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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

鳥羽殿、、、秘すれば安楽寿院、( ^_^)/~~~

秋風に誘われるように、洛中の南外れ、竹田辺りにある「旧跡鳥羽殿」を訪ねました。(^_^)

此の地は、白河上皇とその子息が権勢を振るった鳥羽殿の旧跡で、彼等の遺骨が眠る土地でもあります。m(._.)m

中でも、竹田駅至近にある真言宗智山派の寺院、「安楽寿院」には、白河法皇の子息である鳥羽上皇とその息子近衛天皇の陵があります。(^_^)

さて、この安楽寿院を巡る歴史的ゴシップがこちら、、、(≧∇≦)

鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(後の待賢門院)は、権大納言・藤原公実の娘として生まれました。
璋子は、7歳で父を亡くし、幼少時に白河法皇とその寵姫・祇園女御の養女として引き取られます。大変な美少女だったそうです。
1117年、璋子は17歳で白河法皇の孫である鳥羽天皇の元に入内します。その後天皇との間に5男2女をもうけますが、彼女には常にある噂が付きまとっていました。
それは、彼女が好色な白河法皇と入内前から男女の関係にあり、入内後も続いているのではないかということでした。
実際、入内前には他の貴族の息子との縁談があったのですが、璋子の素行にまつわる噂により破談となっています。
法皇と通じたというだけではなく、低い身分の者を屋敷に引き入れたりしたという話もありました。加えて、顕仁親王(後の崇徳天皇)が誕生した時、鳥羽天皇は「この子は叔父子(祖父の子)だからな」と言い、冷淡な態度を示したと言われているのです。
白河法皇が没すると、鳥羽上皇(天皇を譲位し上皇につく)が権力を握ります。彼は当てつけのように若く美しい妃(美福門院)を寵愛し、璋子はやがて居場所を失っていきました。
しかし、鳥羽上皇は彼女との間に7人の子がいましたし、愛情がなかったとは考えられません。
また、彼女が亡くなる際には屋敷に駆けつけ、泣きながら仏具を打ち鳴らしてその最期を看取ったそうです。
また、歌人の西行(当時は佐藤義清)も璋子を慕っていたと言われています。彼女と一度きりの関係を持ったという逸話まであるのです。
祖父ほど年の離れた法皇や鳥羽上皇、西行まで虜にした璋子。彼女に権勢欲はほとんどなかったようですが、彼女の存在によって天皇家が混乱したのは間違いありません。

というわけで、誰にも言えないが、周りの誰もが察している、、、当世の不倫と同じですが、事は天皇家、皇室ですから、現世なら、どれほどのゴシップだったでしょうか?(^_^)

秋晴れの下、兵どもが夢の跡を見渡しながら、世を問わず繰り広げられる愛憎のドラマに想いを馳せる一句。

「秘すればと安楽寿院秋の風」  祖谷馬関

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