②  ・・・・③  ・・・・④***家の周りの花々***